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恋の終わり、ネクタイを解く

 



 部屋の荷物の整理をしていて、ハンガーにかかったまま何年も経ったであろう、昔のバイト先の制服と再会した。


 学生時代に夕方から夜まで働いていたそのコンビニは、店長の意向でアルバイトでもワイシャツとネクタイを着用する、そこだけ聞くとかなり堅苦しい職場だった。


 面接に合格した数日後、初出勤に向けてロッカーの前でワイシャツに着替えた後、自分じゃネクタイを巻けない事に気がついたんだ。


 初恋の人との出会いはその時。


 出勤時間ギリギリに事務室兼休憩室に駆け込んできて、そそくさと出勤の支度を整え始める、明るい髪色の大学生くらいの女性。


 彼女はロッカーの前で身なりを整え、鏡に向かって笑いかけ、自分が店員の姿に変身し終えた事を確認すると、ようやく俺の存在に気づいたようで、驚きのあまり素っ頓狂な声をあげていた。



「ぉわひゃ?! だ、誰?! 新しいバイトさん?!」


「あ、は、はい。 近藤っていいます」


「そういや店長がそんなこと言ってたっけな…。 うち5分前出勤だから、そろそろ出勤しないと遅刻だよ!」



 そう言った後、彼女はおもむろに俺のことを頭の先から足のつま先まで見回し、なにかに気づいた様子を見せ、ニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべる。



「おやおや? まさか近藤くん、ネクタイ結べないとか?」


「あ、は、はい…すみません」


「ふっふっふ。 ゆとりだねぇ」



 さして年齢の変わらなそうな彼女にそう言われ、少しむず痒い気持ちになりつつ、事実なので何とも言えなかった。


 すると彼女はおもむろに俺の目の前までやって来て、俺が手にしたままくたびれるだけだった布切れを奪うと、それを慣れた手つきで自分の首に回し、一瞬でよく見るネクタイの姿に変えてみせた。


 それを緩めて自分の首から外し、俺に渡してくる。



「はいよ。 これで締めたり緩めたりするだけでオッケーだから。 もし解けたら言ってくれれば、また結んだげるよ! ほら行こー!」



 俺はネクタイを受け取った後、休憩室を出ていく彼女の後ろ姿を、今まで感じたことのない感情を抱きながら見送っていた。


 彼女とは勤務時間がよく被り、最初こそ仕事を教わる立場だったが、半年もする頃にはお客様の居ない時間に他愛ないやり取りをするような仲になっていた。


 それまでの時間でわかったことは、彼女が恋多き女性だということと、俺は完全に異性として見られていないということ。


 彼女はその時々の恋人を必ずバイト終わりの迎えに来させるので、最初の半年だけでも4人は彼氏が変わっていたのを知っている。


 たまに彼氏の都合で迎えが来なかったり、別れてしまってそもそも誰も来ることの無いような日は、2人で帰る。


 そんな時にはバイト中じゃ絶対にしないようなプライベートな話もたくさんして、彼女の気分が乗った時には帰り道とは全然関係無い方向にある別のコンビニに寄り道して、ジュースと軽食を手に駐車場で3時間くらい話し込むような事もあった。


