突然に
要約すれば、高校生になって初めての五月のこと、俺は「何もなかった」という理不尽に立ち向かい、抗い、命を賭けて対決し血を払って戦って、そして「何かはあった」という結末だけは、なんとか勝ち取ったということだ。
どうにか勝てた。
無「味」乾燥な空っぽだけは、絶対に嫌だったから。
◇◇◇
◇◇◇
味わい深いもの、味気ないもの。
基本的には、とにかく口に物を入れなければ始まらないはずのその感覚を、応用して、慣用句として、自らの心の内を擬似的に表現するのに、人はよく援用している。
独特の趣向に思わず唸らされた時には味わい深いと、
無難過ぎてつまらなかった時には、味気ないと。
中味の具体性に欠けるし、また「味」はあるのだが。
観念的に味が使われるのは、感動の描出だけではない。「意味」という言葉にも、二字目にそれが使われていて、恐らくだけれど、モノが特徴として持っている何かが、「味」として置き換えられているのだと思う。
味という語を直接用いなくても、甘いとか、苦いとか、酸っぱいとか、食事中でないにもかかわらず、例えば自他の人生だとか、環境だとかを喩えるのに使っている。
理解出来ない感性だ。
どうして舌で感じないのに、甘いだとか苦いだとか分かる? 分かっているフリをする?
オイタした生徒に対し、先生がちょっとの説教で許してやるのを人は甘いと言う傾向にあるが、でも必ず「甘さ」を感じるわけではない。真面目にやってきたにもかかわらず、努力が認められずに燻らざるを得ない時に、人は苦いと言うようだけれど、いつもそう感じるわけではない。公開告白して玉砕したクラスメートが「酸っぱい経験をした」などと言っていたこともあったが、現場を見ていて、そんな「味」は感じなかった。
俺は、感じなかった。
味はケースバイケースで変わる。
甘いと言われるからと言って必ず「甘さ」があるわけではなく、苦いと言われるからと言って必ず「苦さ」があるわけではなく、「酸っぱい」と言われるからと言って、必ず酸味で溢れているわけではない。
俺にはそれが分かる。
昔から……小さい時からどんなものでも、「味」を舐めとることが出来る俺は、味覚的な表現の限界を知っている。
自分にとって「味」はすべてのものに共通して等しく存在するものであり、まるで全身が舌であるかの如く、視覚嗅覚触覚聴覚、何にも優先して届く情報。常に隣にあるもので、そこに好みとかはない。
例えば「美味しい」とか「不味い」とか、俺には理解が及ばない。むしろ、舌で感じ取れる「味」以上の世界観は、俺には存在しない。
「味」に点数は付けられない。味とは「味」だ、それだけだ。
だからだろうか。
「未来くんって、『未来』というより『味蕾』よね」
仲の良い友達からは、そう評価されている。
名前の奇妙な被りは、たまたまだ。上手くも旨くもなんともないが、まあ俺も自分で、そう思う。
ただ単に、信号としての感知のみ。
俺、北海未来は、味蕾だ。
味の蕾として、常に仕事をしているのだ、勤勉にも休むことなく。
オートマティック。
俺にとって、「味」とは万物に宿るものであるから、必然、情報量の多くなる朝夕通勤通学時間帯の駅や電車は、もう参ってしまう。
まったく、あれは酷い文化だ。
これは普通の人も被っている疲労だろうけれど、確率的に動く遮蔽物というのはとにかく厄介だ。気を使いっ放しだ。まあそれは良いとして。
加えて、様々な人、様々な電車、様々な広告、様々な景色の「味」が、ドッと津波のように押し寄せてくる。
まさに氾濫。
喩えあのフォン・ノイマン(コンピュータの基礎を作った人だ)並みの情報処理能力が備わっていたとしても、これにテキパキ、スムーズに対応することなんて、出来やしないに違いない。
いや、ノイマンなら可能だろうか?
