第47話:リンデンハイムの小さな食堂、開店
約束の朝、まだ空が薄紫色に染まる時間から、二人は起き出していた。
「今日だね」
「うん」
短く言葉を交わすだけで、互いの緊張と高揚が伝わってくる。身支度を整え、厨房に立つと、いつも通りの手順で仕込みを始めた。湖魚を捌き、リンデン芋を刻み、香草を刻む。慣れたはずの作業なのに、指先がいつもより少しだけ震えている。
「お鍋、火加減これくらいでいいかな」
「ええ、ちょうどいいわ。今日は、いつも以上に丁寧にね」
「うん、わかってる」
普段よりも念入りに味を確かめながら、二人は小皿を並べていく。厨房の窓から差し込む朝日が、湯気の立つ鍋をやわらかく照らしていた。
棚の隅には、あの森で見つけた紫の花を乾燥させたものが、小さな瓶に詰められている。
「今日は、あのお茶も出してみましょうか」
「うん、せっかくだもんね。『花あかり』のお茶、って感じで」
琴音が瓶を手に取り、嬉しそうに笑った。店の名前の由来になった花が、こうして料理と一緒に振る舞われるのだと思うと、葵の胸にも自然と温かいものが込み上げてくる。
「大丈夫、いつも通りにやれば」
葵が自分に言い聞かせるように呟くと、琴音がこくりと頷いた。
『きょうは、とくべつなひ……!』
フィニが籠の中で、朝からそわそわと羽を震わせている。仕込みを終える頃には、窓の外がすっかり明るくなっていた。
「そろそろ、開けましょうか」
葵の言葉に、琴音は大きく息を吸い込んだ。扉を開け、看板に灯りをともす。「花あかり」の文字が、朝の光を受けて柔らかく浮かび上がった。
「これで、本当に開店ね」
しみじみと呟く琴音の隣で、葵も込み上げるものを堪えながら頷いた。
坂を上ってくる足音が聞こえたのは、それからすぐのことだった。
「約束通り、一番乗りじゃぞ」
得意げな顔で現れたのは、オズワルドだった。
「オズワルドさん……! 本当に、一番に来てくださったんですね」
「わしが嘘をつくと思ったか」
からからと笑いながら席に着くオズワルドに、葵は早速、湖魚のスープを運んだ。一口食べると、村長は満足げに目を細める。
「うむ、相変わらず美味い。これは繁盛しそうじゃな」
「そう言っていただけると、安心します」
「なあに、わしの舌は誰よりも正直じゃからな。世辞は言わん」
胸を張るオズワルドに、琴音がくすりと笑った。
「オズワルドさん、こちらもどうぞ。今日だけの特別なお茶なんです」
葵がそっと差し出したのは、あの紫の花から淹れた一杯だった。オズワルドは物珍しそうに湯気を覗き込むと、ゆっくりと口をつけた。
「ほう……これは、優しい甘さじゃな。飲むと、なんだか肩の力が抜けるような」
「森で見つけた花なんです。店の名前も、この花から頂いたんですよ」
「なるほどのう。『花あかり』とは、良い名をつけたものじゃ」
しみじみと頷くオズワルドの穏やかな笑い声に誘われるように、窓の外を通りかかった数人が、物珍しそうに店内を覗き込んでいく。
その言葉に背中を押されるように、次々と客が訪れ始めた。
「おーい、約束通り来たぞ!」
威勢のいい声で現れたのは、ガイルだった。今朝獲れたばかりだという魚を土産に持ってきてくれた。
「これも、良かったら使ってくれ」
「ありがとうございます、早速仕込みに使わせていただきますね」
湖魚のスープを一口すすると、ガイルは満足げに頷いた。
「うん、うちの魚がこんなに美味くなるとはな。漁師冥利に尽きるってもんだ」
「ガイルさんの魚だからこそですよ」
葵が微笑むと、ガイルは照れくさそうに頭をかいた。
「そういや、湖のほうにも噂が回っててな。今度、他の漁師連中も来るって言ってたぞ」
「本当ですか? それは嬉しいです」
「ああ。みんな気の良いやつらだから、よろしくな」
ガイルはにやりと笑うと、空になった器を名残惜しそうに眺めた。
「また魚、持ってきてもいいか」
「もちろんです。いつでも待ってますね」
ガイルと入れ違いに顔を出したのは、ロッタとハンス、そしてミロだった。
「開店おめでとう! うちの果物も、味見していっとくれ」
ロッタが差し出したのは、色づき始めたばかりの果実だった。ミロは葵の顔を見るなり、頬を赤くしながらも、まっすぐに歩み寄ってきた。
「お店、来たよ」
「いらっしゃい、ミロくん。ゆっくりしていってね」
琴音が微笑みかけると、ミロは小さく頷いて、椅子によじ登った。焼きたてのパンを差し出すと、ミロは頬を膨らませながら夢中で頬張った。
「美味しい?」
「うん……! すごく」
満足げに頷くミロの様子に、ロッタとハンスも顔を見合わせて笑った。
「本当に、良い店になったねえ」
