シェーバー
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」
「どうぞ、ごゆっくりご覧くださいませ」
「よかったら商品ご紹介しますよ」
都心の家電量販で従業員、各メーカーの販売員が張り切って商売をしているなか、片岡蓮は「シェーバー」が売れてしまうのではという恐怖におののいていた。
まだ夏の暑さが残る九月の半ば、片岡蓮は仕事を探していた。というのも四月から新卒で入社した仕事を辞めたからだ。その理由はパワハラ三昧の上司の溝に左ボディを食らわせるという成人男性としてあるまじきものだった。
幸い警察沙汰にはならなかったが、自主退職を余儀なくされた。とはいえ今更時給一千円ちょいで働くのもしゃくなので時給のいいバイトを探していた。
片岡はそう思い、求人アプリで時給の高い順に並べていたが、ガールズバーなどの女性限定の夜職ばかりだった。
そんな風に毎日求人アプリを更新していると一件良さそうなものを見つけた。
「今流行中シェーバー、NEFrau社のPOPSHAVE販売員を募集しております。時給三千五百円、昇級あり 。応募は以下のフォームからお願いします。オドバシキャメラ」
これしかない。
片岡はそう思った。家電メーカーの販売員は結構時給がいいと聞いており、接客はそこまで苦手意識もなかったからだ。
そう、そのメーカーが聞いたこともなく、なぜか家電量販店が募集しており、異様に高い給料に目をつむっても。
応募から数日後、片岡は都心にあるオドバシキャメラを訪れていた。面接室に行くまでに階段を降りたり、上がったり、セキュリティカードを何度も切った。さすが業界トップだと感心したのもつかの間、片岡は面接室へ通された。
「失礼します」
室内には副店長と書かれたネームカードを身につけた大野という五十代の男性がソファに座っていた。
「どうぞ、おかけください」
大野は緊張した面持ちで手を差し出しながら言った。
「失礼します」
片岡がソファに腰を下ろすと男は唇を震わせながら口を開いた。
「まず業務内容について説明させていただきます。片岡さん、あなたにはナフラ社が販売しているらしい商品の販売員としてシェーバー売り場に立っていただきます」
「はい、求人からもそう伺っています」
片岡は元気よく返事をした。
「変な話なのですが、その商品を売る努力などは特にしないでください」
「それはどうしてですか?」
「正直に言うと、その商品を売っているメーカーから強い要請があって今回求人をかけたのですが、あまり良い商品とは言えず、我々も中途半端に売れて契約が続くのも困るのです」
片岡は家電の業界についてはまったくの素人だったのでそんなこともあるのかと納得してしまった。
「なるほど。そういう事情もあるのですねわかりました、私は適度にサボりながら七時間突っ立て居たらいいのですね」
「はい、理解が早くて助かります。では契約書や店内のルールが書いてあるファイルをお渡ししますので一読して、後日私の元にサインをして持ってきていただいていいですか?」
「承知しました」
大野は片岡の返事を聞くと安心感からか笑みを浮かべていた。
出勤一日目
面接から一週間後、片岡はメーカーの販売員として初出勤することになった。
「初めましてこちらでナフラ社の販売員をさせていただきます。片岡と申します。これからよろしくお願いいたします」
片岡は胸元にNEFrauと書かれた白を基調としたジャンパー着用していた。
「豊村です。こちらこそよろしゅう。片岡さんは家電量販店初めて?」
自己紹介したのは他メーカーの販売員をしている関西弁で話す気のいい男だった。
「はい、そうです」
「家電量販店には独自のルールがあるからな、慣れるまで大変やけど何でもきいてな」
「そうなんですか。例えばどんなのがあるんですか?」
「まあだいたいの家電量販店がそうなんやけど、他メーカーの商品を見ているお客様に声をかけてはあかん」とか「待機中は両手を体の前で組まないとあかん」とかは共通やね。それと最近来た新しい店長が厳しい人でな、「店長が来た際は大きな声でいらっしゃいませ、ご来店ありがとうございます」と言わないと減点されて、態度によっては一発で出禁にされるから気いつけてな。厳しいけどルールやからな」
豊村はガハハと笑いながら答えた。
「なるほど。ありがとうございます」
その後も売り場にいる他メーカーの人たちや従業員の人たちに同じように挨拶を済ませた。
面倒なことは多いがそれらを守れば割にあう良いバイトだと片岡は思った。特に片岡はノルマなどという言葉とは無関係だったからだ。
そして片岡が担当する肝心の商品だが、比較的マイナーなメーカーが集まる棚の下段の右下にぽつりと置かれていた。
シェーバーには往復式と回転式があり、前者はトンネルのように逆U字型をした外刃とその内側にある弓形の内刃があり、深剃りできパワフルなのが特徴で、後者は三つに分かれたヘッドに円盤のような刃がついたタイプで肌に優しく動作音が静かなのが特徴的だ。
片岡が売るPOPSHAVEは往復式に分類されるシェーバーで刃の枚数は三枚、充電交流式の中国製で値段は三万五千円。他のメーカーが日本製で同じ機能があり、かつ充電スタンドやトリマー、洗浄機などがついて同じ値段以下で買うことができることを考えると大野が言っていたように良い商品とは言えなかった。
デモ機を使用した片岡も同意見だった。
「こりゃ売れないな」
片岡は自身が担当する真っ白なシェーバーを持ちながらつぶやいた。
初日は挨拶もほどほどにさっそく現場に立つことになったが、思いのほかいろいろなことを聞かれた。
「シェーバーの替え刃ってどこですか?」
「この商品もっと安くならないすか?」
「駅はどっちの方かな?」
「可以免税吗?(免税できますか?)
