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罪を犯したときに、人は後悔する。
どんなに努力をしても後悔を避けることはできない。人は一生その後悔を背負って生きていくことになる。だから、何に後悔しているか、がその人をあらわす。
私の中学では、必ず部活動に参加しなければならなかった。ギリギリまで私は入部届を提出しなかった。その時にやりたい部活がなかったからだ。放課後、担任に呼びだされて、担任が顧問だから、という謎の理由で私はバスケ部に入部させられた。当然のようにレギュラーになることはできなかった。全く試合に出れなかったわけではないけれど、全体を通してみれば、試合に出ている時間よりも、座っている時間の方がはるかに長かった。
あたりまえだけれど、試合に出たかったので一日も休むことなく部活に参加した。与えれたメニューだけではなく、プロ選手や上手い人の動画を観て、それを参考に練習もした。試合の後には必ず反省ノートを書いた。試合の録画映像も観た。私は誰より上手くなろうとした。トニカク頑張った。思いつくことは全てやった。けれど、試合にはでれなかった。
バスケ部に所属したことで、かなりの時間を座って応援しているだけの無駄な時間として浪費した。応援には意味があるとか、参加することには意味があるとか、こんないい加減なことを言う人がいるけれど、そういう人は大抵、何にも参加したことが無いか、参加しても一生懸命に取り組まなかった人だ。もしくは、人の心がない人か、レギュラーになれた人だ。
私は高校生になったときに、どの部活にも所属しなかった。時間を無駄にしないこと―――後悔しないことをしようと思った。けれど、何に後悔をしているのか私はわからなかった。後悔を生んだ根本的な原因がわからなかった。バスケ部に入ったことなのか、部活を辞めなかったことなのか、もっと練習をしなかったことなのか、それ以外のことはなのか。逆説的に、私にとって何が有意義で、何を得たのかわからなかった。そんなものは、無いのかもしれないけれど。
おそらく、私はレギュラーになって毎回試合に出ていたら、後悔はしなかった、と思う。ただ当時、どんなに努力をしても私がレギュラーになれる見込みがまったくないことを私は気づいていた。だから、後悔していことが少し不思議だ。
スポーツには、試合に出るために必要な、努力ではどうにもできないものがある―才能と技術だ。どんなに練習をしても、私よりも長くバスケをしている人――つまり、私よりも技術が高い人がいたらレギュラーになれない。
私の部活には、小学生の時からバスケをしている人が四人もいて、その人達はめちゃめちゃ上手かった。その人たちよりも上手くボールを扱う将来の自分の姿を、まったく想像できないほど上手かった。絶望的な壁が私と彼女たちの間にはあった。けれど、バスケは五人必要なので、席は一つあった。中学生から始めても座れる席があった。努力次第でレギュラーになれると私は思っていた。しかし、その席に座ったのは努力したものではなく、才能があるもの―――身長が高い人が座った。
その人はシュートもドリブルもパスも私よりもかなり下手だった。だから、ワンオンワンでその人に私が負けることなんて一度もなかった。技術でなら私は完全にその人に、最後の試合まで勝っていた。その人が私に勝っていたのは身長だけだった―――けれど、試合に出るにはそれだけで十分だった。
彼女は部の中で一番背が高く、他校にも彼女ほど背が高い人はいなかった。彼女には圧倒的な才能があり、私にはなかった。私は彼女たちに勝るものが何一つなかった。それでも私は練習した。
部活の顧問の先生は勝ちたい人だった。最も効果的に上手くなる方法は、練習ではなく、実践を積むことだ。そのため、試合で勝つために必要なのは、練習試合でも私や私のような補欠をほとんど試合に出さずに、彼女たちレギュラーに積極的に投資することだ。だから、たまに試合に出れたときは、すごく嬉しかった。頑張ろうという気持ちが溢れでた。当然、気持ちだけではどうにもならない。試合の動きと練習の動きは全然違う。練習で上手くても、試合で上手いとは限らない。だから、試合中にミスをする。そして、ため息をつかれる。そして、すぐに交代させられ、レギュラーへの道を断たれる。無様にベンチで声を出すことしかできない。
