はじまり
そのトンネルに、名前はない。
かつて人々が往来したであろう旧道は、今では深い木々に覆われ、ただ黒々とした口を開けるコンクリートの塊だけが、忘れられたように存在している。地元では、いつからかこう呼ばれていた。『声喰いのトンネル』と。
「――ねえ、本当に一人で行くの?」
スマートフォンの画面越しに、恋人である拓也の心配そうな声が響く。高橋美咲は、生い茂る夏草を踏みしめながら、その不気味な入り口にカメラを向けた。ひんやりとした空気が、こちらまで流れてくるようだ。
「大丈夫だって。動画のネタ的には、こっちの方が絶対にバズるから」
『”ガチ”でヤバいと噂の心霊スポットに女子高生一人で突撃してみた!』
そんなありきたりなタイトルが、頭に浮かぶ。でも、それで良かった。ありきたりな日常が、このトンネルの入り口に立った瞬間から、遠い世界のことのように感じられたから。
「何かあったら、すぐ電話して。絶対だよ」
「分かってるって。じゃあ、ちょっとだけ行ってくるね」
美咲は一方的に通話を切ると、スマートフォンのライトを最大にして、闇の中へと足を踏み入れた。
外の虫の声が、嘘のように途絶える。ひんやりと湿った空気が肺を満たし、壁を伝う水滴の音だけが、やけに大きく反響していた。自分の心臓の音がうるさい。ライトの光が照らし出すのは、黒ずんだシミと、意味不明な落書きが延々と続く、無機質な壁だけ。
しばらく進んだ、その時だった。
トンネルの奥から、微かに何かの音が聞こえた。
最初は何かの聞き間違いかと思った。風の音か、あるいはどこか遠くを走る車の音か。だが、その音は確実にこちらに近づいてきている。
赤ん坊がむずかるような、か細い声。
老婆がすすり泣くような、湿った声。
「…誰か、いるんですか?」
震える声で問いかける。返事はない。だが、声はすぐそこまで来ている。
本能的な恐怖が、背筋を駆け上がった。動画のことも、好奇心も、全てが吹き飛ぶ。美咲は踵を返し、今来た道を、入り口の微かな光に向かって夢中で走った。
声が、すぐ背後で聞こえる。
もう、赤ん坊でも老婆でもない。それは、ただ、憎悪に満ちた、何か。
出口まであと数メートル。安堵しかけた瞬間、濡れた地面に足を取られ、美咲は派手に転倒した。手から滑り落ちたスマートフォンが、コンクリートを滑って数メートル先で止まる。ライトが明後日の方向を照らし、世界は一瞬、完全な闇に包まれた。
「…いや…いやっ…!」
這うようにして、スマートフォンの光へと手を伸ばす。
その光の輪の中に、それは立っていた。
人の形をしていた。長い黒髪が顔を覆い隠している。だが、その関節は有り得ない方向に折れ曲がり、まるで壊れた操り人形のように、ぎこちなくこちらへ一歩、踏み出した。
髪の隙間から覗く、二つの目が、美咲を捉える。
声が出ない。体が動かない。指一本、動かせない。
ただ、震える親指だけが、最後の力を振り絞るようにスマートフォンの画面に触れ、録画の赤いボタンを押した。
それが、高橋美咲という少女が、この世で認識した、最後の光景だった。