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防風林の松  作者: 柳楽晋一
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第6章 道

第6章 道


 佳子がその電話をかけてきたのは、伯父と話し合ってから数日後のことだった。佳子の固い声と不自然な口調が、僕に強い不安をもたらした。

 僕たちは2週間近く会っていなかったから、どうしても会いたいという佳子の気持ちは理解できたが、佳子が望んだのはいつものようなデートではなかった。佳子は彼女の勤めている学校で会うことを望んだ。場所にこだわる理由を聞いても、佳子は答えなかった。佳子の意図がわからないまま、二日ほど先の日曜日に学校で会うことになった。

 僕はようやくにして決意し、佳子と絵里に向き合う態度を決めようとしていた。絵里を選ぶことに決めたわけではなかったけれども、佳子に対する負い目が強まって、心の負担を大きくしていた。そのような心境で佳子に会うのはつらかった。さらに僕の不安を強めたのは、佳子の声と口調が明らかにふつうではなかったことだ。学校で会うことに固執するのも不自然だった。日曜日までの二日間、僕は不安な気持ちを抱きながら過ごした。

 その日曜日は車を使えなかったので、早めの昼食をすませてから昼前には家を出て、バスで三鷹駅に向かった。電車を降りる武蔵野線の駅と、学校に近いバス停の名前は佳子から聞かされていたけれども、初めて訪れる場所だったので余裕をみておいた。

 佳子が教えてくれたバス停で降りると、すぐ近くに校門があった。約束の時刻には早過ぎたけれども、校庭で佳子を待つことにして校門を入った。

 校庭の奥には2階建の校舎と体育館らしい建物があった。樹木が校庭をとりまくように植えられ、それが建物のすぐ脇までつらなっていた。校舎に近いあたりだけが常緑樹で、校庭のまわりの樹はすべて桜だった。日曜日のその午後、校庭には誰もいなかった。はずれの方にベンチが見えたので、そこで佳子を待つことにした。

 ベンチの前に光るものが落ちていた。拾いあげようとして腕をのばすと日がかげり、眼にするどかった輝きがやわらいだ。

 落ちていたのはペンダントだった。拾いあげたペンダントを眺めていると、再び日がさしてきた。日ざしが雲の影を追って足ばやに校庭をよこぎり、校舎が日に照らされて一瞬のうちに明るくなった。日ざしをあびた校舎の近くに人がいた。校舎まではかなり離れていたが、こちらに向かっているのが佳子だとすぐにわかった。ペンダントをベンチに置いて僕は立ちあがった。

「ありがとう滋郎さん、こんなとこまで来てくれて」

 佳子は笑顔で声をかけてきたけれども、その声には固さがあった。2週間ぶりというのに、それほど嬉しそうな笑顔ではなかった。

 佳子の表情や話しぶりから、僕に対して重要な用件をきりだそうとしていることがわかった。用件をきいても答えないまま、佳子は校舎に向かって歩き出した。

 佳子が漂わせている雰囲気や態度に不安を抱いたまま、僕は佳子について校舎の中に入った。

 外来者用のサンダルに履きかえ、佳子とならんで廊下を進んだ。ふたつの階段を続けてのぼり、僕たちは屋上に出た。

 佳子はあたりを見まわしながら、その町や学校のことを話したが、僕の興味を引くようなものはなかった。民家にまじって小さなビルが散らばり、立ちならぶ建物の間で木々が枝をのばしていた。日本のどこにでもありそうな風景だった。そのような屋上で話しこむ人がいるのか、木製のベンチがひとつ置かれていた。

 用件をきりだそうとしないまま、佳子は学校やその町のことを語り続けた。僕はますます不安になった。

 佳子がベンチに腰をおろした。僕もその横に腰をおろして、身構えるような気持ちで佳子がきりだす言葉を待った。

「滋郎さん」佳子がこわばった声をだした。「私ね、妊娠しちゃった」

 思いもしなかった言葉に僕はぼうぜんとした。どうしたことだろう。気をつけていたのに、どこでまちがったのだろうか。それではいったい、自分はどうしたらよいのだ。佳子の横顔を見ながら、逃げ場のないところに追いつめられたような気持ちになった。佳子は膝に両手を置いて、うつむくように足もとを見ていた。

「ねえ、滋郎さん。どうしよう」

 佳子に問いかけられて、急いで答えなければならないと思った。僕が言葉を探していると、佳子が泣きだしそうにして言った。

「ねえ、滋郎さん。どうして黙っているのよ」

「びっくりしたよ。だって、そうだろ」

 言うべきことがまだあるはずだったが、適切な言葉が見つからなかった。

「どうしたの滋郎さん」佳子の声が泣いていた。「何か言ってよ」

「それで、どうしたいんだよ、佳子」

「私は・・・・産みたい」佳子が声をふるわせながら言った。

 うろたえていた僕を、その言葉がさらに追いつめた。どのように対応したらよいのかわからなかった。

 佳子が僕の左腕を両手でつかみ、顔を僕の肩に押しつけるようにして泣きだした。僕ははげしい不安におそわれた。佳子に大きな悲しみをもたらす何かが起こったのだ。泣いている佳子がいたわしかった。僕は佳子を抱きしめるようにしながら、悲しむわけを話すように求めた。

 佳子は泣きながらわけを話した。僕は愕然とした。僕が絵里とつき合っていることを、なぜか佳子は知っていたのだ。

 絵里のことを従妹の幸子が知って、それを佳子に報せたことがわかった。佳子と親しい幸子には、伯父に相談したことを知られたくなかったので、充分に気をつけるようにと伯父には念を押したつもりだった。それを守れなかった伯父をうらめしく思った。

 問われるままに僕は絵里のことを話した。同僚の妹と交際しているのは事実であり、その兄をまじえて演奏会に行くようなこともあるが、その人を愛しているわけではないのだと、僕は釈明し、そしてごまかそうとした。その人は本当に単なる知人かと聞かれて、僕はさらに嘘をかさねた。

「いいんでしょ、滋郎さん。産んでも」と佳子が言った。

 佳子と結婚しなければならないと思った。そのことを口に出そうとしたとき、絵里の面影がうかんだ。僕は急いで代わりの言葉をさがした。

「とにかく、身体に気をつけなくちゃな」

 うなずいた佳子の頬には新たな涙があった。佳子に心の中を見透かされているような気がした。

 僕は釈明の言葉を繰りかえしたが、佳子がいだいた疑念は消えそうになかった。悲しむ佳子の肩を抱いたまま、僕は途方にくれていた。悔恨の想いが胸で渦まいていた。佳子を悲しませている自分が情けなかった。

 近くで鋭い鳥の声がした。その鳴声に心の奥まで突き刺されたような気がした。僕をきびしく叱った鳥はテレビのアンテナにいた。風にゆれるアンテナで、鳥もいっしょに揺れていた。いつの間にか風がでていた。

 鳥の声をきっかけのようにして、僕はベンチから立ちあがった。とぎれがちの会話を続けることが苦痛であったし、ずいぶん疲れてもいた。佳子に対して釈明すべき言葉も、すでに尽きたような気がした。

 佳子の腕をささえながら、階段のおり口に向かった。階段をおりるときも、廊下を歩いているあいだも、僕は佳子をささえ続けた。校舎の横の出入口を出るまで、ふたりとも口をきかなかった。

 暗い校舎から外に出たとき、僕は戸惑いをおぼえた。自分たちはいま、何をするために、どこに向かえばよいのだろうか。そう思いながら佳子に顔を向けたとき、ふたりで話し合うべきことが、まだ残っていることに気がついた。

 校庭のはずれにベンチが見えたので、そこで佳子と相談することにした。僕たちはベンチへ向って校庭をよこぎった。人けのない校庭に白い猫がいた。僕たちを先導するかのように、猫もまっすぐベンチの方へ歩いていった。風がつちぼこりを巻きあげながら校庭をわたった。季節には早い枯葉が舞っていた。

 校庭に場所を変えてからも、佳子はうちのめされたように力なくうなだれ、ほとんど口をきかなかった。屋上での僕の狼狽ぶりを見て、佳子は絵里に対する僕の気持ちを見抜いたに違いなかった。僕自身も大きなショックを受けたばかりだったが、何をおいても佳子をいたわらねばならなかった。僕は佳子の肩を抱きながら、ほんとうに愛しているのは佳子なのだとくりかえした。自責の念にさいなまれつつ口にしたその言葉には、嘘や偽りは少しもなかった。そのとき、僕には佳子がこのうえなくいとおしかった。

 佳子の表情から険しさがうすれた。そんな様子にひと息つくと、絵里のことが気にかかってきた。絵里とはこれでつき合えなくなるのだろうか。これから絵里とはどうなることだろう。

 佳子がどうにか落ち着いたのを見て、そこでの話し合いを終えることにした。佳子と相談したいことがあったけれども、夕刻がせまっていたし、ふたりとも疲れていた。それだけが理由ではなかった。気持ちを整理しないままに、将来のことを佳子と相談するわけにはいかなかった。

 佳子は僕を駅まで送ると言った。今の佳子にまともな運転ができるだろうかと不安だったが、そのことを口にすることはできなかった。ほとんど口をきかない佳子といっしょに、体育館の裏がわにある駐車場へ向かった。

 佳子が運転する車で武蔵野線の駅に向かった。佳子の運転には不安を感じさせるところがなかった。佳子が無事に自宅へ帰れそうだとわかって、僕はひとまずほっとした。

 言いわけと慰めをかねた言葉を佳子に残し、僕は助手席のドアを開けた。いつもとはずいぶん違う別れかただった。

 どのようにして電車とバスを乗り継いできたのか、気がついたときには自宅に近い道を歩いていた。

 母は僕を見るなり具合でもわるいのかと聞いた。僕はひどく疲れていることに気がついた。母にお茶をすすめられて、ずいぶんのどが渇いていることがわかった。お茶を飲むとすぐに自分の部屋に入り、机の前にこしかけた。

 僕はいくども自分に問うた、自分はこれからどうしたらよいのか。どうしなければならないのか。そして思った、絵里を悲しませたくないし、自分もこのまま絵里と別れるのはつらいけれども、やはり、絵里との交際はやめるべきだろう。