 そこでのバイトはそれなりに長くなって、一年半くらい働いた後の帰り道。


 迎えが居ない時だけに寄るいつものコンビニの駐車場で、成人したばかりの彼女はヤケ酒を煽ったあと、赤らんだ顔で俺の目を見つめてこう言ったんだ。



「あーあ。 近藤くんが彼氏だったら良かったのになぁ」



 俺は息を飲んで、手に汗を握った。


 夜風に運ばれて、彼女の髪の匂いが俺の鼻を通り抜ける。


 この一年半、ずっと思っては振り切っていた思いと言葉が、ようやく喉元まで出かかった。


 でも、それより先に、彼女の言葉が続く。



「でも、近藤くんはアタシみたいに軽い女、好きじゃないかー! そもそもそんな近藤くんだから、こんな風に気兼ねなく一緒に居れるんだもんね」


「あ…」


「変なこと言ってごめんねー。 困らせた?」



 ヘラヘラしながらそんな事を言う彼女を前に、俺の頭の中ではいくつもの心の声が暴れ回っていた。



「そんな事ないって言え!」


「残念! やっぱり脈ナシ! ドンマイ自分!」


「行け! 行け! 押せ! 当たって砕けろ!」


「この距離感が心地いいんだ。 背伸びしようとするな。 身の丈にあった関係でいよう」


「身の丈は自分が決めるんだ! 頑張れ俺! 限界を超えろ! 初恋だぞ! 熱くなれよォ!!」


「…近藤くん?」



 彼女の困ったような声で、はっと我に返る。


 俺は唾を飲み、汗でベタベタな手を握りしめて、勇気を出すことにした。



「あ、あの!」


「どした?」


「俺、おれ…俺! 先輩のこと…」


「あ」



 不意に彼女のスマホからテレビなんかでよく聴く洋楽が流れ始め、空気が一変する。



「えっと…。 気にしなくていいよ。 続けて?」


「あ、いや…。 大丈夫です、どうぞ」


「そっか…」



 そう呟く彼女の瞳は、何故だか寂しそうに下を向いていた。



「いつもありがとうね」



 こっちを見ずにそう言って、彼女はスマホを手にし、俺から少しだけ距離を置くと、誰かとの通話を始める。


 さっきまで話していたのとは全く別人のような、底抜けに明るく陽気な声。


 俺にはすぐにわかった。


 この声や振る舞いは、彼氏や彼氏候補の男と話す時の…”女”を出した時の、一番苦手な彼女の姿だった。


 バイト先に初めて迎えの男が来た時も、こうやって打ちのめされた。


 ちょっとギャルっぽい見た目なのに、意外と真面目でしっかりした彼女に惹かれきっていたバイトの初日、バイト帰りに目の当たりにした、その姿。


 男と腕を組み、ワントーン高い声で話し、バカみたいに大袈裟なリアクションで振舞ったり、ぶりっ子みたいに話したりする。


 こんな言い方をしちゃ悪いが、その瞬間、彼女は見た目通りの人間になるんだ。


 歴代の彼氏達は勤務中の彼女の、老人や子供に必要以上に親切に接する姿や、クレーマーに対して店長に丸投げせず、自分で真剣に頭を下げて対応する姿、不真面目なバイト仲間に毅然とした態度で店員はかくあるべきと説く姿を知っているんだろうか?


 俺だけが、彼女のその両方の姿を知っているし、彼女の誰にも言えない悩みを知っている。


 でも、誰にも言えない悩みを聞かせてもらえてたのは、俺が”誰か”と言うのに値するほど、しっかりとした一人の人間じゃなかったからなのかもしれない。


 悩みきった時に空に向かって叫ぶみたいに、なんでもないものにぶつけるつもりで、俺に話してくれてたのかもしれない。


 彼女のキャピキャピした声で男と接する姿を見る度に、そう痛感するんだ。


 そんなことを考えながら彼女の様子を見ていると、ジェスチャーで謝罪していることに気づく。



「あ、うん! うんうん! 大丈夫だよー! 今バイト帰りにコンビニに寄り道してただけだから! うん、あ、場所? えっとねー」



 俺は彼女にお辞儀して、そのままその場を後にした。


 その日は家には帰らず、わざと人の居ない方へとあての無い寄り道して、何とも言えない気持ちがマシになるまで時間を潰した。


 気づくと、スマホには彼女からの、「ほんとに、いつもありがとうね(&両手を合わせる絵文字)」というメッセージが届いていて、そのメッセージの上にあった、お菓子のおまけのキーホルダーを2人でお揃いにしたという他愛ない写真ややり取りとのメリハリがよく効いて、立ち直りがたい心の傷を負う羽目になった。