ロッタがしみじみと店内を見回しながら呟いた。
「わしらも、収穫の頃にはまた顔を出すよ。その時は、もっと立派な果物を持ってくるからな」
ハンスが胸を張ると、ミロも真似するように小さな胸を張ってみせる。その仕草に、琴音は思わず噴き出した。
「ミロくんも、果物運びのお手伝いしてくれるの?」
「うん……! がんばる」
はにかみながら頷くミロの頭を、ハンスが優しく撫でた。
「あら、賑わってるね」
そう言って現れたのは、八百屋のおばさんだった。市場の合間を縫って、顔を出しに来てくれたらしい。
「三日前に聞いてから、ずっと楽しみにしてたんだよ」
八百屋のおばさんは、店内をぐるりと見回すと、満足げに頷いた。
「良い匂いだねえ。これなら、すぐに評判になるよ」
「おばさんが皆さんに声をかけてくださったおかげです。本当にありがとうございます」
「なんの、いいってことさ。こういう時はお互い様だろう」
そう言って快活に笑うと、おばさんは近くの空いた席に腰を下ろし、早速料理を注文した。
店内は瞬く間に、笑い声と食器の触れ合う音で満たされていった。厨房を行き来する葵と琴音の額には、うっすらと汗が滲んでいる。それでも、二人の表情はどこまでも晴れやかだった。
「すみません、こちらのスープ、もう一杯お願いできますか」
客からの注文に、琴音は元気よく返事をした。
「はい、少々お待ちください!」
湖畔亭に泊まっているという旅人や、噂を聞きつけたという近隣の住人たちも、次々と扉をくぐってくる。狭い店内は、あっという間に満席になった。
「あの、これは何のお茶なんですか? とても優しい香りで」
窓際の席の旅人が、興味深そうに尋ねてきた。
「森で見つけた花から作ったお茶なんです。店の名前も、そこから頂いたんですよ」
「なるほど、それで『花あかり』か。良い名前ですね」
にっこりと笑う旅人に、葵は誇らしさを覚えながら会釈を返した。
「こんなに来てくれるなんて……」
葵が思わず呟くと、隣で皿を運んでいた琴音が満面の笑みを浮かべた。
「すごいね、お母さん!」
厨房の鍋からは絶えず湯気が立ち上り、香ばしい匂いが店内いっぱいに広がっていく。
「琴音、チーズトーストの追加、お願い」
「はーい!」
息の合った掛け声を交わしながら、二人は忙しく立ち働いた。フィニも、目立たないようにしながら、空いた皿をそっと集めるのを手伝っている。
『みんな、たのしそう……!』
「フィニも、頑張ってくれてありがとう」
賑わいが一段落した頃には、日が傾き始めていた。最後の客を見送ると、葵と琴音、フィニは、静かになった店内で顔を見合わせた。
「本当に、たくさんの人が来てくれたね」
「うん……。夢みたい」
『みんな、やさしかった……!』
籠から顔を出したフィニが、しみじみと呟く。窓の外では、夕暮れの光が湖面を橙色に染めていた。片付けを終えたテーブルに並んで座り、三人はしばらく無言のまま、静かな余韻に浸っていた。
「私たちのお店、始まったね」
琴音がぽつりと呟くと、葵は大きく頷いた。
「ええ、本当に。ここまで、よく頑張ったわね」
「お母さんこそ」
顔を見合わせて笑い合う二人の頭上で、看板の文字が、最後の夕日を受けて静かに輝いていた。
『きょう、いっぱいお客さんきたね……!』
籠から出てきたフィニが、疲れた様子も見せずに嬉しそうに飛び回る。
「フィニも、たくさん頑張ってくれたものね。ありがとう」
葵がそっと手を差し出すと、フィニはその手のひらにちょこんと止まり、満足げに目を細めた。
片付けを終えた店内を、三人でゆっくりと見回す。空になった器、少しくたびれた看板、そして壁に飾られた小さな花瓶。どれもこれも、今日という一日の証だった。
賄い用に取り分けておいたスープを、葵と琴音は厨房の隅でそっと分け合った。使うのは、マルタから贈られた木製のスプーンだ。
「今日みたいな日は、これで食べたかったの」
琴音がスプーンを手に、はにかむように笑った。
「マルタさんにも、見せてあげたかったね。こんなに賑やかになったこと」
「うん……。きっと、誰よりも喜んでくれるだろうね」
遠く離れた場所にいる人を思い浮かべながら、二人はゆっくりとスープを口に運んだ。木の匙が唇に触れるたびに、木漏れ日亭で過ごした日々が、温かく胸に蘇ってくる。
「明日も、また誰か来てくれるかな」
「きっと来るわ。今日みたいに、賑やかな一日になるはずよ」
葵の言葉に、琴音は安心したように頷いた。窓の外では、湖面が茜色に染まり始めている。グランベルで紡いだ絆も、この町で新しく生まれた絆も、どちらも変わらず二人を包んでいる。長い旅の果てにたどり着いたこの場所で、新しい物語が、今、確かに始まっていた。