 夕食のしたくができたと母が声をかけてきたとき、ようやく僕は椅子を離れて、灯りをつけないままの暗い部屋から居間へ移った。

 夕食をとっていると、屋上で泣いた佳子の姿が思い出された。佳子につかまれたときの腕の感触がよみがえり、佳子の悲しみが想われた。

「どうしたの、滋郎。元気がないみたいだけど」母が心配そうな声をだした。

「心配ないよ、ちょっと疲れてるけど」と僕は答えた。

 母がお茶の準備をしていたが、食事を終えるとすぐに自分の部屋へ移った。父と兄は帰宅が遅くなるということで、家にいたのは母とふたりだけだった。母のお茶につきあえればよかったのだが、そのようなゆとりはなかった。

 どんなに時間をかけて考えようが、選ぶべき道は最初から決まっていた。自分を納得させるための儀式を終えることにして、僕は自分に言って聞かせた。佳子との結婚を急ぐことにする。絵里には事情をつたえ、これ以降はつきあわないことにする。そのように自分を説得してみたものの、絵里に対する想いが胸中を行ったり来たりしていた。

 僕は思った。自分がほんとうに望んでいたのはどんな結末だったのだろうか。もしも佳子が妊娠するようなことにならなかったら、絵里を選んだのかも知れないではないか。心の中で絵里に言い訳でもするかのように、そのような感慨が胸の底を流れた。

 なるべく早く絵里に事情を伝えようと思った。どんなやり方をしたところで、絵里を悲しませることに変わりはなかったが、できるかぎり絵里を傷つけないようにしなければならなかった。佳子と別れることができないのであれば、いずれは絵里を悲しませる結果になったはず。ということは、こうなることを承知のうえで、絵里と付き合ったことになりはしないだろうか。もしもこのことを絵里が知ったら、絵里はどんなに傷つくことだろう。佳子が妊娠したために、止むを得ず絵里と別れることになったのだと、絵里には思わせねばならない。佳子が妊娠したことは、絵里にとって、そして僕にとっても救いになった。優柔不断な態度をとりつづけた僕に対して、何者かが僕に決着のための手段を与えてくれたのだ。僕自身は自業自得の痛苦に耐えるしかないが、佳子と絵里はその悲しみをどのように受けとめることだろう。絵里と佳子に与えた悲しみをやわらげるため、とにもかくにも心を砕かねばならない。

 あの高原で絵里は幸せそうだった。あの日の絵里は、このような結果になろうとは予想もしていなかったはず。絵里の父親が病気にならなかったなら、ふたりはあのままホテルで一夜を過ごすことになり、結果としては、さらに大きな悲しみを絵里に与えることになったであろう。絵里の父親が病気になったのは、単なる偶然のできことではなかったような気がする。もしかすると、僕たちふたりのために、絵里の父親は病気になってくれたのではなかろうか。僕が絵里を抱こうとしたとき、それを拒んで絵里は電話をかけようとした。絵里が電話をかけることにこだわったのは、父親の想いに応えようとしたからではなかったろうか。会ったこともない絵里の父親に、僕は感謝したい気持ちになった。

 みじめな気持ちを抱えて僕は椅子をはなれた。時計を見ると零時二十分になっていた。絵里は眠っていると思われた。絵里はあの日のことを夢に見ることがあるのだろうか。もしも夢に見るのであれば、嬉々として草原をかけまわる夢であってほしい。八ケ岳の高原を訪れた日から、まだ一週間しかたっていなかった。そのことが僕には信じがたいことに思われた。


 夕方に降りやんだ雨が、アスファルトのくぼみに大きな水たまりを残していた。工場の通用門から出てゆく社員たちは、水たまりを避けてふたつに別れ、そこを通り過ぎるとひとつの流れに合流していった。

 坂田が姿を見せた。僕は坂田に合図をしてから、バス停や駐車場に向かう退出者たちとは反対の方向へ歩きだした。

 坂田には絵里を介すことなく直に事情を伝えたかった。そしてまた、坂田の助言を得てから絵里に会いたいという気持もあった。坂田に社内電話をかけて、定時になったら通用門で会いたいと伝えてあった。

 追いついてくるなり坂田が言った。「なんだよ、相談というのは」

 坂田とならんで歩きながら、僕は重い口をひらいた。

「困ったことがあってな、絵里さんとはつき合えなくなったんだ」

「どうしたんだよいきなり。何があったんだ」坂田が驚きの声を出した。

 坂田は僕が事情を話しはじめるより先に、「例の、前からつき合っていた人のためなんだな」と言った。

 僕はうなづいた。

「絵里のことを好きだったんだろ、松井。絵里はそう思ってるんだぞ。どうしてそんなことになるんだ」

 坂田の声には僕を責める響きがあった。

「じつはな、前からつき合っていたほうに子供ができたんだ」

 まわりに他の者はいなかったが、僕は声をひそめて言った。

 坂田は何も言わずに歩みを止めた。僕が立ちどまると、坂田は「そうか」と言って歩きだし、問いただすように「お前、ほんとに好きなのか、そのひとのこと」と言った。

 このような自分を坂田は軽蔑するだろうと思いながら、僕は「信じないかもしれないけどな、おれは、ふたりとも好きなんだ。絵里さんとはあの演奏会からのつき合いだけど、おれは絵里さんのことがほんとに好きだ」と言った。

 絵里に対する気持ちに偽りがなかったことを、坂田にはなんとしてでも知って欲しかった。そのための言葉をさがしていると、坂田が口を開いた。

「わるかったかな、絵里に会わせて」

「いや、ちがうんだ。おれがいけないんだよ。おれがいいかげんだったんだ」

「でもな、絵里にはかわいそうなことになるよな」

 坂田の声がまたもや僕を責めているように聞こえた。

 坂田はその日のうちに絵里に事情を伝えると言った。僕は感謝して坂田にそれを頼んだ。僕がいきなり絵里に話すよりも、坂田を介して伝えたほうが良さそうに思えた。絵里に会うつもりだと言い残し、坂田は寮の方へと歩いていった。

 坂田のうしろ姿を見送りながら、絵里とホテルに入ったことを、坂田には知られたくないと思った。そのことをふくめて、これまでの優柔不断な自分の態度を、坂田としては許せないことだろう。足早に遠ざかってゆく坂田を見ていると、坂田の信頼をすでに失ったのではないかと不安になった。

 僕は急いでバス停に向った。坂田と同じバスに乗り合わせることは避けたかった。

 次の日の朝、坂田は絵里に事情を話したことを伝えてきた。そのときの絵里の様子にはふれないままに、坂田は社内電話を切った。

 坂田のおかげで絵里に電話をかけやすくなった。とはいえ、電話をかけるには、絵里の都合を考えなければならなかった。絵里がまわりを気にしないで話せるのは、職場がざわつく昼休みにはいったばかりの時刻だろうと考え、12時になったらすぐに電話をかけることにした。公衆電話のボックスは、工場の通用門を出てすぐのところにあった。

 試作した材料の特性を調べながら、絵里にかける電話のことを考えた。絵里に語りかける言葉を考えているうちに、測定器の設定をまちがえてしまい、最初からやり直さねばならなくなった。

 昼休みの時刻が近づいていた。電話ボックスまで急いで行かなければならなかった。測定作業のあとしまつをしていると、事務室から電話が転送されてきた。受話器から絵里の声が聞こえた。

 絵里の沈んだ声に胸をしめつけられた。さいわいなことに近くには誰もいなかったが、僕は声をひそめて、あらかじめ考えておいた言葉を口にした。絵里が受け入れてくれたので、その夜ふたりで会うことになった。

 僕は昼食をおえると屋上にあがった。よく晴れていたけれども風があり、手すりにもたれていると肌寒かった。テニスコートの辺りでときおり歓声があがった。女子社員のかん高い声がもの悲しく聞えた。

 僕は手すりによりかかったまま、その夜の絵里との話し合いを想った。これまでの自分の態度を、絵里に向かってどのように釈明したらよいのだろうか。悲しむ絵里をどのように慰めたらよいのだろうか。絵里に伝える言葉はすでに決めていたけれども、それだけではまだ足りないような気がした。

 体をかすめるように風が吹きすぎた。11月の初旬にしては冷たい風だった。テニスコートにはすでに人影がなく、昼の休憩時間が終わろうとしていた。

 定時になるとすぐに工場を出た。自宅に帰り着いてから数分後には、車を運転して三鷹駅へ向かった。

 車の中で絵里を待っていると、ドライブをした日のことが思いだされた。あの日の絵里は、手にしたバッグを揺らして駆けよってきた。絵里が浮かべていた満面の笑顔を、僕はもの悲しく思いかえした。

 絵里が姿をみせた。車から出て手をあげたが、僕の合図に応えることもなく、絵里は歩調を変えないでゆっくりと近づいてきた。僕は車に入って助手席側のドアロックを解いた。近づいてくる絵里を見ていると、絵里を悲しませることになった自分が、腹立たしいほど情けなく思えた。

 絵里はドアをあけ、ひと言も口をきかずに助手席に座った。僕も黙ったまま車を発進させた。

 信号で止まっているとき、僕は事情を話しはじめた。すでに坂田から話を聞かされていた絵里は、僕の話を黙って聞いていた。とぎれがちな僕の言葉のあいまにも、絵里はほとんど口をきかなかった。

 植物公園に近い脇道に入り、交通量の少ない場所に車をとめた。街灯が少ないうえに道端に植えられた樹が光を遮っているため、ヘッドライトが消えたとたんに道は暗くなった。エンジンが止まって車の中が静寂につつまれると、言いようのない感情が僕の胸を満たした。絵里をふびんに思う気持ちと自責の念、そして未練な想い、そのうえさらに、ようやくゴールが見えたと思える奇妙な安堵感。なにものかに押しだされるようにして、僕は迷路の出口に辿りつこうとしていた。