レギュラーのために用意された他校との練習試合の時間を十とすると、大会を意識した練習時間に九割五分ほど割り当てられ、残りの時間は私のような補欠同士の試合が行われる。ハッキリいって補欠同士の試合だからレベルが低いお遊び試合だ。そのため、顧問も真面目に見ていない。声をかけるとすればミスした時に、体育館全域に轟く罵倒を飛ばすときだけだ。レギュラーはこの試合に絶対に出ないので、哀れな私たちを軽食の肴にしながら観ている。試合中、クスクスという笑い声が聞こえてくる。私はそれに対して何も言うことができない。ただ、そこでも頑張るしかない。どんなに無様でも犬のようにボールに食らいつくしかない。
でも、いやだからそこ、この試合に出ると残飯を食べている犬のような気分になる。レギュラー達が使った後に、ほんの少しの時間だけ、補欠同士で試合をする。この状況を負け犬が残飯を食べている以外の適切な表現の仕方があるだろうか。惨めじゃない、無様じゃない、なんて言えるだろうか。外から見えれば、楽しそうだが、やっている本人たちは楽しくない。試合中に、ネガティブな言葉がチラつく。
家で両親に、今日は試合に出れたのか、活躍できたのか、を訊かれた時は特に惨めな気持ちになる瞬間だ。有罪確定の裁判を受けている気分だ。両親には、訊いてもいい権利がある。自分で稼いだ金で、わざわざ毎週のように試合に行くための交通費を払っているのだし、道具にも安くはない金がかかっている。娘の活躍を訊きたくもなるだろう。だから、そんなこと訊かないでなんて言えない。言ったら余計に惨めになる。「試合に出たよ。点数も取った。スリーポイントで三点。他で六点。まぁ、お遊び試合だけれどね」と言った後の両親のなんとも言えない顔を見ると死にたくなる。
スポーツの世界にはシンプルな宗教がある。試合に出たければ、練習して、上手くなれ。そして、試合で活躍しろ、だ。顧問の先生も言うし、他校の顧問も言うし、親も言うし、友達も言うし、プロの世界でも言われている。何一つ間違いはない。試合を勝利に導く奴が試合に出る。当然だ。顧問は、いじわるをして試合に出さないのではなく、下手だから試合に出さないだけだ。つまり、私は彼女たちより使えないヤツだ。惨めな負け犬ということだ。
だからだろう、最後の大会で私は、チームが負けたときに、まったく悲しい気持ちにならなかった。 むしろ、清々しい気分だった。負けた瞬間に、鎖から解放された気持ちになった。試合終了のホイッスルは私にとって、負け犬から普通の中学生へと変える福音だった。
この気持ちがわかる人は、かなり多いと思う。レギュラーになれる人より、補欠になる人の方が圧倒的に多い。レギュラーになれない人は、部活に所属している間、ずっと負け犬感覚に襲われる。マジで地獄だ。特に私のように、真面目に練習をしている人間にとっては。
途中で辞めればいいじゃん、と思ったかもしれない。
たしかにそうだ。
私は辞めることを選べた。
けれど、辞めれない。
部活に所属する補欠というのは、犯罪者に例えるとわかりやすい。犯罪者が刑務所から出たくても出れないように、部活は辞めたくても辞めれないのだ。だから、部活に参加し、練習するという選択肢しかない。当然、サボるなんて選択肢はない。
もし、辞めたいなんて言えば何を言われるかわからないし、辞めたら辞めたで、その後の学校生活でどんな酷い目に合うかもわからない。ありていにいえば、人権を失う。
一人辞めた人がいた。その人はバスケ部を辞めて美術部に入った。その後、彼女はひどいめにあわされた。本当に、犯罪者みたいな扱いをされていたし、周りの人は誰も助けなかった。当然だ。手をさしのべられるわけがない。手を差し出した瞬間に自分も牢屋に引きずりこまれる。彼女には友達がいたけれど、誰も彼女に積極的に話さなくなった。
可哀そうだと思った。
けれど、私は助けなかった。
