第4章 出雲大社
第4章 出雲大社
坂田から旅行の相談を持ちかけられたのは、8月に入ってすぐのことだった。絵里とその友人が計画している旅行で、行き先は鳥取の砂丘と出雲地方だった。
出雲は母の生まれ故郷だから、子供の頃からしばしばそこを訪れていた。母の実家を訪ねるたびに、出雲大社などに案内してもらったのだが、母の故郷を充分に知ることができたという実感はなかった。おそらくその原因は、出雲のどこを訪れるにも、案内してくれる誰かについて行っただけであり、自分の意志で行動したことがなかったからだろう。
坂田からその計画を聞かされて、僕は胸をおどらせながら思った。坂田や絵里といっしょに旅行を楽しめるのだ。僕はその場でその計画に賛成し、実現させるようにと坂田をけしかけた。
「どういうわけだろう、行き先が山陰地方というのは」
「絵里から相談を受けたとき、いつかお前が話してくれた出雲の縁結びの神様や、鳥取の砂丘のことを話してやったんだ。おれがいちばん見たいのは、鳥取の砂丘だけどな」
旅行を思いついたのは絵里だったとしても、行き先については坂田の希望が影響しているらしかった。
坂田からの誘いにとびつくように応じたものの、心の隅には不安があった。時間がたつにつれ、その不安は次第に強まった。
いつも受け身で応じるようなデートだったが、僕は絵里とのそれを楽しみにしていた。そんな自分に多少の危惧をおぼえはしたが、それを無視して絵里との交際を続けた。危惧の念が無視できないほどに強まると、僕は自分をごまかしてそれを弱めようとした。絵里とつきあっても佳子に対する気持は変わっていない。ということは、絵里との交際に問題はないということだ。そんな言い訳をしたところで、佳子に対するうしろめたさは抑えきれなかった。佳子は僕の心の中にどっしりと腰をおろしていたものの、僕の心はさほどに確かなものではなさそうだった。僕はおそれた、絵里とすごす数日の旅行が、佳子に対する気持ちを変えるかもしれない、と。
そのような迷いがある一方で、旅行に参加しなければ後悔するような気がした。友人たちと出雲を動きまわれば、母の故郷がもっと身近なものになるだろう。せっかくの機会を逃すことはないではないか。そんなことを考えているうちに、次の日ふたたび坂田が僕の職場にやってきて、絵里と相談した結果を伝えた。僕が迷っているうちに、山陰旅行の計画は進められていた。
会社の夏季休暇を利用できればよかったのだが、僕には大学の同期生会などいくつかの予定があった。坂田をまとめ役にして四人の都合を調整した結果、夏季休暇が終わった後の木曜日に、寝台特急列車で出発することになった。僕と坂田は金曜日に年休をとることになったが、絵里は夏季休暇の日程をずらしてとることができた。
木曜日の夕方、僕は定時になるとすぐに工場をとびだした。いったん自宅に帰って食事をすませ、身仕度をととのえて東京駅に向った。旅先でレンタカーを利用する可能性があったので、バッグには運転免許証といっしょに道路地図を入れておいた。
集合場所で3人が待っていた。絵里が友人を紹介してくれた。
「いっしょに仕事をしているヤマノウチアヤコさん。銀行に入るのも一緒だったの」
僕が山之内綾子と初対面の挨拶を交わすと、絵里が僕に向かって「私はアヤちゃんと呼んでるけど、松井さんと兄さんには綾子さんと呼んでもらうことになったの。長くて呼びにくいでしょ、山之内って」と言った。
僕たちはそれからすぐにプラットホームへ移動した。歩きながら話しているうちに、綾子のことがいくらか判ってきた。浜松が故郷だという綾子は、東京の伯父の家に寄宿して短大に通い、卒業して銀行に勤めるようになったいまも、伯父の家族といっしょに住んでいるということだった。
「もしかすると、ずっと東京に居るかも知れないわね、アヤちゃん」と絵里が言った。