 絵里の心のうちを想いつつ、僕はあらかじめ考えておいた言葉を口にした。そのようにして始まった会話は、僕の言葉のあい間に、ときおり絵里の低い声が挟まるようにして続いた。ふたりの抑えた声が、静寂のすき間をおし拡げるように流れては、言葉がとぎれてふたたび静寂がもどった。車の中が静かになると、一刻の時間も無駄にしないで絵里を慰めるべきだと、なにかに脅迫されているような気持ちになった。ときおり通り過ぎる車のヘッドライトが、フロントガラスを通して僕たちをまぶしく照らした。

 絵里は僕を責めるような言葉どころか、ひと言のぐちも口にしなかった。それだけに、絵里が口にしたその言葉に、僕は激しく責められているような気持ちになった。絵里は膝に乗せたバッグに眼をやったまま、つぶやくようにして言った。「松井さんには他にもつき合っている人がいること、はじめからわかってたけど、そんなふうにしてつき合ってたなんて思いもしなかったから」

 僕は返すべき言葉を探したが、すぐには見つからなかった。すると、それまでは短い言葉しか口にしなかった絵里が、グローブボックスを見つめるようにして話し始めた。ふたりで聴いた演奏会のこと。デートをしたときの思い出や、あの山陰旅行のこと。そして、絵里は僕に対する想いを口にした。

「松井さんと知り合ってからすぐだったのよね、松井さんのことを好きになったのは。もちろん初めは友達のつもりで・・・・・・だから私たちって・・・・私は気らくにつき合えたし、自分を飾らないでつき合えたんだと思うのよね。・・・・・・それでね、私には松井さんはとてもよく知ってる人で、安心してつき合える人、そんな感じの人になったのよね。今まではそんな人がいなかったのよ、わたしには。今までは、うまくつき合えるという自信もなかったからだけど」

 絵里は静かにそこまで話すと、「ほんとはね、よくわからないところもあるんだけど」と言った。

 すぐに僕を好きになったと絵里は言ったが、それは恋愛感情ということではなくて、僕に対して好感を抱いたということだろう。それは僕についても言えることだった。絵里との仲をその段階にとどめるために、佳子のことを絵里につたえなければならなかったが、僕はむしろそれを隠そうとした。僕を責めてもよいはずのそのことに、絵里は触れようともしなかった。

 甲府のホテルで絵里を抱こうとしたことが、僕に対する不信感を強めている虞れがあった。絵里の心の傷を少しでも浅くするために、そのことでも釈明するつもりだったが、それを口にすることはできなかった。ホテルのことを持ちだせば、絵里の気持をさらに乱すような気がしただけでなく、釈明することには後ろめたさもあった。あの日の僕は、絵里を抱きたいという想いに完全に支配されていた。僕は釈明する代わりにひたすら努力した、絵里に対する僕の気持ちにいささかの偽りもなかったことが伝わるようにと。

 絵里は僕を責めるような言葉を避けて、静かに話し合うことだけを願っているように見えた。内省的で優しい絵里の心のうちを想いながら、僕はただ絵里の傷を癒すことだけに努めた。そのようにして、絵里とふたりだけの最後のひとときが、路上に停めた車の中を流れていった。

 話し合いを終えることになり、僕がエンジンをかけようとしたとき、それをさせまいとするかのように絵里が口をひらいた。

「これでお別れなんて・・・・とても悲しいけど・・・・いままで、ほんとにありがとう」

 ひと言ひとことに気持ちを込めたような絵里の言葉が、僕の胸中にあらためて感情の渦をおこした。いとおしさと不憫さ、絵里に対する罪悪感と自責の念。

「ごめんな、こんなことになって・・・・・・ほんとに悔しいよ」

「あやまるなんて、そんなのはいや」はっきりとした口調で言ってから、小さな声で絵里は続けた。「私のこと・・・・愛してくれていなかったみたいだから」

 不誠実さをわびるような言葉を、絵里は聞きたくなかったのかも知れない。

 僕はあわてて言った。「おれはほんとに好きなんだよ、絵里さんのこと。それなのに、こんなことになってしまって・・・・くやしいけどな」

 膝のハンドバッグを見ているかのように、絵里は俯いていた。淡い光が絵里の涙を照らしていた。木の葉の影が絵里の顔にゆらめき、涙をいっそう悲しく見せた。フロントガラスにむけて眼をそらすと、ゆれる枝の彼方で灯が瞬いていた。

「絵里さんには幸せになってほしいんだ。世界一しあわせに」と僕は言った。

「世界一だなんて・・・・おもしろい人ね、松井さん」

 絵里が笑いながら話しているように聞こえたけれど、いかにも悲しい声だった。絵里の横顔を見ながら、絵里には本当に幸せになってほしいと痛切に思った。

「ほんとにそう思うよ、おれは。絵里さんには最高に幸せになってほしいよ」

 まだ言い足りないことがありそうに思えた。言葉をさがしていると、つぶやくような絵里の声が聞こえた。

「いつかまた、棚から荷物を落としたくなるかしら、わたしは」

 絵里を抱きしめてやりたかった。ハンドバッグに眼を向けたまま、絵里は身じろぎもしなかった。淋しげなその横顔が僕の胸を締めつけた。

「絵里さんには勇気があるから、いくらでもチャンスを自分で作ることができるよ。だから、思いきってやってみなくちゃ」と僕は言った。

「がんばってもうまく行かないことがあるけど・・・・・・運命の赤い糸でつながっていなかったのかな」

 またもや、絵里を抱き締めてやりたくなった。けれども僕は絵里に顔を向けることすらできなかった。

「運命の赤い糸と言うけど、もとから決まっているわけじゃなくて、自分でその糸を作るのかも知れないよ。先に相手を好きになったほうが、いろいろと相手に働きかけてその糸を作るのかも知れないからな。だから・・・・とにかく、これからもがんばらなくちゃな」

 絵里を励ましたつもりだったが、言いおえてから、むしろ絵里を悲しませたのではないかと不安になった。

「ありがとう、松井さん・・・・・・でも、私はだいじょうぶだから」と絵里が言った。「だいじにしてあげてね・・・・松井さんもがんばって」

 絵里がふいに僕から離れた存在になったような気がした。僕の中には、そんな絵里に声援をおくる心とともに、淋しさを感じる未練な心があった。

 三鷹駅の改札口で絵里とわかれた。うつむきかげんに歩いて行く絵里を見送りながら、その日の絵里の服装を、そのときになって初めて識った。

 絵里の姿が見えなくなった。地味な印象を与える絵里のうしろ姿が、自戒と自責の思いとともに胸に残った。

 駅の出口へ向かっていると電車がはいってきた。階段をおりる途中で電車が出てゆく音が聞こえた。これで良かったのだと、僕はあらためて自分に言ってきかせた。選ぶべきほかの道などありえなかった。僕は心の中で愚痴をこぼした。「自分を甘やかさなかったならば、絵里を悲しませずにすんだのだ。優柔不断で未熟な俺は、絵里と佳子に悲しい想いをさせることになってしまった」

 初冬を想わせる冷たい夜風の中を、僕は車をとめておいた場所に向かった。

 運転席に座ると、助手席に眼をひきつけられた。そこに座っていた絵里の胸のうちが想われた。見送ったばかりの絵里の後姿が思い出された。

 内気でひかえめな絵里だが、運命の赤い糸で結ばれているであろう人にむかって、いつか心を励ますことだろう、と思った。そうであってほしいと強く願った。運命の赤い糸という言葉を、僕はそれまで聞いたことはなかったのだが、絵里がそれを口にした瞬間に、それが意味することを想像できた。僕は思った、こんな結果になったのは、僕と佳子が赤い糸で結ばれているからだろうか。


 つぎの日の夕方、僕は工場を出るとすぐに電話ボックスに入り、佳子の家に電話をかけた。

 絵里との交際をやめたことを伝えると、ややあってから、つぶやくような佳子の声が聞えた。

「そう・・・・・・ありがとう」

 元気のないその声を聞いて、あてがはずれたような気がした。

 佳子の沈んだ声が続いた。「でも・・・・滋郎さん、無理していないかなって」

「そんなわけないだろ。俺がほんとに好きなのは佳子だし、佳子には責任だってあることだし」

「私に責任を感じて・・・・滋郎さんがその人とのつき合いをやめたのは、私に対して責任を感じているためなの?」

 佳子は声を低めて言った。その声の調子が僕をせきたてた。

「子供ができたんだぞ。おれが責任を感じるのは当たり前だろ」

 佳子はしばらく間をおいてから言った。「わかったわ。わるいけど、あとで私のほうから電話するから」

 僕はあわてて、「相談したいことがあるんだ」と言ったが、佳子はそのまま電話をきってしまった。僕は電話をかけなおそうとしたが、すぐに思いとどまって百円硬貨をポケットにもどした。佳子には電話を続けたくない事情があるに違いなかった。

 家に帰って新聞を見ていると、佳子からの電話があった。佳子の声の背後に車の走る音がきこえた。公衆電話からかけているのに違いなかった。台所にいる母に聞かれることが気になって、僕は声を低めて話さねばならなかった。

「さっきはごめんね。家の者が近くにいると気になって。滋郎さんのほうはかまわないかしら、この電話」

「今はだいじょうぶだ」

「相談って、どんなことなの」

「これからのことだよ。子供ができたんだからさ、結婚のことをどうするかとか、いろいろ考えなきゃならないだろ」

「さっき滋郎さんが言った責任のことだけど・・・・責任だけじゃなくて、愛してくれてるわよね、私のこと」

 佳子はいきなり話を変えた。僕はとまどいながらも、その問いかけには急いで答えなければならないと思った。

「あたりまえだろ。だから、結婚しようと言ってるんだぜ」

「もう一人の人には責任を感じないの」

 僕は急いで答えた。「つき合ってからいくらも経ってないんだぞ。つき合ったとは言っても、佳子とはまったく違ってたんだ」

「その人には私ほどには責任を感じないですむわけね」

 僕はひと言「うん」と答えてから、あわててつけたした。「ほんとに、ちょっとの間つき合っただけなんだよ、相談ごとにのってやったりとかさ」

「今度のこと、滋郎さん・・・・・・その人のことも・・・・ほんとは好きだったんじゃないの」

「佳子のためにつき合うのをやめたんだぞ。その程度のつき合いだったんだからさ、もう気にするなよ」

「それにしちゃ、あのときの滋郎さん・・・・ずいぶん深刻だったじゃない」佳子は決めつけるような言い方をした。

 低いけれども力のこもった声が、僕を強くなじっていた。佳子の悲しみと怒りを想わせる声だった。

 絵里が僕の心に深く入っていることを、佳子には中学校の屋上で見ぬかれていた。それだけに、僕は佳子に示さねばならなかった、本当に愛しているのは佳子なのだと。

 絵里との交際をやめたからといっても、そして、佳子の気持ちをほぐすための努力をしたところで、佳子との間にできたわだかまりを消すには時間がかかりそうだった。そのことを、僕はようやくにして強く意識した。

