終
どれほどの時が流れたのだろう。
幾つもの季節が過ぎ、色々なものが変貌を遂げた。
いつの間にか、山の木々の多くは切り倒され、木陰が涼しかったこの場所も、今では遮られることのない真夏の日の光が降り注いでいる。湖は沢山の藻や苔に覆われ、以前の面影はない。
あたしはここで、月代を待っている。
ずっとずっと待っている。
「ほほう。それでお前さんは月代とやらをずっと待っておるのか」
ふと気がつけば、あたしは見たこともない老人に月代のことを話していた。いつの間にか岸のほとりに座り込んでいたのだけれど、そのことに驚きはしない。近頃はこの山に足を踏み入れる人間は大勢いる。もう昔のような忌むべき山じゃないのだ。
それでも、この老人はきっと変わり者なのだと思う。人が来ることは珍しくはないけれど、あたしを見て逃げ出さない人がいたのは初めてだったから。それもあたしの話を聞いて、こうして普通にしている。
「それにしても、お前さんは月代とやらは怖くなかったのか? 湖の主とは、人外の者ではないか」
「怖くなんか……。月代は、いつも優しかったから」
あたしの返事に老人はにんまりと笑う。よっこらしょ、と言って立ち上がると、そのまま岸辺を歩き始めた。
「昔、昔な」
見た目の割に軽快な足どりで歩を進めながら、老人は口を開いた。
「まだ、花咲き誇る都がこの世で富み栄えていた頃、な。鬼が産まれたんじゃ」
「……え?」
足を止めることなく、見事に蓄えられた顎髭をさすりながら発された老人の声に、鬼という言葉が入っていることに、思わず反応してしまった。しかし老人はそれを意に介する様子もなく、相変わらず水際を歩き続ける。
「と言っても、なりが少し他の人間とは違うだけの、正真正銘の人間じゃ。しかし、鬼は都の人間達にこの山に追いやられ、命を落としてしもうた。……まだ元服前の少年であったわ」
老人の話に耳を傾けながら、鬼と呼ばれた少年に月代の姿を重ねた。鬼じゃないのに、あらぬ疑いで討たれてしまったこの湖の主の姿を。
「不憫で、ほんに不憫でのう。山神は少年に命を吹き込んだんじゃ……人ではなく湖の主としてな。人の世でなければ、白い髪も赤い瞳も目立つまいと思ってなあ」
「白い髪……赤い目……?」
大きく息を吐いて、呼吸を落ち着ける。何だか胸がざわついた。なぜ、この老人はこんな話をするんだろう。なぜ、あたしに――。
「だが、山神は間違ったのかもしれん。良かれと思ってやったことじゃが、あの少年が願ったのは生きることではなく、愛されることだったのだから。……再び、鬼と呼ばれ討たれてしまったなど、不憫でならん」
ちょうど湖の対岸に来た辺りで足を止める老人。その足元にあるのは――花。
「……お前さん、花は好きかな」 吹き抜ける風に揺れる花。赤く小さいその花は、あの時の花だ。月代に成人の祝いだと貰った、あの花。
「花になれたら、と月代は望んだのじゃよ。花ならば誰からも愛されよう、と」
老人はしゃがみ込み、花を愛おしげに撫でる。あたしは、その様子を見ながら足を踏み出せずにいた。
風が頬を撫で、湖面を扇いだ。さわさわと草が揺れ、花もまたそれに応えるように揺れる。
「おじいさん、あなたは……」
問いかけると、老人はまたにんまりと笑う。とても優しい、包み混むような笑顔。
今までの話が月代のことだとしたら、この老人は山神様なのだろうか。
「花は、ずっと前からここに咲いていたんじゃぞ。ずっと、お前さんの名を呼んどるんじゃ」
また、花が揺れる。
何かを話しかけるように。呼びかけるように。
「応えてやってくれんか」
老人が促す。あたしは、足を一歩一歩進め、花が咲くその場所に腰を下ろした。
目の前で咲く花。それは、やっぱりあの時月代に貰った花と同じものだ。凛として、愛らしい素朴な花。月代の目の色と同じ、赤い花。
あたしは胸元にしまい込んだ花を取り出し、掌に載せた。
「……花になれたら、と? そうすれば、愛される、と?」
別れ際の月代の顔を思い出して、涙が出た。もし、あの時もそんな風に思っていたのだとしたら、なんて悲しいの。
「……いつもいつもあたしのこと阿呆呼ばわりして、あたしが阿呆だったら、月代は馬鹿だわ。救いようのない大馬鹿よ」
言葉にしても、伝わってなかったなんて。
一緒にいたいって言ったじゃない。いくらあたしだって、何とも思わない人にそんなこと言ったりしないわ。
「あたしは、月代が花じゃなくたって……」
捨てられたあたしに声をかけてくれたのは、月代よ。
あたしを生きながらえさせてくれたのは、月代よ。
いつでも手を差し延べてくれたのは、月代よ。
一等大切な宝物をくれたのは、月代なのよ。
「あたしは、あたしは……」
ずっとずっと、待っていた。
でも、ずっとここにいたのね。
ずっとずっと、側にいてくれたのね。
「月代を愛してるのよ」
花であっても、花でなくとも。
あたしの気持ちには変わりはないから。
「ねえ、月代。聞こえてる――」
◇◇◇
宵闇を照らす月。
美しく空に佇むそれは、まるであの頃のあなたのようで。
あたしは花を抱いて眠る。
この腕に優しく抱いて、水底で眠る。
ねえ、月代。
あたしの名前を呼んで。
何度でも、何度でも。
ねえ、お願い。
了
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
こちらは和風小説企画参加作品なのですが、和風になっているかどうかは……どうでしょう。なっていればいいなあと思っております。
でも、初めての和風は書いていてとても楽しかったです。
それでは、もう一度。
拙い文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
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