もちろんすべて他のメーカーや従業員の人に聞き、事なきを得たがこの辺も追々覚えていく必要があるだろうと片岡は思った。
定時になり、片岡がエレベーターに乗り込むと、同じようなメーカーの販売員が肩やら腰やらに手を当てていた。片岡もあちこちが痛かったので帰りの電車で近所の整体を調べていた。
それを踏まえても今日一日で二万四千五百円。週に二回とはいえ、片岡が生活していくには十分だった。
出勤二日目
片岡は豊村に各メーカーのシェーバーの特徴を教えてもらっているとレジ横にある黄色い紙に赤い字で書かれたセール広告が目に入った。
「POPSHAVE現在セール中! 三万円でお求めできます」
このことを従業員に聞いてみると今売り場にいる人間は知らないとのことだった。
一応従業員がバーコードを読み取って調べてみると金額はセールの値段通りだった。
片岡は「なんらかの伝達ミスだろう」と人ごとのように思っていた。
出勤三日目
この日はナフラから本社の者が来ていた。二十代後半の女性で百七十センチある片岡より頭一つ背の高いきれいな女性だった。
「お疲れ様です。ナフラ社より参りました中園です。本日はこちらの店舗の様子を見に来ました」
「片岡と申します。一週間前から働かせていただいています」
片岡は普段よりも声を低くし、ダンディに言った。
「どうですか?もう慣れましたか?」
「はい、皆さんに助けてもらいながらなんとかやってます」
「商品の方はどうですか? こんな機能があったら売りやすいとかありますか?」
「そうですね。悪い商品ではないと思うんですが他のメーカーが日本製だったり、付属品や刃の枚数とかそのあたりで負けてしまうところはありますね」
片岡は精一杯角が立たないように答えた。
「そうですか。参考にさせていただきますね。ありがとうございます」
女性は見本のような笑顔で答えた。
「あとこちら業務用の携帯なので仕事の際は忘れずにお持ちください。頑張って売ってくださいね」
「頑張ります」
片岡は会釈をし、女性を見送った。
その後豊村さんが声をかけてきた。
「きれいな人やな。でもナフラの本社の人なんて初めて見たわ」
出勤四日目
「What is the difference between these two ?」(これら二つの違いは何ですか?)