 土曜日には佳子と会いたかったが、佳子は約束することを拒んだ。土曜日の午後に僕の方から電話をかけるということにして、その夜の気まずい会話を終えた。

 従妹の幸子に聞きたいことがあった。幸子はどのようにして絵里のことを知り、佳子にそれをどのように伝えたのだろうか。それを知ったところで事態が変わるわけもなかったし、学校で佳子に会ってからの数日はそのことを確かめる余裕もなかったので、僕はまだ幸子に確認していなかった。佳子との会話をおえた後、幸子に電話をかけて事情を聞いた。

 幸子は絵里のことを母親から聞いたのだった。伯父が僕のことを伯母に話したのは、伯母の意見を聞いてみたかったからに違いない。幸子にそのことを報せないようにと僕が注意したことを、伯父は伯母に伝えなかったのだろうか。そうだとすれば、注意ぶかい伯父にしてはめずらしい不覚だったということになる。それにしても、幸子はどういうつもりで佳子にそのことを話したのだろうか。

「どうして杉本に話したんだ」と僕は言った。

「だって杉本さんにジロちゃんを紹介したのは私なんだもの、気になるのは当たり前じゃない。だから、杉本さんに言ったのよ。ジロちゃんには他にもつき合っている人がいるみたいだから、確かめたほうがいいんじゃないかって」

「それで・・・・それだけか、話したのは」

「それだけかって、どういうことよ。杉本さんと何かあったの」

「日曜日にだいぶとっちめられたよ、杉本に。だから、ノンちゃんがいろいろ言ったんじゃないかと思ってさ」

「そんなこと言ったって、私だって詳しいことを知ってるわけじゃないし。だから、さっき言ったように話しただけ。念のためにジロちゃんに聞いてみたほうがいいんじゃないかって」と幸子は言った。

 電話をおえるとすぐに自分の部屋に入り、佳子は幸子の話を聞いてどんな気持になっただろうか、と思った。幸子が伝えたことを深刻に受けとめた佳子は、僕を学校に呼びだして確かめようとしたのだ。不意をつかれて僕は動転し、絵里のことを露呈して佳子を悲しませることになった。

 慌ただしかったその数日をふり返っていると、夕食の支度ができたことを伝える母の声が聞こえた。


 土曜日の午後、佳子が家に帰りつく頃をみはからって電話をかけた。

「ごめんね、今日はだめなのよ」と佳子が言った。

「会わないって、どうしたんだよ。急いで相談しなきゃならないことがたくさんあるぞ、わかってるだろうに」

「わるいけど、今日はちょっと他に用事ができたから。あとで連絡するから」

 ほんの少し言葉をかわしただけで、佳子は僕との会話を終えてしまった。僕と話すことを佳子が避けているような気がした。重要な相談ごとがあるというのに、佳子は僕と会おうとしないばかりか、電話でも話をしないつもりらしい、と腹だたしく思っていると、ふいに絵里が心の中に現われた。暗い助手席でうつむいていた絵里が、そして、三鷹駅で別れた絵里のうしろ姿が思いだされた。絵里が佳子のように勝ち気な性格だったら、車の中での話し合いはどんなものになっただろうか。そんな想いが不意に湧いたが、強気な絵里を想像することすらできないままに、僕は束の間の空想からはなれた。

 佳子の態度はふにおちなかったが、その言葉をあてにして連絡を待つことにした。

 自分の部屋に入ってベッドの上に仰向けになり、佳子はどうして会おうとしないのだろうと思った。結婚のことなどを急いで相談しなければならないというのに、佳子にはそれよりも重要なことがあるのだろうか。

 天井を小さな虫がはいまわっていた。虫は少しだけ進むと立ち止まるように停止し、向きを変えて再び動きだした。そのような行動をくり返している虫を見ているうちに、その虫を部屋の外へ助けだしてやりたくなった。

 僕は新聞紙の上に虫を移すと、窓から外へ逃がしてやった。地面の上で一瞬とまどったような動きをみせたあと、虫は何ごともなかったかのように一直線に進みはじめた。植木のかげに入ってゆく虫を見ながら、虫にも心があるのだろうかと考えてみた。虫を観察していると意志を持って行動しているように見える。虫にも心のようなものがあるのかも知れない。僕が虫を外に出したのは、その虫が外界への道を求めて、けんめいに努力しているように見えたからだが、そんな事情を知ることもなく、もちろん僕への感謝の念など持つはずもなく、虫は植木のかげに姿を消した。


 小宮さんと対等に仕事をしていながらも、気持ちのうえではまだ新入社員だったから、僕は小宮さんを頼りにしていた。その小宮さんの異動が決まり、数ヶ月先には職場を離れることになった。小宮さんによれば、辞令がだされるのは翌年の一月だった。

 予期していたことではあったが、実際に小宮さんの異動が決まったことに、僕はつよい憤りをおぼえた。その頃になると、野田課長に対する嫌悪感はますます強まっていた。第一開発課を離れたかったが、小宮さんの異動が確定したために、スピーカーシステムの職場に移れる可能性はなくなった。小宮さんが去ったあとの職場を想い、僕は暗澹たる気持ちになった。

 将来が暗いものに思われ、どうしたものだろうと思案にくれていると、池田のことが思いだされた。池田のように大学院へ進学したらどうだろう。開発に関わる仕事に半年ほど取り組んだ結果、意欲を燃やせる対象ならば、スピーカー以外のことにも熱中できそうに思えた。大学院で学ぶうちには、自分が進むべき他の道が見えるのではないか。そして、執念を燃やし得る新たな目標を、そこでの数年間に見つけることができるのではないか。

 大学院に期待する気持ちは徐々に強まり、それが僕をとらえはじめたのだが、そのような自分に対する疑念もあった。課長を嫌って大学院を目指すというのであれば、ささやかな試練からすら逃げることになりはしないか。はたしてそれで良いのだろうか。


 佳子は僕の電話に応じようとしなかっただけでなく、電話もかけてこなかった。そして数日後、佳子からの手紙がとどいた。

〈・・・・・・・・あんなに悲しい思いをしたことはありません。滋郎さんが他の誰かを愛することなど考えたこともありませんでした。駅で滋郎さんと別れてから学校に帰って泣きました。こんなことになるとは今でも信じられない気持です。その人との交際をやめてくれたのですから、滋郎さんが私を愛しているというのは本当だと思っています。それでも私はとても不安です。私が妊娠したと言ったので、滋郎さんは責任を感じてその人との交際をやめたような気がします。ほんとうは私は妊娠していません。滋郎さんをだますつもりはありませんでした。私を愛してくれていることを確かめたかっただけです。滋郎さんが責任を感じて私と結婚するというのなら、私にはとても悲しいことです。滋郎さんと話し合えばわかると思いますが、こんなことになったので私はしばらく会いたくありません。会わないでいる間に滋郎さんにも考えてほしいと思います。滋郎さんが本当に私のことを愛してくれているのなら、私の言うことを聞きいれてください。私には滋郎さんしかありません。だから私は・・・・・・〉

 手紙を読んで僕はぼう然とした。佳子の嘘にどうして気がつかなかったのだろう。こんなことなら、あれほどに急いで絵里との交際をやめることはなかった。絵里の涙が思いだされた。佳子の嘘が腹だたしかった。佳子が嘘をついたりしなければ、あれほどに悩まなくてすんだし、絵里に悲しい想いをさせることもなかったのだ。

 手紙を読んだ直後に生じたそのような気持は、ほんの数分間しか続かなかった。僕には佳子を責める資格などあろうはずがなかった。それどころか、それまでの僕の優柔不断な態度こそ責められるべきだった。佳子の話が嘘だったからといって、佳子と別れて絵里を選ぶことなどできるわけがなかった。佳子をさらに悲しませることなどできるわけがなかった。絵里にしても喜んで僕を受け入れるはずがなかった。

 佳子が嘘をついたことについても、そのことでむしろ佳子をいじらしく思った。佳子は不安におびえながら嘘を口にしたのだ。僕はその嘘にうろたえて絵里のことを露呈し、佳子を悲しみの渦に巻き込んでしまった。しばらく会いたくないというのは、その悲しみから立ち直るための時間がほしいということだろうか。それとも、僕に対する不信感があまりにも強いため、会おうという気持ちになれないのだろうか。そうだとすれば、僕の誠意が通じるまでは会ってくれないのかも知れない。

 手紙を封筒に戻そうとしたとき、封筒の中の写真に気がついた。

 写真の中で、佳子と僕は肩を組み、片手にスキーを持っている。学生時代最後の正月休みを利用して、佳子と新潟を訪れたときに写したものだった。写真を裏返してみると、〈私たちの幸せな未来のために〉と記されていた。その文字を見ながら、僕が同じ写真を持っていることを知っていながら、どういうつもりで佳子はこの写真を入れたのだろうか、と思った。僕を信頼しきっていた頃の状態に戻りたい、という気持ちを表したつもりだろうか。