助けられるわけがない。
何もせず、知らないふりをするしかない。
この世界に、救世主はいないのだから。
だから、一度部活に所属したら、その部活を最後までやり遂げるしかない。例え、学校のルールの上では問題なくても、モラルの上では問題だとみなされるルールがあるのだから。
だから、本当に、本当に、試合が終わり、家についた時、刑期を終えて刑務所から出てきた人のような気分になった。
これまでの人生で一番嬉しい瞬間だった。
けれど、すぐにネガティブな気分になった。
脳が騒いだ。
他の部活に参加すればよかった。
他人のことを気にせずに辞めればよかった。
中途半端に頑張らなければよかった。
もっと頑張れが別の結果になったかもしれない。
負け犬のまま終えただけで、時間も金も無駄にした。
お前はこのまま一生、こうやって生きていく。
一生無能で、生涯無価値で、永久に無意味な人間のままだ。
そうやって、人生を終える。
何者にもなることなく人生を終える。
その日は上手く眠れなかった。
実は試合で負けたことがショックだったからだ、という考えが浮かんだが、そんなことはなかった。それに関してはどうでもよかった。
二度とこんな思いはしたくない。
私はどこで間違ったのか考えた。
けれど、わからなかった。
レギュラーになれなかったことなのか、他の部活に参加しなかったことなのか、部活を辞めなかったことなのか、もっと他の技術の練習をしなかったのか、一体何が原因なのかわからない。
私はそれを曖昧のままにした。
言葉にせず、突き止めることもなく、答えを出さなった。
何もできなかった。
後悔しない選択を探した。
後悔しない三年間を探した。
バスケ部に入ったら同じことを繰り返すだけだと思ったし、他の部活でも同じ結果になると思った。実は私には、眠れる才能がある―なんて期待も抱かなかった。むしろ、余計なことはするな、同じ失敗をするな、と私の脳は私に言いきかせた。だから、部活の見学も、体験入部もしなかった。
それに、やりたいことがあった。
ずっと我慢して、思いっきりできないことがあった。
バスケを始める前から、私はフィクションの世界が好きだった。ジャンルもメディアも問わず好きだった。映画も、漫画も、アニメも、特撮も、ゲームも、イラストも全部好きだった。下手だけれど絵を描くのも好きだった。けれど、私の周りにはそういうものが好きな友達がいなかったから、私はそういうことを隠して生きてきた。
それに、そういうものが好きだった人は男女を問わずに気持ち悪いと言われたり、いじめと、とまではいかないけれど、かなりひどいことをされていた。いや―当人たちにとってはいじめだっただろう。
なんにせよ、怖かった。行為自体ではなく、それを受けている時の自分の気持ちを想像したら怖くなった。ただでさえ、部活で惨めな気持ちを味わっているのに、これ以上精神的な負担を増やしたくなかった。耐えられるわけがない。
だから、隠した。一度も、表に出さずに隠し通した。そのために、距離を置いた。
けれど、やりたかった。
高校ではやりたいことをやろう、そうやって自分が好きなことをやれば、あんな思いを二度としないと思った。映画を観たり、本を読んだり、絵を描いたり、小説を書いたりすれば、充実した高校生活になると思った。
こういう生き方をすれば、あんな思いは二度としないはずだった。
けれど私は同じ思いと後悔をした。
そういう出来事が起きた。
今回の出来事の結論を先に言ってしまうと、私は世界を救うことに成功した。
けれど、それは誇れることじゃない。
犯罪者が刑期を最後まで全うするようなものだ。
この物語は、私が世界を救う物語ではない。
罪人の罪の物語だ。
薬物など、依存症の治療の一環として、その薬物によって自分が犯した罪を、例えば、自分の子供を殺してしまった、車で人を殺してしまった、家族を崩壊させた、薬を得るために子供に薬を売ったなどなどを、赤裸々に話すというものがあるらしい。
依存症の人が二度とそれに手を出さないようにするために罪の物語を語るように、私は物語る。
同じ過ちを犯さないために。