「オンリーカラー。ブラック、ホワイト」
片岡が外国人に片言英語で対抗しているとついに事件が起こってしまった。
商品が売れてしまったのだ。
初老の男性が商品カードを店員に渡し、ポイントカードを作るため紙に必要事項を記入していた。
片岡は彼を止めるため、彼の名前や住所が見えるほど近づいたがレジを担当していた従業員に怪訝な顔で見られたのでやめることにした。
売れてしまったのは残念だが自分に落ち度はなく、他のメーカーさんは「ようやく売れたね」と祝福してくれていたので片岡は気にしないことにした。
ちょうどそのときに副店長の大野が巡回に来ていたのでこのことを話した。
「すみません副店長、売れちゃいました」
片岡がはにかんで答えると大野はPOPSHAVEのセールが書かれた紙を見てつぶやいた。
「そうか前回より早いな……」
大野は右手で頭を抱えながら言った。
「まあ、あんまり売れないようにしてくれ」
「善処します」
出勤五日目
この日はこれまであった違和感がはっきりと形に表れた日だった。
「すみませんお兄さん、各メーカーの一番良いシェーバー、紹介してもらって良いですか?」
そう声をかけてきたのは髪を赤やら青やら緑やらとカラフルに染め上げた二十代の男性だった。よく見ると服装は有名なブランドもので固められていた。
「かしこまりました」
片岡は各メーカーの六、七万円するシェーバーの機能を一つ一つ説明した。
「ありがとうございます。じゃあ全部もらってもいいですか?」
「え?あっありがとうございます。でも全部なんてお金持ちですね」
「いやあ、実は僕、動画投稿で稼いでいて今回は「高級シェーバー剃り比べてみた」なんて動画だそうと思っていて」
そういうと男性は自身のチャンネルを見せてくれた。「カッキーのわくわくチャンネル」登録者は百万人を超えており、なかなか有名なようだった。
「そういえばお兄さんのメーカーの商品まだ教えてもらってないですね、それも買いますよ」
「いやあ、有名ブランドに比べられるとちょっと……」
「あっこれか、またまたー結構良い商品じゃないですか」
「え?」
「五枚刃の本体、刃ともに日本製で洗浄機とトリマーもついていて三万円。いいじゃないですか、比べがいありますよ」
そう言われると片岡はすぐに商品を確認した。
男性の言ったとおりのシェーバーが棚に飾られていた。
「お兄さんありがとねー」
呆然とする片岡をよそに男性は会計を済まし、片岡に向かって手を振っていた。
片岡はさすがに怪しく思い、従業員に確認を取った。
「ナフラ社って五枚刃のものなんて出していましたっけ?」
「何言ってるんですか。ナフラ社のPOPSHAVEは前からそれしか置いてないじゃないですか。変なボケしないでくださいよ」
女性店員はクスクスと笑いながら答えた。
出勤六日目
片岡が珍しく出勤前にネットニュースを見ていると、信じられないものが目に入った。
「人気動画投稿者柿崎さんが行方不明に。
捜査届を出され五日たっても見つからず」
「これってこの前、髭剃りを買ってくれた人か」
いやな予感がし、片岡は以前商品を買ってくれた初老の男性の名前を思い出し、ネットで検索した。すると小さな記事であったがその男性も行方不明になっていた。
ただの偶然だ。そう言い切れないほどこれまで奇妙な出来事が多すぎた。
片岡は出勤するとすぐさま大野を以前使った面接に呼び出した。
「あんた、俺に何を売らせている?」
片岡は語気を強めて言った。
大野は黙ってこちらを見ていた。
「あの商品を買った人間が短期間で行方不明になっている。シェーバーだって最初は三枚刃のたいした商品じゃなかったのに今では機能も他者の最新シェーバーに迫ってきている。明らかに異常だ、全部答えてもらうぞ」
片岡は解答をはぐらかしたらすぐさま手を出すつもりで言った。
「そうともナフラ社なんて存在しないし、このPOPSHAVEも普通のシェーバーじゃない、殺人シェーバーさ」
大野はあっさりと答えた。
「殺人?」
「ああ、これは買った人間を跡形もなく殺すんだ。おまけに売れなかったら勝手に機能が追加されて売れる商品になる。そのせいで他の商品も売れなくなるから家電量販店殺しでもあるな」
大野は少し笑いながら言った。
「じゃあなんんだ、あんたが黒幕じゃないのか?」
「当たり前だ!誰が好き好んであんなもん売るか」
大野は目の前の机をバンッと割れるような音を響かせた。
「だったら倉庫にでも放り込んでいたらいいだろ」
「やったさ。そしたら店長との面談中に目の前で……」
大野が何かを言いかけたそのときキュイインというモーターが回転する音が自分の背後から聞こえた。音の発生源を突き止めようと振り返ったが何もなかった。
視線を戻すとさっきまで話していた大野の姿はなく、彼のものと思われる靴のみが残されていた。
より正確に表すと靴と靴底に残された足裏の皮だった。
「もう始業の時間ですよ」
「うわああああああああ」
