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衝撃で


 心構えのない者にとっては、事件はいつだって突然なのだということを、俺は頭で理解していたはずなのだけれど、だからと言ってこれはあんまりだ。


 慎重というか臆病というか、小心者であるところの俺は、常日頃から、時間にバッファを持たせて登校することにしている。だから、駅にして五つは離れた場所にあるこの高校にも、始業時刻の三十分前には辿り着くよう毎朝動く。

 従って、電車に一本乗り遅れたとしても、この辺りは一時間に一本しか電車が来ない田舎というわけではないのだ、遅刻をすることはない。

 だのに。

 学校の最寄駅、改札口をICカードでするりと抜けた俺は、全速力で、一目散に、校門前のキツい坂を駆け上がる。一分一秒を無駄にしたくない、とにかく先を急ぎたい。

 屈強な自転車乗り以外は皆押し歩きするその坂を走るのは、五月の初め、まだ涼しい季節とはいえ、体が火照って仕方がない。

 暑いが、気にしていられない。「味」を感じる余裕もない。

 門を潜って校舎に突撃、靴箱を乱暴に開け閉めし、上履きを地に叩きつけ。

 テキトーに足を突っ込んだのち、廊下もガンガン突き進む。


「はぁ、はぁ……」


 教室に着く頃には、学生服の首回りは、すっかり湿ってしまっていた。気持ち悪い……かいた汗の原因は、体が火照ったからだけじゃない。腹痛時みたいな嫌な汗が、六割くらいを占めている。

 ガラガラガラ!

 と、扉を勢いよくスライドさせた。血走ってるだろう目を、ギョロギョロと走らせ。時計の指し示す時刻は、すでに八時を十五分も回っている。

 赤ん坊の歯並び程度には揃っているクラスメイトの視線が、こちらへ一斉に集まった。若干怯えた目の色は、音の出所が俺だと分かった途端に治まり、二人の女子がヒラヒラと手を振ってくる。

 入学してからすぐ話しかけてくれた子たち。無愛想にするのはどうかと思い、とりあえず、苦笑いして手を振り返しておく。振りながら、教室の中に三歩入り込めば、中学時代からすっかり聴き慣れてしまった男の声がかかる。


「どうした北海。そんなに急いでも、明日からの連休は早まったりしないぜ?」


 上手いことを言ったとでも主張したそうなしたり顔で、俺の中学からの知り合い、横田健介が近づいてきた。笑いのセンスは良くないが、気の置けない友人だ。

 彼のジョークに、クラスメイトたちは反応することもなく、会話や読書を淡々と続ける。


「もうちょっとリアクションあってもいいのに。そうは思わないか、我が友よ」

「うるさい。今の俺にノイズを処理する余裕はない」

「ノイズ……?」


 雑音扱いされたことが不満なのか、横田は悲しげな顔をする。子犬でも真似てるかの如くのこいつのこういう表情、いつもは無感情でいられるが、気の立ってる今、気持ち悪さを感じずにはいられない。「味」にも嫌悪感を覚える。

 なるほど、これが「不味い」か。


「もうちっとキャラを生かした反応をした方がいいと、この横田めは具申いたします『味覚少年』様」

「黙れカス。九堂はいるか?」


 未知の感覚を一つ経験して、されどエモーショナルな喜びに浸るということもなく、家臣の意見も一蹴してから、一も二もなしに尋ねる。

 見たところ、九堂の席には誰も座っていない。しかし、俺と同じく真面目なあいつは、高校に来る時間もやはり早い。いつもならもう来てるはず。

 トイレにでも行ったのか? すぐにでも確認したいことがあるのに。ホント、焦りとパニックの「味」で舌が焼け焦がれそうだ。

 黙れと言ったことについては後で謝るから、早く必要事項を話せ横田。

 ウズウズとして、切羽詰まっている様子の俺に気圧されたか、奴はおずおず、コクコクと頷いて。


「あ、ああ。さっき教室に入ってきたところだ……ほら、あそこで本を読んでるぞ」


 窓際の、一番後ろにある席。

 座る九堂はただ黙々と、カバー付きの文庫本を眺めている。


「おかしいな? あそこ、俺の席じゃないか? あいつが他人のテリトリーに居座るだなんて」


 腕を組み、首を傾げる。なんだか朝から、違和感しか仕事してない。

 どういうつもりだ? 彼女は自分の領分を侵されるのを嫌うし、なればこそ、「自分がやられて嫌なことは他人にはやらない」理論で、他者の領分に入り込むなんてこともしなかったはずなのだけれど。