 僕はたたんだ手紙をもういちど開いて、ボールペンで書かれた文字をあらためて眺めた。悲しい想いを綴った手紙にしては、文字に少しも乱れたところがないばかりか、訂正したり書きなおしたりした部分も見られなかった。佳子は下書きをして文案を練り、それを清書したのに違いなかった。議論をすれば僕をやりこめるような佳子が、素朴と言えるような文章で想いを綴っていた。その端正な文字を眺めながら、佳子は今ごろどんな気持ちでいるのだろうと思った。僕が絵里との交際をやめたのは、あの嘘のせいだと思っているだろうから、僕の気持ちをまだ疑っていることだろう。佳子の嘘を知った僕が、佳子にどんな感情を抱いているかということも、佳子にとっては気がかりなことだろう。そのような不安を一刻も早く取りのぞいてやらねばならない。

 僕は佳子の家に電話をかけた。受話器をとった佳子の妹が伝言を伝えた。「手紙を出したからそれを読んでください、と姉は言っています」

 その翌日にも電話をかけたが、佳子の妹が前日と同じ伝言を伝えた。佳子の手紙には僕とはしばらく会いたくないとあったが、会いたくないだけでなく、電話でも話をしたくないということらしかった。僕は佳子と話し合うことをあきらめた。それだけでなく、僕はしばらく佳子と会わないことにした。佳子の真意がどのようなものであれ、さし当りは佳子の言い分を受け入れざるを得なかった。たとえ佳子と話し合ったところで、良い結果を期待できるとは限らなかったし、むしろ気まずい思いをしたあげくに、それが尾を引くことにもなりかねなかった。なによりもまず、佳子に会うまでに、僕自身の気持を整理しておかねばならなかった。


 スピーカー部では、毎年恒例の慰安旅行が計画されていた。土曜日から日曜日にかけての一泊旅行で、その行き先はよく知られた温泉だった。

 土曜日の朝、集合場所に指定されたグラウンドに行くと、ほとんどの参加者がすでに集まっていた。

 目的地へは貸切バスで向った。隣りの席の女子社員はよくしゃべったが、一時間も話しているとさすがに話題がつきた。

 眠っているふりをしていると、佳子の手紙のことが思いだされた。

 あの手紙を読むまで、僕は学校の屋上で佳子が話したことを少しも疑わず、それを確かめることさえしなかった。絵里のことを知られたショックはあまりにも大きく、すぐにも決断をせまられる状況でもあったから、佳子の話を詮索するゆとりなどなかった。絵里との交際をやめることにしたとき、佳子の妊娠は都合のよい口実になったのだから、それと意識することはなかったけれど、僕にはそれを詮索する気持ちがなかったのかもしれない。

バスが止まったので眼を開けると、休憩時間は15分間だと伝えるバスガイドの声が聞こえた。僕はふたたび眼を閉じて、その2週間のできごとを思った。結果的には佳子の嘘に気づかないままに、絵里との交際をやめることになったが、嘘に気づいていても、僕は同じ決断をしたような気がする。結局のところは、これが最良の答えだったのだ。佳子にうながされる形で決断することになったが、もとはといえば、決着をつけようと決意して、伯父に助言を求めたことがこのような結果に導いたのだ。

 午後遅くバスは目的地に着いた。

 夜の宴会までには時間があった。ホテルの割り当てられた部屋に荷物を置いてから、職場の仲間とつれだって街にくりだした。みやげもの屋をいくつか覗いてみたが、僕にはほしい物がなかった。

 僕は自然のいぶきに触れてみたくなった。そのための時間は充分にありそうだった。仲間に声をかけたが誘いにのる者がいなかったので、僕はひとりで街はずれに向かった。

 しばらく行くと街並がとぎれた。ゆくてに雑木林が拡がり、その向こうには、中腹から上を紅葉で飾られた山並があった。

 雑木林の中を歩いてゆくと、道がふたつに分かれていた。舗装されていない方の道を選んで坂道を登ると、いきなり視界がひらけ、秋の日ざしをあびた山並が遠くまで見通せた。雑木林のかなたに、山を背にした温泉街が細長く連なっていた。あちこちに散らばる切り株のひとつに腰をおろして、思いがけなく出会えた眺望を楽しむことにした。

 街並を見おろしながら、人はなぜこのような所まで来たがるのだろうと思った。景色を眺めるのが目的ならば、東京の奥多摩を訪れても、似たような眺めに出会えるはずだ。温泉を楽しみたいというのであれば、もっと近いところで間に合うはずだ。このような場所が慰安旅行のために選ばれるのは、ふだんとは異なる環境に身を置いてみたいからにちがいない。どうして人はそれを望むのだろうか。慰安旅行が終われば自分にもその意味がわかるかも知れない。そのとき、ふいに山陰旅行のことが思いだされた。

 あの旅行には最初から不安があった。自分の心の不確かさに気がついていながら、絵里といっしょに旅行した。山陰旅行に参加していなかったら、佳子や絵里に対してどのように向き合うことになっただろうか。佳子と絵里を傷つけることなく、おれ自身もそれほど苦しまずに決着し得たかも知れない。それとも、結局は優柔不断な自分を嘆く結果になっただろうか。これほどまでに未熟なおれだから、いずれはこんな結果になったことだろう。

 烏の鳴声が聞こえた。声がしたあたりに眼をやると、どこかを目指して飛んでゆく烏の群が見えた。夕日が峰に近づいていた。山ふところの街並はすでに夕暮の中だった。僕は切り株から腰をあげて帰り道についた。

 雑木林にはさまれた道はうす暗かった。温泉にゆっくりと身をひたすことができなくなりそうだった。林の中を走りぬけ、街並を目指してけんめいに歩いた。ホテルまでは思ったよりも時間がかかった。

 ホテルに帰り着くとすぐに浴場に向かった。宴会の時間がせまっていたので、湯の感触をゆっくりと楽しむことはできなかった。

 浴場からそのまま会場の大広間へ行き、湯上がりの汗がひかないままに席についた。参加者のほとんどが集まり、宴会が始まろうとしていた。

 全員での宴会が終わったあと、宿泊のために割り当てられた部屋のいくつかで、ふたたび小さな宴会が始まった。飲み物は持ちこんだウイスキーや日本酒だった。僕はうしろのほうで先輩たちの話を聞いていた。

 いつのまにか傍にきていた鈴木が、もつれる舌で話しかけてきた。座を移したほうがよさそうだと思っていると、鈴木が僕にからみはじめた。仕事を熱心にやっているのは認めるけれど、まわりの者とのつき合い方に問題がある。おれの誘いに一度も応じないのは無礼ではないか。

 鈴木の言動には不快を感じることが多く、新入社員どうしとはいえ避けるようにしていたので、鈴木の言い分はわからなくもなかった。

 相手をするのがいやになり、場所を変えようと思ったそのとき、鈴木が気になる言葉を口にした。

「小宮さんが移ることになっただろ。小宮さんがいなくても、一人でやれるんかよ。どうするつもりだ、松井さんよ」

 小宮さんのことはまだ公にされていないはずだった。

「小宮さんのこと、誰に聞いたんだ」

 質問には答えないまま、鈴木は肘で僕の脇腹をこづきながら言った。「一人でやるのがいやだったらな、おれ達のグループに入れよ。だいじょうぶだよ、おれが野田さんに頼んでやるから」

 聞き取りにくい鈴木の言葉を耳にしながら、小宮さんについての情報源は、野田課長か斎藤係長に違いないと思った。

 鈴木にしつこくからまれて、僕はがまんできなくなった。場所を変えることにして立ちあがろうとしたとき、鈴木に腕をつかまれて引き戻された。僕の紙コップからこぼれたウィスキーの水割りが、鈴木の顔にまともにかかった。鈴木は血相を変え、わけのわからない声を出しながら僕になぐりかかってきた。僕はその手をはらいのけ、鈴木のわめき声を背に聞きながら隣の部屋へ移った。誰かに引き止められたのか、鈴木が追ってくることはなかった。

 しばらくすると、先ほどの部屋に戻るようにとの報せがあった。その報せを聞いて僕はいやな予感がした。

 その部屋には野田課長が来ていた。部屋に入った僕を見るなり、鈴木が大きな声でののしりだした。

 野田課長は僕に向かって、すぐにも鈴木にあやまるようにと命じた。からんできた鈴木のほうこそ僕に謝るべきだと思い、僕はいそいで事情を話した。野田課長は僕の話をうなづきながら聞いていたが、口をひらくと信じられないようなことを言った。

「君が水割をかけたのは確かなんだからな、そんなことを言ってないで、鈴木くんにすぐにあやまるんだ」

 いったいどういうことだ、と僕は思った。野田課長は僕の弁明をまともに聞こうとはしないのか。

 僕は鈴木とのことを説明しなおそうとしたが、野田課長の眼を見たとたんに、そのような努力をするのがいやになった。僕は野田課長に背をむけて部屋をでた。呼びとめようとする野田課長の声が聞こえていたが、それを無視してとなりの部屋にうつった。

 憤りに駆られるまま、先輩の一人に野田課長に対する不満をぶちまけていると、日頃の反感がいっきに吹きだしてきた。僕はついに口にした、野田課長のもとで仕事を続けるよりは、会社をやめて他に道を求める方がましだ、と。そのとき、僕はほんとうに会社をやめたいと思った。先輩になだめられても、僕は自分の言葉に興奮してしゃべり続けた。深く酔っていながらも、僕は明確に意識していた。自分は実際に会社をやめることになるだろう。

 それからしばらくすると、斎藤係長が僕を呼びにきた。野田課長を見習うかのようにして、後輩の僕たちに威圧的な態度で接する係長だった。

 係長について入った部屋には野田課長がいた。他には誰もいなかった。部屋に入るなり係長が言った。

「だめじゃないか松井くん。冗談にしてもだな、言っちゃならんことがあるぞ。ぼさっとしてないで、課長にあやまるんだ」

 僕が野田課長を批判したり、会社をやめるといきまいたりしたことを、誰かが野田課長か斎藤係長に報せたにちがいなかった。野田課長は無言のまま、いつもと変わらぬ冷ややかな眼で僕を見ていた。