片岡はこれまでの人生で出したこともない声で叫んだ。
大声で叫んだ数秒後ハアハアと乱れた息を整え、機能停止していた脳みそを必死に動かし絞り出したような声で質問を投げかけた。
「あんた何者だ?」
「中園ですよ。もう忘れましたか?」
目の前の女性は以前と変わらぬ笑顔で答えた。
「ふざけやがって」
さっきまであった恐怖が怒りで少し緩和される。
「あっそうだ。片岡さん、やっぱりノルマを課しましょう。あった方がモチベーションも上がるでしょう。とりあえずあと二日で十台売ってもらいましょうか。もちろんそれを超えたらインセンティブで報酬も渡しますよ」
目の前の女性は左の手の平を右手でポンとたたき提案した。
「人を殺すシェーバーなんて売れるわけないだろう」
中園は不思議そうに首をかしげながら言った。
「なぜ売った後のことなんて考えるんですか? まあ未達のときは以前存在した店長や副店長と同じように対応させていただきますね」
怪物は最後まできれいな女性の仮面をかぶったまま脅し文句をいい、部屋から消えていった。
「いったいどうすりゃいいんだ」
片岡は肩を落としながらエレベーターへ乗り込んだ。
片岡は売り場へ到着するとまず例のシェーバーを確認した。
そこには六枚刃、日本製、洗浄機、トリマー、充電スタンドがつき、三万円という他者のハイエンド商品にも並ぶシェーバーがあった。おまけにそばにはパンフレットも置いてあり、製品のよさをこれでもかとアピールしてあった。
「進化してやがる」
「すみません、ちょっといいですか?」
そう声をかけてきたのは二十代ぐらいの若い女性だった。
「実は彼氏のプレゼントで髭剃りをプレゼントしようと思っているんですが、色々種類がありすぎてわからなくて」
女性は初めて見たシェーバー売り場に困惑している様子だった。
片岡は安堵した。指名買いで来ていないなら話し方一つでいくらでも買わないように誘導できるからだ。
「かしこまりました。では簡単にシェーバーの種類の方法から……」
それから十数分かけて各メーカーの特徴を説明した。
「というわけで往復式のものよりも回転式の方が肌に優しいので、もし彼氏さんの肌が弱かったりされていたら回転式のものがおすすめですね」
片岡は回転式のメリットを最後に強調することで往復式のいい印象を薄らさせた 。
「でも彼氏、結構髭濃いんですよね」
「ではこちらのメーカーが……」
キュイイン。
そのときPOPSHAVEの電源が人知れず、入っていた。
片岡の心臓は激しく動いていた。
片岡はなぜ動いたのかがなんとなくわかっていた。これは警告だ。
片岡は平静をなんとか取り戻し、商品を紹介した。
「こちらもおすすめですね。ナフラ社が出しているんですが、日本製の六枚刃でしっかりと癖髭も剃れますよ」
片岡は服の下で変な汗を出しながら必死に説明した。
「聞いたこともあります。有名ですよね。あーでも彼氏、ドイツ人なんで外国製の方が合うかも」
女性が少し自慢げに答えた。
その女性の背後には自社の商品が売れないかとそわそわしている豊村の姿もあった。
「ではこちらのメーカーでしたらドイツ製で深剃りも評判なのでいいかもしれませんね」
そういうと女性はドイツ製の他メーカーの商品を購入していった。
「片岡くん、ありがとう。今日ピンチやったから助かったわ」
豊村さんがお礼を言ってきた。
「こちらこそ、助かりました」
片岡も心の底から感謝を述べた。
出勤七日目
片岡は一晩中自分が直面している問題について考えていた。そしてシンプルな解答を得ることができた。
仕事を辞める。
労働の自由は憲法で保障されている。あの怪物に法が通じるかわからないが、回りくどく脅していることを考えると一定のルールはあるのだろうと片岡は考えていた。
ハンガーに掛けてあるスーツに手を伸ばそうとしたとき業務用の携帯に一件メッセージが入ってきた。
「自己都合の退職の場合、デモ機は買い取っていただきます。この意味がおわかりですね? 契約・ルールには従ってもらいます」
中園からのメッセージは片岡の希望を見事に打ち砕いた。
真っ暗な雲が空を覆う中片岡は最寄りの駅へと向かっていった。
片岡が売り場に行くと幸か不幸かあたりは激しい雷雨に見舞われた。
こんな日にわざわざシェーバーを買う者はほとんどおらず、片岡が接客することはなかった。
しかし、根本的な問題は解決していなかった。
殺すか殺されるか。
片岡は未だにこの二択の答えは出せていなかった。
そんな片岡の悩みをよそに従業員たちは愚痴を言い合っていた。
「今日ほとんど売り上げないから明日頑張らないとやばいですよ」
女性従業員は心配そうに言った。
「さっき見たけど店長も機嫌悪そうだったな。リーダー、すごい詰められてたし」
男性従業員も自身に火の粉が降りかからないか懸念していた。
片岡はPOPSHAVEをにらみつけながら掃除をすることを七時間続け、この日の仕事を終えた。
出勤八日目
