第25話:行商人が運んできた、遠い町の噂
市場通りを歩いていると、聞き覚えのある声が二人を呼び止めた。
「おや、葵ちゃんに琴音ちゃん! 久しぶりだねえ」
顔馴染みの行商人のおばさんが、荷馬車の陰から笑顔で手を振っている。
「しばらく見なかったけど、どこかへ?」
「ああ、隊商について、ちょっと遠くまで行商に出てたのさ。今日、こっちに戻ってきたばかりだよ」
日に焼けた顔には、旅の疲れよりも生き生きとした活力が滲んでいた。
「お土産話、聞かせてもらえますか?」
「もちろんさ。ちょうど誰かに話したかったところなんだよ」
「そういえば、体の調子はどうですか? 長旅は大変だったでしょう」
「ああ、平気さ。あんたに教わった保存食の知恵のおかげで、道中の食事にも困らなかったよ」
「お役に立てたなら、嬉しいです」
「本当に助かったんだよ。干し野菜、軽くて日持ちもするからね、隊商のみんなにも重宝されてね」
得意げに語るおばさんの様子に、葵も自然と頬が緩んだ。
おばさんは荷馬車の荷台に腰掛けると、旅の思い出を語り始めた。
◇
「今回はね、西の方まで足を延ばしたんだよ。グランベルからだと、馬車で十日ほどかかる距離さ」
「そんなに遠くまで……」
「その先に、湖と果樹園に恵まれた、それはそれは静かな田舎町があってねえ」
おばさんの目が、懐かしむように細くなる。
「湖の水は驚くほど澄んでいて、朝には湖面に霧が立ち込めるんだ。周りには果樹園が広がっていて、季節になると甘い果実の匂いが町中に漂うのさ」
「わあ……」
琴音が思わず声を漏らすと、おばさんは嬉しそうに続けた。
「食材も新鮮そのもの。市場に並ぶ野菜も果物も、ここいらのものとは一味違ってね。それに、あそこの人たちは本当に温かいんだよ。旅の商人にも気さくに声をかけてくれてさ」
「まるで絵本の中みたいな町ですね」
「本当にそうさ。あたしも、あんな場所で暮らせたらって、つい思っちまったくらいだよ」
懐かしそうに語るおばさんの言葉に、葵と琴音は思わず顔を見合わせた。
「静かで、美味しいものがあって、人が温かい……」
葵がぽつりと呟くと、隣で琴音も同じ言葉を噛み締めるように頷いていた。
「その町まで、グランベルからどれくらいかかるんですか?」
「馬車の速さにもよるけど、隊商と一緒なら十日ってところかね。途中、小さな中継の街もいくつかあるから、野宿ばかりって訳でもないよ」
「治安の方は、大丈夫なんでしょうか」
「隊商が定期的に通る道だから、比較的安全な部類さ。もちろん、油断は禁物だけどね」
葵の質問に、おばさんは丁寧に答えてくれた。
「町自体はそんなに大きくないけど、その分、みんな顔見知りでね。よそ者にも優しいところがいいのさ」
「今度、あそこの果樹園で採れた果実、仕入れてこようと思っててね。手に入ったら、また味見させてあげるよ」
「ぜひ、お願いします」
おばさんはにっこりと笑うと、荷台の荷物を整理し始めた。
「さて、あたしはこれから荷降ろしだ。またゆっくり話そうね」
「ありがとうございます。お仕事、頑張ってください」
軽やかに手を振るおばさんに見送られ、二人は市場を後にした。
◇
木漏れ日亭への帰り道、琴音は先ほどの話が忘れられない様子で何度も口を開きかけていた。
「ねえ、お母さん」
人通りのない路地に差し掛かったところで、琴音がようやく切り出した。
「さっきの町の話、なんだか私たちの夢みたいだったね」
「ええ、私もそう思っていたところよ」
湖のほとりで、新鮮な食材を使って、温かい料理を振る舞う――想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「霧の立ち込める湖なんて、前世でも見たことなかったな」
「本当ね。想像するだけで、幻想的な景色が目に浮かぶわ」
「果樹園もあるんだよね。りんごとか、桃みたいな果物、育ってるのかな」
「どんな果実か、想像するだけでわくわくしてしまうわ」
二人はしばらく、他愛もない空想を語り合いながら歩いた。
「グランベルも大好きだけど、世界はきっと、もっと広いのよね」
「うん。……グランベルだけが世界じゃないのかもね」
夕暮れの空を見上げながら、琴音がぽつりと呟いた。
その言葉には、これまでにはなかった、確かな重みがあった。
「でも、いきなり全部を決めなくてもいいと思うの。今日聞いた話を、少しずつ二人で考えていけたら」
「うん、そうだね。焦らなくても、きっと」
そんな会話を交わしながら歩くうち、見慣れた木漏れ日亭の灯りが、いつものように二人を出迎えた。
「ただいま」
「おかえり」
いつも通りの温かい声に迎えられながらも、二人の胸の中には、まだ見ぬ町への小さな憧れが静かに灯り始めていた。
◇
その夜、木漏れ日亭の自室に戻った二人は、窓辺に並んで腰掛けた。
夕暮れの残照が、少しずつ夜の色に変わっていく。
「お母さん、さっきの町の話、まだ考えてる?」