「浜松には帰らないってわけか」坂田が綾子に聞いた。
綾子が口をひらく前に、絵里がからかうような口調で言った。「もしもよ、アヤちゃんが兄さんと結婚すればそうなるんだから」
「おいおい、お前は出雲の神様の代理人のつもりか」
缶コーヒーを持った手を絵里にむけてつきだしながら言った坂田は、綾子に向き直るとおどけたような口調で「せっかくだからさ、そうなるように出雲の神様にこっそりとお願いするよ」と言った。
急行出雲はすでにホームに入っていた。僕たちは切符に記されている指定車両に乗り込んだ。
4人とも寝台列車に乗るのは初めてであり、異性の友人をまじえての旅行も初めてだった。珍しい体験に気持ちをたかぶらせ、僕たちは車内の通路で声高にしゃべっていたが、気がついてみると、他の乗客たちはほとんどベッドに入っていた。
狭いベッドの中で僕は週刊誌を読んだ。ふだんなら読まないような記事まで読んでいたので、眠りに入るのがずいぶん遅くなった。つぎの朝は坂田に揺り起こされて、どうにか目覚めることができた。10分ほどで鳥取駅に到着する時刻になっていた。
鳥取駅の自動販売機で買ったパンとジュースが、僕たちのささやかな朝食だった。
荷物になるものをコインロッカーに入れてから、僕たちはタクシーで砂丘に向かった。僕が手にしていたのはカメラだけだった。
タクシーを降りて砂丘の入口に立ち、眼の前に拡がる光景を見た瞬間に、ここを訪れてよかったと思った。空と海しか背景に持たないことで、砂丘はその姿をいちだんと雄大なものにしていた。
砂に足をとられながら、僕たちは海辺に向かってひたすらに歩いた。その日は朝から暑かった。歩きはじめるとすぐに汗がでてきた。
僕は仲間たちの姿を写真に撮った。坂田が砂の上を走って行き、近づいてゆく僕たちにカメラを向けた。絵里が僕に寄りそいながら、坂田に撮りなおしを求めた。絵里のはしゃぐ声が僕をうわついた気分にした。
僕たちは砂の丘を上って、その頂上に腰をおろした。ふもとの波うちぎわと遥かな水平線が、単純な色彩とあいまってのびやかな景観をつくりあげていた。どこを見ようとするわけでなく、眼に映るままに眺めているだけでよかった。砂丘をはいあがってきた風が、体とシャツの汗をうばった。
のびやかな眺めと優しい風を楽しみながら、僕たちはとりとめのない話題に興じた。1時間に近い時間を砂丘で過ごしてから、僕たちはそこを引きあげることにした。
「ここを見たかったんだろ、坂田。どうなんだ、感想は」
「感想か・・・・多分お前と同じだよ。ここへ来て良かったじゃないか。暑いけど、その方が似合うよな、ここには」
「そうね、砂漠を歩いたみたいで、私はとてもおもしろかった」と綾子が言った。
「こんな海の見える砂漠。日本にもこんな所があっていいわね」
「冬だったら雪の砂漠から海を見ることができるな」僕が絵里の言葉をひきつぐと、「おもしろそう、雪の砂漠も。スキーができるかもしれないわね砂漠で」と絵里が応じた。
鳥取駅へ帰るためのバスを待っていると、タクシーがきて人をおろした。僕たちは客を降ろしたばかりのタクシーに乗りこんで鳥取駅へ向かった。
駅に着いて時刻表を見ると、松江に向かう快速列車があって、発車時刻は1時間後だった。それまでに昼食を終えることにして、僕たちは駅の食堂に入った。
食後のコーヒーをゆっくり楽しんでから、真昼の日ざしの中を快速列車で松江に向かった。僕たちには初めての路線だったが、車窓からの風景は流れるにまかせて、雑談に興じながらの時を過ごした。
僕たちは松江に着くと、街を見物しながら松江城まで歩き、天守閣に向かう坂を登った。
その日は金曜日だったが、天守閣にはかなりの人が入っていた。階段を登ってゆく途中の階に、たくさんの武具や甲冑が展示されていた。
最上階まで登ると、木々のかなたに宍道湖が見えた。周りの景色をしばらく眺めただけで、僕たちは階段の降り口に向かった。