約束の日から二日後、今日売り上げが十台未満であれば片岡は殺され、十台以上であれば大量殺人鬼になってしまう。
片岡はどちらの覚悟も持つこともできず、昨晩も寝ているか起きているのかわからない状態で過ごしていた。
重い足取りで店へ行き、眠い目をこすりながらタイムカードを切った。
フロアの過剰な量の蛍光灯に目を照らされ、どこかで聞いたことのある店員の宣伝文句を聞き流しながらシェーバー売り場へ向かった。
売り場は人で溢れかえっており、とてもじゃないが接客を免れることができる状態ではなかった。
シェーバーの置かれている商品棚を確認すると、そこには三枚刃から六枚刃の往復式のシェーバーと回転式のNEFrauと書かれたシェーバーがあり、それぞれ洗浄機や充電スタンドのモデルまであった。さらには旅行や出張に使えるコンパクトなものまでそろえられていた。
代わりに今まであった他社のマイナーなシェーバーは跡形もなく消えていた。
「いよいよだな」
片岡は誰にも気づかれないようにつぶやいた。
「すみません。ちょっといいですか?」
振り返ると眼鏡を掛けた男性がおり、その後ろにはキャリーバッグを引いている家族と思われる人物が七人ほどいた。
おそらくは中国人観光客だろうと片岡は思った。
「こちらの商品を紹介してもらっていいですか?」
男はナフラのの中でも一番高い商品を指さしていた。
片岡は返事をする代わりに頷いた。
「これらはすべて日本製ですか?」
「はい」
「これらは中国でも使えますか?」
「ええ」
「免税はできますか?」
「できます」
「ありがとうございます」
そう言うと目の前の男性は後ろの人たちにさっきのやりとりを中国語で話していた。
片岡は生きた心地がしなかった。
彼らの内の一人が商品を何個も指で指し、日本語を話していた男性に何かを言っていた。
片岡が地蔵のように固まっていると至る所で張り上げた声が聞こえた。
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」
「どうぞ、いらっしゃいませ」
「よろしければ商品、ご案内しますよ」
大声を出す店員をよそに店舗の制服を着た小柄な男性が売り場に向かって歩いてきていた。
その男のネームプレートには名前と店長という文字が書いてあった。
片岡は店長を見ると何かを思いつき、店長のいる方に向かっていった
中国人の男性が片岡に話しかけようと右手を挙げたとき、片岡は左手を少し後ろに引き店長のみぞおちに左ボディブローを放った。
「おえ」
店長はあまりの衝撃にえずいた。
あたりは先ほどまでと一転し、静まりかえっていた。
店長は体をくの字に曲げながら声を張り上げていった。
「出禁! 二度とくるな!」
憤怒の表情を見せる店長とは対照的に片岡は無表情でお辞儀をし、売り場を後にした。
その後片岡は店を出禁となり、都心のオドバシに出勤することはなくなった。
業務用の携帯には中園から他店への移動を検討する連絡がきていたが、片岡は無視していた。
そんな状態を続けているとナフラ社から解雇通知が届き、晴れて片岡は自由の身になった。
数ヶ月後片岡は彼女に連れられ再び都心のオドバシで買い物をしていた。
片岡はあの一件があったことから家電量販店には近づかないようにしていたが、この日は彼女から誕生日プレゼントをねだられたこともあり、渋々ついて行くことにした。
彼の持つ袋の中には彼女がねだった時計が入っていた。
「ちょっと私一階の美容コーナー見にいくからあんた興味ないでしょ? どっか好きなもの見ていいから」
彼女はそう言うとエスカレーターで降りていき、片岡を残していった。
片岡は何か見たいものはなかったがどうにもシェーバー売り場がどうなっているのか気になっていた。
片岡は怖いもの見たさで以前勤務していたシェーバー売り場をのぞいた。
そこにはナフラ社の製品とそれを売る白いジャンパーを着た販売員で埋め尽くされていた。
以前には三つほど主要なメーカーの製品があったがそのどれもがはじめからなかったかのように消えていた。
商品を紹介するモニターには見たこともない韓流スターを思わせる男性が映っていた。
「やっぱりか」
片岡は面倒ごとが起きてもいやなのですぐさま売り場から立ち去ろうとした。
「お久しぶりです。片岡さん」
聞き覚えのある声が背後から聞こえ、片岡は背筋が凍り付いていた。
そこには自分に殺人シェーバーを売りつけさせようとしていた黒幕がいた。
「あんたとはもう関係ないはずだが」
片岡は振り返ることもせずに言った。
「いえいえ、そのことはもういいのですよ、今日はお礼を言いたくて」
「礼?」
そのとき売り場にいた二人組の男性が話す声が聞こえた。
「最近ナフラっていろんな企業買収して大きくなってるよな」
「そうそう。業種問わずにとにかくでかくしててよく採算とれるよな。時計屋とか買収してどうすんだろうな」
中園はにっこりと微笑み片岡に言った。
「お買い上げありがとうございます」