 よって、「見たことがない、あいつ昨日何かあったのかな」と、質問の体を為した身内話に持ち込もうとしたら、笑う横田に遮られる。


「うん? いつものことだろ? 九堂がお前の机で読書をしているなんて」

「……は?」


 焦りとパニックに、困惑の「味」が付け足された。「苦い」。ジャワ島産の渋いコーヒーでも飲んだ気分だ。

 えぁ? 「いつものこと」だって?

 頬が引きつる。事実と異なる供述だ……なんだ横田お前、幻覚症状あったのか? 相談してくれればよかったのに、匿名で通報してやるから。


「照れ隠しはよせよ、イケメンのそれは実に見苦しい。おおい九堂! 愛しのお兄様が来たぞ!」


 バンバンと背中を叩いてくる横田は、すぐさま大声を出し、九堂を呼びつける。

 状況に着いていけない。


 愛しの、お兄様だって?

 なんだそれは、九堂から見た俺のことか?


 あり得ない、それこそ何かの冗談だ。

 ゆったりと顔を上げる九堂へと、苦笑いを差し向ける。きっと彼女は、クールかつ優雅に立ち上がって、背筋をピンと伸ばしてこちらにツカツカと歩いてきたのち、凡庸でつまらないジョークを放った横田の鳩尾に蹴りを入れる。


 そうに決まっている。

 だろ、お前はそういう奴だ。

 そういう奴だった、はずなのに。


「! お兄ちゃっ!」


 横田に呼ばれた九堂は、嬉しそうにそう叫んで……読んでいた文庫本を放り出し、障害物など知ったことかとばかりに、机の上を上靴で踏んで、俺のところまで直線に走ってきた。

 イメージ通りなのは、「背筋ピン」だけだ。


「とうっ」


 佐藤の机を足蹴にして、ふわりと宙に舞い上がり。

 ストンと、俺の前に落ちてくる。

 甘酸っぱい、「味」。


「……パンツ見えるぞ」

「大丈夫、お兄ちゃんにしか見えないように、スカートの動きを計算したので。キリッ」

「どんな最適化問題を設定すればそんな計算可能なんだ?」


 思いの外、常識的な受け答えが出来たものだから、この心の内の動揺を、悟られていることはないと思うが。

 誰だ、今、目の前にいる九堂は?

 いやもちろん、「九堂だ」としか答えられない阿呆な疑問なのだけれど、しかし、混乱の極致にある俺は、至極真面目に問い正したくなる。前後左右が不覚に陥り、意識を失い後ろに倒れて、病院に搬送されてしまった方がマシだという気分だ。

 狂ってるのは、俺か、周りか。

 落ち着け深呼吸だ、ちょっと思考を整理しよう。


 冷静沈着、成績優秀、才色兼備。横文字にしてクールビューティ。

 生徒会長になってしまえとでも拍手したくなる、記憶の中の九堂智音(ともね)は、そういう傑物少女だった。

 恒に凛とし、常にシャンとし、恒常的にストイック。

 十年来の幼馴染たる俺には、時たま弱々しい本音を晒すことはあっても、俺以外の人間の前で、凛々しく格好良い九堂スタイルを崩してしまったことは、俺の知る限りにおいてない。

 憧憬を集める存在だった。カリスマ的とまで言ってよかった。憧れまではしなくとも、俺も密かに尊敬していた。

 が、今のこいつの有様はなんだ?