 カバンについていたキーホルダーをそっと外して、道の向こうにでも投げようとするけど、やっぱりポケットにしまって、深いため息をつきながら、その日は家路につく。


 その後もしばらくそれまで通りの生活が続き、やがて彼女は彼氏と同じ職場に就職が決まったとかで、コンビニのバイトを辞めることになった。


 最後の出勤の後、2人で休憩室で帰りの支度をしていると、どこか寂しそうだった彼女がおもむろに話しかけてくる。



「そういえば近藤くん、ネクタイの結び方は覚えた感じ?」


「あー…いえ」


「やば! もう大学生でしょ?」


「はは…2年になります」


「もう結んでくれる人は居ないんだから、ちゃんと覚えたら? 近藤くん頭いいし、その気になればすぐでしょ。 アタシでも結べんだもん」


「先輩は凄い人ですよ。 自分のこと、卑下しないでください」


「いやいや、ネクタイくらい誰でも結べっからね?!」


「ネクタイだけじゃなくて…人間としてもです。 今まで、ありがとうございました」


「えー。 そんなん言ってくれんのマジで近藤くんだけだかんなぁ。 なんか泣けちゃいそ! あはは!」



 そんなことを言いながら、彼女は既に涙目になっていた。


 彼女は男を見る目が無くて、よく彼氏から馬鹿にされたり、呆れられたりしてる姿を見かけていたから、俺はその事がずっと不満で。


 最後にそれを伝えられて、満足だった。



「俺、大学生の間はここでバイト続けるんで」


「今の彼氏と別れたら、また帰ってこいとか? バッカにしてぇ! 今度こそ幸せになんだかんね、アタシ! へへへ!」


「ははは」



 本当は、お客さんとしていつでも来てください、と言いたかったんだけれど、そんな厚かましいことは言えなかった。


 それが、先輩との最後の思い出だ。


 俺は結局、大学の同級生の恋人が出来て、その恋人に誘われた居酒屋のバイトをする事になり、コンビニのバイトは先輩が辞めた数ヶ月後に辞めた。


 もしかしたら、彼女はまた、あのコンビニで働いてるのかもしれない。


 そう思うこと自体が当時の恋人に悪くて、かつてのバイト先のことは、そこに関する何もかもをわざと考えないようにして過ごしてた。


 その時のことを考え出すと、まるで先輩と居れなくなった寂しさを埋めるみたいに恋人と居るようになったようで、申し訳なかったから。


 でも、それから更に何年か経って、今もハンガーにかけたまま残ってる、この結ばれたネクタイ。


 先輩に最後に結び直してもらった、なんでもない日の出勤前の時間から、時が止まったみたいにそのままの形だ。


 先輩、俺、先輩に結んでもらうのが嬉しくて、わざとネクタイの結び方を覚えなかったんですよ。


 なんて言ったら、また笑われそうだ。


 ふとネクタイを手に取って、そのままするすると指でほどく。


 ハンガーにぶら下がる布切れは、俺の中で何かひとつのことが終わったのを表しているようで、そこまでして、ネクタイもハンガーも不用品のダンボールには入れず、そのまま元あった場所に戻した。


 荷物の整理を再開して、引越し先に持っていくものをダンボール箱に詰める。


 先輩から交際における男女の問題を沢山聞かせてもらえてたおかげで、大学生の時に初めて出来た恋人とそのまま結婚までいけました、なんて、言ったら驚くかもしれないな。



「なに一人で笑ってんの? 兄ちゃんきっしょ」


「あ?! おま…勝手に部屋に入ってくんなっつの!」


「いいじゃん別に! どうせもう出てくんだから! あ!」



 いつの間にか部屋の戸を開けていた弟が、無遠慮に中まで入ってきて、思い出のネクタイを手にする。



「これ貰っていい? 今度始めるバイト、コンビニのくせにネクタイがいるんだよ!」


「え?」


「あれ、兄ちゃんも前に働いてたとこだっけ? おかーさーん! あのさー!」



 俺の返事を待たないまま、弟はネクタイを手に部屋を後にし、部屋の外からは弟と母さんの話し声が聞こえてくる。



「これ貰った!」


「あっら懐かしいわねえ! お兄ちゃん、このネクタイ何年も使ってたのよ!」


「何年もぉ? うっわ、まじかよ! ちょー臭そー! せっかく綺麗なお姉さんと働けるのに、こんなんつけてたらドン引きされるわ! ねぇおかーさーん、ネクタイ買ってよー!」



 聞こえてくる弟の言葉に、色々な事を思わされる。


 まさかな…なんて思いながら、俺は荷造りを続けた。




読んでくれてありがとうね。

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