「ふふ、バレちゃった? ……ええ、正直、頭から離れないの」
「私も。湖のほとりで、果物がいっぱいで、人が温かい町……。想像するだけで、わくわくが止まらない」
琴音は膝を抱えながら、夜空に浮かび始めた星を見つめていた。
「私たち、ここまで頑張ってこられたのは、木漏れ日亭のみんなや、ギルドの職員さんや、市場のおばさんのおかげだと思うの」
「ええ、本当に」
「だから、ここを離れるって考えると、ちょっと寂しい気持ちもあるんだけどね」
「私も同じよ。マルタさんとお別れするなんて、想像するだけで胸が痛むもの」
「でも……」
琴音は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
「このままずっとグランベルにいるのも、それはそれで素敵だと思うの。でも、もし本当にお店を持つなら、色んな場所を見て、色んな食材や人と出会って、それを糧にしたいなって」
その言葉に、葵は目を細めて微笑んだ。
「琴音、いつの間にか、そんな風に考えられるようになったのね」
「えへへ、お母さんの背中を見てきたから、かな」
照れくさそうにはにかむ琴音の様子に、葵の胸がじんわりと温かくなった。
「でも、いつかは、もっと広い世界も見てみたいな。グランベルで学んだことを持って、色んな場所に行って、色んな人に温かいご飯を食べてもらえたら……」
琴音の言葉に、葵は静かに耳を傾けていた。
「不安がないと言えば嘘になるけれど……。でも、【住】の加護があれば、道中の寝床にだって困らないでしょう」
「そっか。テントでも一軒家でも、望んだ形の家を出せるんだもんね」
「ええ。しかも、中はちゃんと快適な空間が広がって、悪意のあるものは寄せ付けない結界まで付いているんだから」
「改めて考えると、本当にすごい加護だよね。もっと色んな場面で使っていってもいいのかも」
琴音の言葉に、葵は頷いた。
「そうね。今までは、いざという時のためにって、あまり頼りすぎないようにしてきたけれど……。長い旅になるなら、遠慮なく活用しましょうか」
「うん! 野宿の時も、雨の日も、安心して眠れる場所があるって、心強いね」
「それに、フィニの探知だって頼りになるわ」
「うん。二人と一匹なら、きっと大丈夫だよね」
「ええ。それに、焦る必要はないもの。準備を整えて、貯金もして、しっかり計画を立てながらね」
「うん……いつか、あの噂の町に行ってみたい」
琴音の声には、迷いのない、まっすぐな決意が滲んでいた。
葵はその横顔を見つめながら、静かに微笑んだ。
「そうね。いつか、二人で――ううん、三人で、あの町を見に行きましょうか」
「うん……!」
それまで静かに耳を澄ませていたフィニが、待ちきれない様子で身を乗り出した。
『いく……! フィニも、いっしょにいく……!』
目を輝かせながら、フィニが二人の間に飛び出してくる。
「フィニも一緒に行くって」
「ふふ、もちろんよ。三人一緒じゃなきゃ、意味がないもの」
葵の言葉に、フィニは嬉しそうに小さな体を弾ませた。
『あたらしいまち、たのしみ……!』
「まだ先の話だけど、少しずつ準備していきましょうね」
「うん! グランベルでの毎日も大切にしながら、いつかのその日のために」
「まずは、貯金と、旅の準備かしら。丈夫な鞄や、道中に役立ちそうな道具も、少しずつ揃えていきましょう」
「うん。あと、マルタさんやギルドの職員さんにも、いつか話しておかなきゃね」
「そうね。でも、それはもう少し計画が固まってからにしましょうか」
「賛成。今はまだ、私たちだけの秘密の夢ってことで」
くすりと笑い合う二人の様子に、フィニも嬉しそうに二人の間をくるくると飛び回った。
『ひみつのゆめ、わくわくする……!』
「フィニも、わくわくしてるみたい」
「ふふ、みんなで同じ気持ちなのね」
窓越しに見上げる夜空には、数えきれないほどの星々が瞬いていた。
思えば、この世界に降り立ったばかりの頃は、明日をどう生き延びるかで精一杯だった。
右も左も分からないまま、フィニと出会い、木漏れ日亭に出会い、ギルドで少しずつ信頼を積み重ねてきた日々。
そうして築き上げてきた確かな土台があるからこそ、今こうして、新しい一歩を思い描けるのだろう。
「お母さん、ありがとう」
不意にこぼれた琴音の言葉に、葵は小さく首を傾げた。
「どうしたの、急に」
「ううん。……いつも一緒にいてくれて、色んな夢を一緒に見てくれて。それが、当たり前じゃないんだなって、ふと思って」
「ふふ、それはこっちの台詞よ。琴音がいてくれるから、私も頑張れるんだから」
微笑み合う二人の間を、フィニがゆっくりと飛び回っていた。
グランベルという小さな世界で育んできた絆を胸に、三人の新しい夢が、静かに動き出した夜だった。
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