 読書の姿勢はお世辞にも良くはなかったし、嬉しいという感情の発露はただのワンコだったし、机の上を歩き回るとか、いつもの九堂なら鋭い目で注意し、言葉の鉄拳制裁で咎めるほどの痴態である。

 何より。

 何よりだ。


「ところで、『お兄ちゃん』って呼び方は何?」

「? いつも呼んでるじゃない」


 記憶にございません。

 十年来の幼馴染にそんな如何わしい呼び方させる人間じゃないってこと、自分で自分を信じてる。「お兄ちゃんって呼ぶ私、可愛いでしょ」と追加の爆撃を食らって、思わず「可愛いぜっ」と食い気味に言いそうになるのを、掌に爪を食い込ませて耐えた。

 我ながら、鋼の理性。


「どうしたんだよ北海、熱でもあるのか?」

「横田、今の俺に熱があるなら、お前は日頃から健忘症だ」

「若年性!?」

「九堂、お前本当に、『九堂智音』なんだよな? なりすましとか、絶対ないんだよな?」

「当たり前でしょお兄ちゃん」

「俺とは腐れ縁?」

「そうよ。そうでしょ。何言ってるのよお兄ちゃん? 横根(よこね)の言う通り、今日おかしくない?」

「誰が性病によるリンパ節の炎症野郎だ。俺は童貞だ、じゃなかった横田だ」


 小首をきゃるんと傾げて、心配そうに尋ねてくる九堂。

 横田の扱いは相変わらずそうで安心したが、しかし、おかしいのはどっちだという気持ちが渦巻いて、喉元まで文句が出かかる。

 全てが全て、俺の知る、信じている「九堂智音」とまるっきり違っていて、大きく異なっていて、同姓同名に付け加えて同顔の、別人としか思えない。

 ゴクリと唾を飲み下し、肝心(かなめ)の、次なる言葉を投げかける。


「お前の父親は、『九堂智文』という名前で合ってるよな……?」

「え……」


 イメチェンの枠組みを大きく超えた、頭で処理仕切れない友人の変容は一先ず脇に置いておいて、聞きたかった、本当に尋ねたかった、核心たる質問。


「今日あの人が駅にいなかったのは、風邪でも引いたのか、それとも仕事が休みなのか……?」


 ああ、舌のすべてを緊張感の「味」が覆い尽くして、乾燥がカラカラと、口内全域を刺す。

 休みだよ、とか、風邪引いて寝込んでるよとか。

 事もなげにそう、答えてくれはしまいか。

 納得出来る理由ならなんでもいい、頼む。

 であれば、今朝から背負う心労が、全部杞憂で済むのだから。

 「九堂智文」を忘れた理由は、俺の頭がパッパラパーだからということで片付くのだから。

 お前のその豹変も、どうにかして受け入れるから。

 天に向かってひたすら祈るも。

 残念ながら、届かない。


「『九堂智文』って、誰?」


 さも知らなくて当然とばかりに、自らの父を誰何(すいか)する幼馴染。

 混乱する。ちょっと待って。


「なっ……?」

「きゃっきゃっきゃ、知ってるでしょ、私の家は、シングルマザー。お父さんはいない、でも」


 九堂は自分の、大きくくっきりはっきりとした瞳で、俺のことを見つめてくる。

 頬を上気させ、赤くして。


「強いて父のような存在を挙げるなら、お兄ちゃんのお父さん。お兄ちゃん」


 俺の片手を取り、頬へと持ち上げ擦り寄る少女。


「お兄ちゃんに助けられて、北海家にも助けられてきた。だから私もこの高校に来れた。ホント、感謝してるの」


 チュッと、物語のお姫様みたいに手の甲に軽くキスしてきて、同時に八時二十五分の予鈴が響き渡る。

 精神的衝撃。否、最早爆撃だった。

 自分の席に戻る幼馴染を、俺は呆然と見送ることしか出来ない。

 心ここにあらず、何処(いずく)にかあらん。

 予鈴が鳴ってすぐ教室に入ってきた担任教師に、名簿でコツコツ頭を叩かれ、なんとか現実に回帰、自席に座り込むものの。

 なんじゃこりゃ。

 二段構えとか、そんなのありか。


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