「冗談なんか言ってないです。本気ですよ。僕は会社をやめます」

 野田課長に向かってその言葉を投げつけたとたんに、僕は晴れがましいような気分になった。

 僕を見あげていた野田課長がゆっくりと口をひらいた。

「ずいぶん飲んだようだな。まあいいから、そこへ座れ」

 僕がそのまま黙っていると、野田課長はさらに続けた。

「僕はな、君に期待してるんだよ、松井くん。君にはな、うちの会社を背負ってもらわなくちゃならないんだ。君にちょっと話したいことがある。立ってないでとにかく座れ」

 日ごろの反感に加えて先ほどからのいきさつもあり、野田課長の前に座る気にはなれなかった。斎藤係長がふん然とした面もちで立ちあがり、僕の両肩を押さえて座らせようとした。係長を払いのけようとした僕は、床の上の何かを踏みつけてバランスをうしない、野田課長のうえに倒れた。

 僕は起き上がるとすぐに部屋を出ようとしたが、斎藤係長に腕をつかまれて強引に引き戻された。課長にあやまれと大きな声を出した斎藤係長に、僕はどなるようにして言った。

「僕がころんだのは斎藤さんのせいだから、斎藤さんがあやまるべきですよ。僕は野田さんにあやまる気はないですよ」

 野田課長が立ちあがり、僕の両肩に手を置いて話しかけようとした。僕は急いでその手を払いのけたが、肩をつかんでいる手は離れなかった。僕は力まかせに野田課長を突き放し、斎藤係長のどなり声を背中に聞きながらその部屋をでた。

 誰とも話をしたくなかった。どの部屋にも入る気がしないままに廊下を歩いて行くと、大浴場の方向を示す矢印が眼にはいった。ふいに温泉につかりたくなった。タオルを持たないまま僕は浴場へ向かった。

 浴場にはまだかなりの人がいたけれども、スピーカー部の者は誰もいなかった。

 酔った体をぬるめの湯に沈めて、先ほどからのことを思い返した。深く酔っていながらも、それまでのできごとがはっきりと思いだされた。野田課長に向かって会社をやめると言った自分の声と、それを口にしたときの気持ちが、必ずそれを実行しなければならないのだとけしかけるように甦った。

 僕のなかで野田課長や斎藤係長に対する怒りが渦まいていた。すっかり酔っていたうえに感情も激していたが、それでもやはり、湯はここちよかった。そのまま浴槽にひたっていると、少しづつ気持ちがおちついてきた。

 眼をつむっていると水の落ちる音が聞こえた。眼をあけて音のする方へ首をまわしてみると、滝を模した仕掛けを通して湯が落ちていた。僕はふたたび眼をつむり、流れ落ちる湯の音に耳をかたむけた。いつのまにか怒りの感情がうすらいでいた。浴槽のふちに首をもたせかけると体が浮いた。そのまま湯のうえに寝そべっていると、体も心も陶然としてきた。体を包む湯の感触に、いつまでもひたっていたい気分になった。


 慰安旅行から帰った翌日の朝、小宮さんにうながされて実験室に入った。

「だめじゃないか、酔っぱらって変なことを言っちゃ」と小宮さんが言った。「うっかりしたことを言うと、えらく損をするからな、会社というところは」

 僕が会社をやめるといきまいたことを、誰かが小宮さんに報せたらしい。

「小宮さん、わるいけど、ほんとです。ほんとにやめようと思ってる」

「ほんとかよ」小宮さんは驚きの声をあげた。「どうしてそんな話になるんだよ。馬鹿げたことをしちゃだめだぞ」

「やめることにしたけど、すぐじゃないですよ。仕事が片付くまでは居るつもりです」

 僕は慰安旅行での野田課長との経緯を話した。その程度のことで会社をやめる必要はない、というのが小宮さんの意見だったが、僕は退職の決意を変えるつもりはなかった。

野田課長に向って退職宣言したことに、悔を感じることはなかった。むしろそれによって、もやもやとしていた気分に決着がつくことになった。それまでは漠然とした対象にすぎなかった大学院が、いきなり現実的な目標になった。

「会社をやめて、どうするつもりなんだ。あてはあるのか」

「大学院に行くつもりだけど、入学試験のこともあるから、運がわるければ、入学するのは再来年です」

 僕の希望が大学院への進学だと聞いて、小宮さんはまたもや驚きの表情を見せた。

「気持ちはわかるけど、そんなに急いで結論をださないほうがいいと思うぞ。大学院へ進む準備をするといっても、いまからじゃ大変だろう。じっくり考えてから決めた方がいいんじゃないのか」

 いきなり大学院のことを聞かされて、小宮さんが驚くのは当然だったし、僕に自重をうながすのも無理はなかった。大学院に関心を抱いていることを、僕は坂田にしか話していなかった。それとても、自分の中に芽生えた気持ちを口にしただけのことであり、その頃はまだ、会社をやめようと真剣に考えていたわけではなかった。

 事務室にもどった僕は、野田課長の指示でいっしょに会議室に入った。

 野田課長は笑顔を見せて言った。「君にはときどき驚かされるけど、あのときはほんとに驚いたよ。いきなり会社をやめると言われたんだからな」

「ほんとです、僕はやめます」僕は決意を声に表して言った。

 野田課長は表情を一瞬こわばらせたが、すぐに穏やかな表情にもどって口を開いた。

「じつはな、あの後で僕も反省したんだよ。君が鈴木くんに謝ってくれたら、荒れている鈴木くんを抑えられると思ったんだが、君には申し訳ないことをしたと思ってるよ。だから、あのときのことは君も気にしないでほしいんだ。鈴木くんのこと以外にも僕に不満があるようだが、そのことについても、君とじっくり話し合ってみたいと思ってるんだ。とにかく、君にはこれからも、スピーカー部でがんばってもらいたいんだ。僕がこうして頼んでるわけだが、君を必要としているのは僕じゃなくて会社なんだよ」

僕は野田課長の言葉を黙ったまま聞いた。野田課長は僕を慰留する言葉を残すと、緊張した面持ちのまま会議室を出ていった。

 小宮さんと僕がともに第一開発課を去ったなら、野田課長は困った事態に追い込まれるはずだった。野田課長が僕を慰留するのは、野田課長自身のためにちがいないと思った。野田課長を救うために会社に残ることなど考えたくもなかった。

数日経つと、僕の心に迷いが現れた。これから先の人生で、野田課長よりもいやな人間とつき合わざるをえない場合もあるだろう。そのたびに職場や会社を替えるわけにはいかないではないか。野田課長を嫌って大学院に進むというのであれば、野田課長のために人生のまわり道を選ぶということになりはしないか。その疑問に対しては、大学院への進学は執念を燃やすべき目標を見いだすためであり、野田課長から逃げるためではないのだ、と自分を納得させた。だが、すぐに次の疑問がわいてきた。吉野さんが課長であっても、自分は大学院への進学を希望するのだろうか。その場合には、会社に残って仕事を続けるはずだ。もしかすると、自分は短慮なことをしようとしてはいないか。

 そのような想いが僕を惑わせたが、やはり思いきって会社をやめることにした。野田課長に向かって日頃の憎しみを投げつけ、会社をやめると宣言してしまっていたし、会社に残った場合には、小宮さんがいなくなった職場が、これまで以上に居ごこちが悪くなりそうだった。僕はあらためて決意した。大学院での数年間を充分に意義あるものにして、そこでの数年間を決して人生の回り道にしてはならない。

 野田課長とはできるだけ顔を合わせたくなかったが、すぐに会社をやめるわけにはいかなかった。数か月にわたって情熱をかたむけ、技術者としての生き方に大きな影響を与えてくれた仕事に、思いを残すようなことはしたくなかった。そのことは、小宮さんに迷惑をかけないためにも必要なことだった。その頃の状況から判断すれば、数週間で仕事に決着がつくはずだった。


 会社をやめることを、家族のうちでは最初に兄に知らせた。

 兄が大きな驚きを見せたのも無理はなかった。大学院に興味を持っていることを、家族の誰にも話したことがなかったし、大学院のことを話題にしたことさえもなかった。

 いきさつはともかくとして、僕はすでに大学院へ進みたいと強く願っていたので、どうしても兄を説得しなければならなかった。驚いている兄に対して、僕は懸命に話した。熱中できる対象であれば、困難な目標であろうと挑戦できるという確信を得たこと。執念を燃やして取り組むべき目標を見つけることと、そのために必要な能力を養うことが、大学院を目指す目的であること。兄は僕の話を聞くと、もう少し慎重に考えてから結論をだすように、そして、父と母にはまだ話さないほうがよいと言った。

 家族の全員に反対されたとしても、決意を変えるわけにはいかなかった。兄に続いて両親にも大学院への進学希望とその理由について説明し、了解を求めた。そのようにして家族の者を説得しているうちに、会社をやめる理由は大学院へ進学するためであり、野田課長とのことは会社をやめるきっかけに過ぎないのだ、という意識が僕の中でしだいに強まった。

 父の同意を得るためには多少の苦労をした。父は説明を求めた。スピーカーを開発する夢を抱いて入社した会社を、一年にも満たないうちにやめるとはどうしたことか。あれほど熱中していた仕事に未練はないのか。それでもやめるというからには、会社に居られないよほどの事情でもあるのではないか。同じような疑問を、父だけでなく母や兄もむろん抱いていた。

 家族の者を説得するためには数日を要したが、結局は、父と母、そして兄も僕の決意に賛成してくれた。

 大学院に関心があることを、坂田にはすでに伝えていたが、大学院がまだ漠然とした対象に過ぎない頃だったから、坂田にもそのようにしか聞こえなかったはずだ。僕が会社をやめる決意をしたことは、むろん坂田に大きな驚きを与えた。小宮さんと同様に坂田も僕に忠告してくれた。辞表の提出を急いだりせずに、慎重に時間をかけて考えろ。このままやめたら後悔するかも知れないではないか。

 それからまもなく、僕は吉野さんを職場に訪ね、それまでの事情を話したうえで会社をやめることを伝えた。

 吉野さんは僕を会議室につれて入り、いつものように穏やかに話しかけてきた。

「この会社では目標が限られるし、社内に君のやりたいことがあったとしても、その希望がかなえられるとは限らないからな。だから、大学院にいる間にじっくり考えて、執念を燃やして取り組める目標を見つけたいというのは、確かにひとつの考え方だと思うよ。君の決意に対して意見がましいことを言う立場にはないから、それは遠慮しておくけどな」