◇
それから数週間後、すっかり日々の営業にも慣れてきたある日のことだった。
開店当初の緊張も薄れ、常連客との軽口も板についてきた頃、扉の鈴が、聞き覚えのない賑やかな音を立てた。
「久しぶり、元気してたかい!」
弾んだ声とともに戸口に立っていたのは、懐かしい笑顔のマルタだった。旅装のまま、肩に大きな荷物を担いでいる。
「マルタさん……!」
驚きのあまり、葵は持っていた皿を危うく落としかけた。
「あんたたちの手紙を読んでから、居ても立ってもいられなくてね。宿の切り盛りを近所の子に頼んで、ちょうどこっち方面に向かうギルドの馬車があるって聞いて、ついでに乗せてもらったんだよ」
からりと笑うマルタに、琴音が真っ先に駆け寄った。
「本当に、来てくれるなんて……!」
「泣くんじゃないよ、まったく。相変わらず涙もろいねえ」
そう言いながらも、マルタは葵と琴音をまとめて抱きしめた。逞しい腕に包まれた瞬間、あの木漏れ日亭の温かさが、鮮やかに蘇ってくる。
「立派になったねえ、二人とも。見違えたよ」
込み上げる涙を堪えきれず、琴音がしがみつくように抱きついた。マルタはその背中を、優しくぽんぽんと叩いた。
琴音の籠の中から、フィニがそっと顔を覗かせた。マルタの姿を見つけると、嬉しそうに羽を震わせる。
『マルタ、ひさしぶり……!』
「フィニちゃんも、元気そうで何よりだよ」
マルタが目を細めながら手を振ると、フィニは籠から飛び出し、マルタの周りをくるくると飛び回った。
席に着いたマルタに、葵は早速、湖魚のスープを運んだ。一口食べたマルタが、感嘆の声を上げる。
「これは……! 腕を上げたね、二人とも」
「マルタさんに教えてもらったこと、たくさん活かせてます」
「そうかい、そうかい。それは嬉しいねえ」
目を細めるマルタの姿に、葵の胸に自然と温かいものが込み上げてくる。
「そういえば、あのスプーン、ちゃんと使ってくれてるかい?」
マルタに尋ねられ、葵は厨房の棚に目をやった。
「はい、毎日大事に使わせてもらってます」
「それは良かった」
ほっとしたように目を細めるマルタに、葵と琴音は顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
「今日はどちらに泊まられるんですか?」
琴音が尋ねると、マルタは事も無げに答えた。
「湖畔亭に部屋を取ってあるよ。しばらくは、ゆっくりさせてもらうつもりさ」
「それなら、明日もまた来てくださいますか?」
「もちろんさ。この味を、もう一度食べないで帰るなんてもったいないからね」
胸を張るマルタの様子に、葵と琴音は思わず顔を見合わせた。
日が傾き始める頃、マルタも名残惜しそうに席を立った。
「明日も、また寄らせてもらうよ」
「はい、お待ちしています」
マルタは葵と琴音の頭を交互に撫でると、湖畔亭へと向かって坂を下っていった。その後ろ姿が見えなくなるまで、二人は扉の前で手を振り続けた。
「本当に、来てくれたね」
「ええ。遠く離れていても、繋がってる絆はちゃんとあるのね」
夕暮れの光に包まれながら、葵と琴音はしばらくの間、その温かい余韻に浸っていた。
◇
翌朝、約束通りマルタが店を訪れると、その少し後を追うように、扉の鈴がもう一度鳴った。
「失礼します、お邪魔しても?」
戸口に立っていたのは、ギルドの眼鏡の職員だった。
「あら、職員さん……! どうしてこちらに?」
驚く葵に、職員は生真面目な様子で一礼した。
「遠方に移られた冒険者の方の登録状況を確認する、ちょうど良い機会でしたので。ギルド長から出張のお許しをいただいて、馬車を出してもらいました」
「本当は、あんたたちに会いたくて、無理やり理由をこしらえたんだろう」
先に席についていたマルタが横からからかうと、職員は頬を染めた。
「そ、そんなことは……」
図星を指されたような様子に、葵と琴音は思わず顔を見合わせて笑った。
「開店、おめでとうございます。噂通り、素敵なお店ですね」
「ありがとうございます。本当に、来てくださるなんて……」
「ギルド長にも、報告してきますね。きっと喜ばれるでしょう」
職員が扉に取り付けられた鈴に気づき、目を細めた。
「鈴も、早速お使いいただけたんですね」
「おかげさまで、お客様がいらっしゃるたびに、綺麗な音を聞かせてもらってます」
葵の言葉に、職員は照れくさそうに頬を緩めた。
三人分の湖魚のスープを並べながら、葵はふと胸が温かくなるのを感じた。遠く離れていても、こうして繋がっている絆が、確かにここにある。