まあ良い。どうでも良い。とにかく、普通の人間と同じ通りに通学していれば、学校に辿り着くまでには疲労困憊。糖分不足で死ぬ。
中学まで徒歩通学だったから、偶に乗る電車くらいには、なんとか耐えられていたものの。
高校に入学して早々「やってられるか」と憤り、そこから一ヶ月弱で頑張って、死ぬほど頑張って、俺は「ブラインドウォーク」と自らそう呼ぶ技術を習得してしまった。
目を瞑って自由に歩く。
自分で言うのもなんだが、これは神業だ……見えなくなれば、感知される周囲の「味」の情報は三分の一以下に減少するのだけれど、代わりに、当然のことながら、視覚情報はまるっきり使えなくなる。楽になるのと引き換えに、「味」のみによって、自らを取り巻く環境状況を推理し、判断し、把握しなければならないのだから、最初はとても大変だった。
ともすれば、視界全開で冒険した方がまだマシだったほど。
しかし、険しい道の先に安寧のゴールがあると信じ、修行と試行錯誤を重ね、最近ようやく慣れてきた。学校でも常に目隠ししたいくらいだ。尤も「味」では、黒板に書かれた文字は読めないからしないが。
ところで今は通学中により、まさにそのブラインドウォークをいつも通りに実践しているところだ。ビクリ、誰かが驚いたような「味」がする。スイカ割りをしてるでもないのに、鉢巻で目隠ししてスイスイ歩いている輩がいれば、そりゃあ驚くだろう。
無理もない。
俺だって、「ブラインドサッカー」なる競技を初めて聞いた時には、びっくり仰天したものだ。見えているのにあえて見えなくするなんて、基本的には受け入れられない行動である。
でもまあ、人間とは慣れる生き物だ。何も見えていないはずなのに、慣れた足取りでプラットホームがベンチの、いつもの席に一直線に向かう一人の少年の姿だって、いつか駅利用者にとっての当たり前となることを信じよう。
いつもの席は、今日は誰も座っていなかったけれど、誰かが座っていたとしても、最近は譲ってくれることが多い。ぶつかられちゃかなわないとか、目の見えていない少年に席を譲ってあげようとか、そういう理由かもしれない。
ありがたいし、だが恐縮だ。
ドカリと座り、じーっとぼーっと、電車を待つ。
で、どういうわけか、ある違和感に気づいた。
あれ、いつもはする「味」がないな。
今日は感じない。
されど、と首を傾げる。理由が分からない。
ここで何か、「味」を感じる日常的な出来事、ルーティーンがあったかどうか、自らの記憶に尋ねてみても、何にも思い出せない。
我がメモリアルパワーには、結構自信があったのだけれど。
モヤモヤとして、気持ちが悪い。首根っこの辺りまでは出かかっているはずなのに、どうしても言語化出来ない。
「おかしいな。仕方ない」
鉢巻きを取り、学校まで基本封印の瞼を開く。
すると一気に、否応なく流れ込んでくる「味」、「味」、「味」……。クラリと酔うが、なんとか堪え。
周囲を見廻し、それからふと、横の空席に気づく。
ここが空いているのは、おかしい。
「味覚」がそう訴えてくる。
いや、ここの席は大抵いつも空席だったはず。
記憶は弱々しく、そう反論する。
脳内、突如として勃発した内紛に、ズキズキと頭が痛み出し。「味覚」が証拠を調査するべく、記憶野にズカズカと土足で踏み込んできて、荒れ狂い、暴れ回るイメージ。
記憶と「味覚」の逆流、再生される幼少の時分。その中で。
記憶の人物が本来持っている「味」と。
「味覚」の憶えるその「味」が、
厳然として異なっている。
決定的な齟齬。噛み合わなさ。
「あ、れ…………?」
横の空席にいつも座っていた、記憶にはないのに、「味覚」リストには載っている、その人物は。
「九堂の。親父……?」
上手くもない喩えで、俺を「味蕾」と称した友人である九堂の、父親。
駅で電車を待ってれば、通勤の時間が合うのか、いつも横に座っていて。
学校のある日は、取り止めもない世間話を、毎朝してなかったか?
ガタンゴトン。
ガタン、ゴトン。
プシュゥー……。
電車がやってきて、ティントントン、ティントントンという機械的だが愉快な音と同時に、ガタッと開く乗降口。
久方ぶりにダイレクトに感じる、電車の「味」。
しかし今、それどころじゃない。
「俺はなぜ、あの人のことを忘却していた……?」
顎に手を当て。
眼球震えて。
冷や汗流し。
「なんで『九堂智文』という男の存在が、記憶から抹消されていたんだ……?」
乗降口は無慈悲に閉まり、乗るはずだった電車は、駅から出発してしまう。
遮られていた朝日が、再びホームを照らし出す。
惚ける俺を、照らし出す。
電車が人をたくさん連れ去ったせいで、かなり空いたプラットホーム、その真ん中あたりにある、昔ながらの青白ベンチの前で。
固まったまま、動けない。
こうして。
「味覚少年」北海未来の、忘れたくとも忘れられない高校一年生の五月が、
幕を上げた。