 そこまで話した吉野さんは、改まった口調で「ところでな」ときりだした。

「昨日の夕方、野田君が、相談したいと言ってここに来たんだ。君のことで話したいと言ってな。僕が君や小宮君と親しくしていることを、だいぶ前から知っていたそうだ」

 意外なことが話しだされた。吉野さんが野田課長と話し合ったというのも意外なことであったが、こともあろうにその目的が僕にかかわることだったと聞いて、僕は身がまえるような気持ちになった。

「慰安旅行で君に会社をやめると言われてあわてたそうだよ、野田君は。君が本気らしいとわかってえらく気にしていたぞ。君が野田君に反発していることにも、彼はかなり前から気がついていたそうだよ。だから君とじっくり話し合いたいと思っていたら、そのやさきに変なことになったと残念がっていた。君が野田君に対して反感を持っていることを知っていたら、僕にも君のためにしてやれることがあっただろうけど、いまとなっては仕方ないことだよな。それはそれとしてだよ、このことは知っておいてほしいな。君が会社をやめることが、野田君にはえらいショックだということを。君には彼の立場も考えてやってほしいんだよ」

 吉野さんの話を聞きながら、僕はぼうぜんとしていた。野田課長が吉野さんにそのような相談をするとは、まったく予想もできないことだった。さらに意外だったのは、吉野さんが野田課長に対して好意的な言葉を口にしたことだった。

 野田課長に対する感情を理解してもらいたかったので、僕は野田課長の考え方や言動を、いくつかの例をあげて批判した。

 黙って聞いていた吉野さんは、椅子から身をのりだすようにして言った。

「野田君には強引なところがあるし、感情的になりやすいところもあるんだが、それだけ仕事に熱心だとも言えるわけだよ。相手の気持ちを考えずにしゃべったりするのは、確かに野田君の欠点だと思うけど、そんな欠点ばかりに眼を向けると、ほんとの姿が見えなくなるぞ。君には野田君に対する不満がたくさんあるようだけど、彼の立場を考えてみたり、彼のいいところにも眼を向けてみたりしたら、もっとちがった見かたができるんじゃないのかな。彼にもいいところがたくさんあるんだから」

 吉野さんには野田課長の本当の姿が見えていないと思った。部下にしか見えない野田課長の短所もあるはずだった。野田課長の部下への接し方や、課長に批判的な小宮さんを異動させたことなど、不満に思っていることを僕はむきになって話した。

 僕が言葉を切ると、吉野さんは穏やかな口調で言った。

「野田君は、自分の考えていることに自信を持ち過ぎるんだ。そのことでは彼に忠告しておくよ、みんなの意見をもっと聞くようにとな。それから、小宮君のことだけど、気が短かくて感情的になりやすいところはあっても、自分の感情で部下の人生を左右するようなことはしないはずだよ、野田君は。スピーカーの仕事を続けたいという小宮君の気持はわかるけど、僕から見ても、今度の異動は会社だけでなく、小宮君にとってもプラスになると思うんだ。それから、野田君は君のことではこんなことも言ったぞ。松井君なら、ほんとの意味での画期的なスピーカーを、いつかは作ってくれるんじゃないかと期待しているって。君の課長だから当然だろうけど、彼も君の才能や努力を買っているわけだよ」

 野田課長に対する反感の根拠を否定されたばかりでなく、野田課長が僕に対して好意ある発言をしていたと知らされて、僕はすっかり混乱し、意見も反論も口にできないような気分になった。

 吉野さんとさらに話しているうちに、僕の知らなかった野田課長の姿が見えてきた。それを話したのが吉野さんでなかったならば、僕がそれを信じることはなかっただろう。とはいえ、それによって野田課長に対する感情がただちに変わるわけがなかった。だが、僕が積み上げてきた野田課長に対する反感と憎しみの感情は、土台のところで既にぐらついていた。

 吉野さんに来客があるとの呼びだしがあり、僕たちの話し合いは終わることになった。

「野田君からの頼みを伝えるより先に、君の決意を聞かされたわけだが、さっきも言ったように、君にとっては大学院への進学は良いことだろうという気がするんだ。だけど、今の僕の話を聞いて君の考えが変わるようだったら、すぐに知らせてくれないか。野田君とのことがうまく行くように相談にのるから」

 その言葉を残して、吉野さんはあわただしく会議室を出て行った。

 僕は誰もいない会議室に残って、吉野さんから聞かされたことを思い返した。僕には疎ましい野田課長だが、吉野さんにとってはそうでもないらしい。それどころか、野田課長に反発している僕に対して、吉野さんは批判的ですらあった。もしかすると、野田課長に対する自分の対応には、反省すべきところがあるのかも知れない。

 僕は自分の職場がある建物に帰ると、事務室には入らないで実験室へ向かった。混乱している心境のまま、野田課長と顔を合わせたくはなかった。何よりもまず、吉野さんから聞かされたことを、もう一度じっくりと考えてみなければならなかった。

 実験室に入るとすぐに、装置の清掃作業に取りかかった。考えごとをしながらでもできる作業だった。

 僕は作業を続けながら、野田課長を憎むに至ったいきさつをふり返ってみた。

 野田課長の感情的な言動に僕は嫌悪感を抱いた。部下の感情には意を用いない野田課長を、上司として尊敬することができず、その下では働きたくないと思うに至った。そして今では、 野田課長に対して不満を抱くどころか、反感や憎しみすら覚えている。このような僕に対して、吉野さんは明らかに批判的だった。

 もしかすると、吉野さんのような見方をしなければ、野田課長の本当の姿は見えないのかもしれない。僕は野田課長の短所だけに眼をむけたことで、そして、野田課長の言動に対して感情的に反発したことで、野田課長の一面だけを見るようになったのかも知れない。野田課長の短所を許せないと感じている僕自身にも、他人から指摘されるような欠点がいくらでもありそうな気がする。課長の立場に思いを致すことなくその言動にこだわり、さらには憎しみをつのらせているということは、僕が野田課長におとらず狭量だということではなかろうか。もしかしたら、僕は狭量であるのみならず、人を見る視野も狭いということではないのか。人並みの判断力を備えていると自負していたが、もしかすると、人を見る眼には問題があるのかもしれない。

 吉野さんには様々な指導を受けてきたのに、野田課長とのことでは一度も相談しなかった。もしも吉野さんに相談していたなら、野田課長に対してどのように向き合うことになっていたのだろうか。

 いつの間にか装置の清掃作業を終えていた。装置の蓋を閉じ、内部を真空にする操作をしてから、実験室を出て事務室へ向かった。

 事務室に入ったとたんに野田課長と眼が合った。いつもなら、その瞬間に不愉快な感情がわきあがるところだったが、そのとき、僕はどうしたらよいのか戸惑って、そのまま野田課長をぼんやりと見ていた。野田課長は何ごともなかったかのように、机の書類に眼をもどした。

 僕は自分の席につき、測定データの分析をはじめた。隣の席では小宮さんがレポートを書いていた。吉野さんから聞かされたことを、小宮さんにも伝えなければならないと思った。昼休みに小宮さんを屋上へ誘い、そこで話し合うことにした。


 吉野さんの話にショックを受けたからといって、大学院へ進む方針を変えるわけにはいかなかった。野田課長には旅行の後で退職の意志をあらためて伝えたし、家族の者や会社で親しくしている人に対しても、大学院への意志を明確に伝えてあった。いきさつはともかくとして、僕は大学院への進学を自分の目標としてすでに強く意識していた。

 入学試験のことを相談するために、卒業した大学の専任講師に電話をかけた。僕の卒業研究を指導してくれたひとだった。

 専任講師によれば、多くの大学院が入学試験をすでに終えているらしかった。新宿で池田と話し合ったとき、大学院の入学試験が話題になっていたので、それは既に予想していたことだった。それはそれとして、僕が卒業した大学では、翌年の春に2次募集があることがわかった。受験の準備をしていなかった僕にとっては、数か月先の試験は厳しい難関といえたが、あきらめずに準備を進めることにした。

 退職してから大学院に入るまでの期間を、僕は研究室の研究助手ということにしてもらいたかった。すでに卒業している身で受験の準備を進めるためには、研究室に出入りできる資格があったほうが良さそうだった。講師は僕の希望を教授に伝え、協力すると約束してくれた。

 その数日後、卒業してからはじめて大学を訪れ、卒業研究のために在籍していた研究室の教授に会った。その結果、僕の希望は受けいれられて、研究助手ということにしてもらえた。研究助手とはいっても名目だけのものであり、給料がないかわりに出勤する義務もないというものだった。僕が望む場合には、図書館を利用することも可能になった。


 僕が辞表をさしだすと、無言で受け取った野田課長は、封筒の表書にしばらく眼をとめていた。その表情が、辞表の提出を予期していたことを表していた。

 野田課長は僕を来客用の応接室につれて入った。

「君にはずいぶん期待していたんだが、残念だな、こんな結果になって。結局は僕の不徳の致すところだと思ってあきらめるよ。大学院にゆくそうだが、大学院を修了したらこの会社にもどってこないか。そのときには君を大歓迎するつもりだ。忘れないでいてくれよな。それから、君にはお礼を言わなくちゃな。これまで随分がんばってくれたことだし、仕事がかたづくまで残ってくれるんだから。もうひとふんばりして、小宮くんといっしょに仕事をまとめてくれ、悔いを残さないようにな」

 野田課長の表情と口調に、いつもと変わらぬ冷たい印象を受けたが、そのような野田課長と向き合っていても、僕の心に反発心がわきあがることはなかった。

 野田課長との話し合いが終ったあとで、僕は坂田に社内電話をかけて、辞表を提出したことを伝えた。その翌日、坂田とふたりで飲みながら話し合うことになった。坂田と飲みにでかけるのはそれが二度目だった。


「うちの会社にも困ったもんだよ、お前に見かぎられるようじゃな」と坂田が言った。

「だいじょうぶだろ、お前が見かぎらなきゃ」

「お前みたいに優秀なやつが、上役との関係で会社をやめることになるんだからな、サラリーマンにとってはやっぱり運みたいなものも大事だよな」

「それは言えるよな、たしかに」僕は箸を使いながら言った。

 僕たちが食事をとりながら飲んでいたのは、坂田が先輩たちと入ったことがあるという店だった。その大衆酒場のざわついた雰囲気がよかった。あたりに遠慮しないで坂田と議論することができそうな店だった。

「仕事が自分に向いているかどうかということも、サラリーマンの運という意味では重要なことだよな。仕事がおもしろくて、しかも成果がだせるわけだからさ」と坂田が言った。「適材適所というけど、ほんとの意味でそうなっていたら、誰もがやる気を出せるはずだよ。会社はもっと考えるべきだよ、そういうことを」

 僕が口をはさむ前に、坂田はさらに続けた。「ほんとに優秀で、才能を発揮してもらいたい人がだよ、仕事の面では必ずしも恵まれているとは言えないんだよな」

 坂田が吉野さんのことを言っているように聞こえた。

 会社の食堂で坂田を吉野さんに紹介したのは、僕が吉野さんと親しくなってから間もない頃のことだった。坂田と吉野さんの部門は協力しつつ業務をこなす関係にあったので、それ以来、坂田も吉野さんから指導を受けるようになっていた。

「それって、吉野さんのことか」

「吉野さんにかぎらず、一般的に言えることだよな、このことは」

「そうだろうけど、仕事で成果をあげるためには、執念を燃やすことも必要なんだよ。吉野さんが話してくれたことだけど、案外これは重要なことだと思えるんだよな、おれには」

「おれも聞いたよ、執念の話」と坂田が言った。

 それからしばし、目標の達成に向けて燃やす執念について議論した。

「会社で働く技術者はサラリーマンだから」と坂田が言った。「仕事に執念を燃やしている技術者というのは、仕事をやり遂げるために執念を燃やしているサラリーマンということだよな」

「言いかえれば、執念を燃やしてがんばるのは技術者に限らないということだよ。責任を果たすためにも、自分の業績を上げるためにも努力なしではできないからな。仕事によって執念のもやし方には違いがあるだろうけど」

 坂田が彼の伯父のことを話しだした。福島県で農業技術の改良に情熱をかたむけている伯父の姿に、ふたりで議論している執念の話が当てはまりそうだ、と坂田は言った。

 たしかに、と僕は思った。執念を燃やしながら努力をしている人は、さまざまな分野で見られるに違いない。

 僕が箸を使っていると、坂田が言った。「おれの伯父はだいぶ年をとってるんだが、あい変わらずはりきって田や畑に出ているそうだよ。はっきりした目標があれば、いくつになっても人間は努力できるのかもしれないな」

「目標があればこそ努力することができる、というわけか。どんなに苦労していても、当人はわくわくしながらやってるわけだ」

「わくわくできるような仕事か」と坂田は言って、ビールをいっきに空けた。「たしかに伯父にとっては農業が生きがいみたいだな」

「おれもな、なるべく早く目標を決めるつもりだ。あわてるわけじゃないけど」

「お前ならやれるさ。もとは成績劣等生の落ちこぼれだったんだからな、長岡半太郎や本多光太郎みたいに。あんがい世界的な業績をあげるかもしれないぞ」

「せっかくのありがたいお言葉だ、真に受けることにするよ」僕はおどけて言った。「おれが将来やる仕事はまだ決まっていないけど、とにかく執念を燃やしてがんばるよ。お前もがんばれよな」

「もちろん、おれもがんばるさ。だけど、おれの場合には、吉野さんの言う執念とは、ちょっと違うがんばり方をするかも知れんな」

「要は生きがいだよ。お前の伯父さんみたいな生き方もあるんだからさ」

 坂田は僕のコップにビールをつぎながら言った。「生きがいと言えばな、吉野さんに言わせると、これからの日本人は、生きがいということをもっと考えるべきだってさ。物質的にはどんなに豊かになっても、それだけではむなしいだろう、と吉野さんは言った」

「吉野さんのことだからもっと話しただろう、生きがいのこと」

「明日を今日よりも良くしたいという気持ちがあって、そのために何かをしている人には生きがいがあるはずだ、と吉野さんは言ったよ。たぶん、気持ちの持ちようがだいじだということだろうけど」

 坂田は続けた。「だけどな、どんな生き方をするにしても、努力が報いられる社会でなければだめだよな。新聞や雑誌によると、日本の貿易黒字は膨大なものらしいが、問題は、汗水たらしてがんばっているおれたちに、その分け前がきちんと渡されているかどうかということだよ」

 坂田がいきなり話の向きを変えた。いかにも坂田らしいその言葉で、吉野さんや小宮さんといっしょに議論した、日本人奴隷論のことを思いだした。僕がそのことを話すと坂田は言った。

「たしかに、いまの日本人の多くは奴隷みたいなもんだぞ。貴重な時間を犠牲にしてまで残業したり、働くこと自体が目的みたいな生き方をしたり……自分で自分を奴隷にしているようなものじゃないか。苦労しているわりには報われない社会だといっても、自分たちがそんな社会にしているんだよ。社会の仕組みに問題があれば、それを変えるために努力すべきだし、政治をもっと良くすることも必要だけど、そんな努力が日本では不足しているとおれは思うな」

「何のために働いているのか、おれたち自身がもっと考えるべきだな。まずは政治を良くしなくちゃならんけど、お前がいつか言ったように、政治のありようは、政治家よりもむしろ国民にかかってるんだ。政治に満足している者など、今の日本にはいくらもいないはずだけど、選挙では半分近くの者が棄権するんだから、日本という国はまったくおかしな国だと思うよ」

 僕の言葉にうなずいた坂田は、コップに半分ほど残っていたビールを空けた。

 あのことがあって以来、僕たちの間で絵里にかかわる話題がでたことはなかった。絵里のことがどんなに気にかかっていても、僕はそのことを口にしなかったが、そのときは、そうすることが坂田に対する礼儀だという気がしたので、その後の絵里の様子を訊くことにした。坂田は週末に両親の家に帰ることがあるので、絵里の近況をよく知っているはずだった。

 坂田が話してくれたところによれば、絵里は元気をなくしているものの、心配する程のことはなく、表面的には以前と変わりのない生活をしているということだった。僕を安堵させようとの配慮があるには違いなかったけれども、それを聞いてほっとするような気持ちになった。

「絵里さんには、ほんとにすまないと思ってる」と僕は言った。

「大丈夫だよ、絵里は。おとなしいやつだけど、そのわりには積極的にやってゆけそうだからな。お前のおかげで男ともつき合えるようになっただろうから、これからも何とかやっていくだろう。だから、心配するなよ、絵里のことは」

「絵里さんなら、おれなんかよりもましな男を見つけるよ」

「おまえのおかげでコンプレックスも消えたようだしな」と坂田が言った。「おれの眼にはけっこう可愛い奴に見えるんだけど、本人にすればそうではなかったみたいだな。よくはわからないんだが、女というのは、おれたちとは違ったふうに見るのかもしれないな、自分のことを」

 絵里の笑顔ときれいな瞳を思いうかべながら、絵里にコンプレックスがあるとはどういうことだろうと思った。

「おれにはわからないけど、絵里さんのコンプレックスってどういうことだ」

「おまえの前では絵里も明るく振る舞えたようだから、おまえは気がつかなかったんじゃないかな、絵里が気にしていることに。お前のおかげで、今では気にしていないだろうけど」

 僕を魅了した絵里の瞳が思いだされた。あの絵里にどんな自画像があったのだろう、と思ったとき、オードリー・ヘプバーンについて書かれた週刊誌の記事を思いだした。

「オードリー・ヘプバーンという女優がいるだろう。ヘプバーンの自伝を紹介した記事に出ていたんだけど、あのヘプバーンには、自分がみにくいというコンプレックスがあったらしいよ。信じられないような話だけど、自分自身についての思い込みを、心理的な自画像とか言って、案外だれでもそういうのを持っているらしいよ。もしかすると、絵里さんも変な自画像を抱えているのかな」

 坂田は手にしていたコップを見ながら言った。「いつだったか、おまえは話したよな、お前は小学生のころ、自分は頭が悪いと思い込んでいたって。人間というのは、そんなふうにして自分に催眠術をかけるんだよ。自分は優れていると思いこんだ者は得をするけど、運がわるいとその逆になるわけだ。おまえは電子回路を勉強したおかげで成績が良くなったそうだが、絵里の場合には、おまえのおかげで催眠から醒めたんじゃないのかな。だから、お前に絵里を会わせてよかったと思ってるんだ」

 坂田は絵里が抱いていたというコンプレックスについて話した。絵里がそのようなことを気にしていたのかと思うと、「僕には今の絵里さんが充分に魅力的だよ」と絵里を励ましてやりたかった。とはいえ、坂田が言ったように、絵里はそのようなコンプレックスからすでに抜け出しているような気がした。そのことで絵里の手助けができたのだと思うと嬉しかった。絵里に対する自分の罪が、少しは軽くなったような気がしたけれども、そうとは言えないことにすぐ気がついた。絵里はいつの日か、幸せになれる誰かと巡り合うに違いない。僕と出会うことがなかったとしても、それどころか、むしろ僕と出会わなかったほうが、絵里は本当の自信を得ることになったかも知れないではないか。いずれにしても、絵里には自信をもって生きてもらいたい、と僕は思った。絵里には本当に幸せになってほしいと強く願った。

「絵里さんにはほんとに幸せになってもらいたいよ」と僕は言った。

 坂田はうなづくと、僕のコップにビールを注いだ。

 佳子からの手紙のことは、もちろん坂田に知らせなかった。絵里と坂田のふたりには、佳子の妊娠が嘘だったことを知られたくなかった。そのことを知ったら、絵里は気持ちを乱すにちがいなかった。絵里には心穏やかに新しい道を歩んでもらいたかった。

 佳子と絵里の間で悩んだこと、そして大学院への進学のこと、そのいずれに対しても、僕は何者かになかば強いられるようにして道を選んだ。その経緯はともかくとして、僕は自分の意志で選んだ道を歩き出そうとしていた。


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