天守閣の近くに店があったので、そこでしばらく休むことにした。
お茶と菓子を味わいながら、僕たちは観光案内に見入った。
「すみません」坂田が店員に声をかけた。「ラフカディオ・ハーンの旧居へ行きたいんだけど。道を教えてくれないですか」
「そげですたら早くいきなさいましぇ。あんまり時間があーすぃましぇんですけんね」
女性店員が教えてくれた道をハーンの旧居へ急いだが、入館の締切時間を過ぎていた。僕たちは係員にたのんで庭先まで入れてもらい、庭の一部と建物の外観だけを無料で見せてもらった。
電話帳を頼りにホテルを確保しておいてから、武家屋敷の名ごりをとどめている家並の街を歩いた。宍道湖のほとりまで歩いた僕たちは、岸辺のベンチで休息することにした。
西の空が夕焼けに染まろうとしていた。夕日にきらめく湖の眺めに引きとめられて、僕たちはしばらくベンチを離れなかった。
レストランで夕食をとってから、流しのタクシーをひろってホテルへ向った。タクシーでホテルにつくまでに5分もかからなかった。
僕たちはホテルの一室に集まり、あくる日の計画をねった。観光案内を見ながらしばらく話し合ったあと、フロントへ行って係員に相談にのってもらった。
次の日の朝食も、前日同様にパンとジュースだけですませた。どんなにささやかであろうと、ふざけたり笑いあったりしながらの朝食に、いささかの不満もなかった。
僕たちはレンタカーを借りて、松江の東方にある枕木山へ向かった。僕が自宅から持ってきていた道路地図に、ホテルの社員に道順などを記入してもらったので、道に迷うことはなかった。助手席の坂田が道路地図を持ち、ハンドルは僕が握っていた。
山肌を縫って道を登ると、山頂に近いあたりの開けた場所に出た。そのような高所に駐車場が作られていた。
僕たちはそこから見えると聞かされていた隠岐島をさがした。山並みの彼方に日本海が見え、水平線上には薄い影のようなものが見えたが、それが隠岐島かそれとも雲か判然としなかった。とはいえ、そのことで僕たちが失望することはなかった。中海から松江にかけての低地が眼下に拡がっており、中国山地の山並と呼応して、みごとな景観をつくっていた。そのような景勝地を教えてくれたホテルマンに感謝しながら、僕たちはしばらく山の上で過ごした。
山上からの眺望が、僕たちに充分な満足感を与えてくれた。それだけでなく、山の上から眺めたことで、松江の付近をおおよそ見てしまったような気分になっていた。僕たちは松江に向かう車中で話し合い、予定を変えて早めに出雲大社へ行くことにした。
僕たちはレンタカーの返却手続きをおえると、そこから近い松江駅まで歩いて行き、構内の食堂で昼食をとった。
出雲市へ向かう列車に乗り込んでまもなく、観光案内を見ていた坂田が言った。
「出雲大社の近くに日本で一番高い灯台があるんだ。今日のうちに行ってみないか」
相談はすぐにまとまり、出雲大社に参拝するのは翌日にして、その日は日御碕の灯台を見ることになった。
出雲市駅に着くとすぐにレンタカーの営業所をさがした。
出雲市に着いてから30分がたった頃には、僕が運転する車で大社町に向っていた。借りた車は4人で乗るのに充分な軽乗用車だった。助手席の坂田が道路地図を見ながら、出雲大社への道を指示した。
田園地帯の道を、坂田に指示されるままに走って大社町に入った。巨大な鳥居をぬけて出雲大社の参道入口に着いたが、僕たちはそこを素通りして日御碕への道を進んだ。
「ねえ、神様に挨拶しないで行っても大丈夫かしら」
絵里がみんなを笑わせるような口調で言った。
「こわいんだろう、絵里。縁結びの神様にしかられるのが」
「もちろんよねー、アヤちゃん」絵里がおどけた口調で言った。「明日お参りしたら、お願いをする前にお詫びをしなきゃね」
そんな会話を交わしているうちに、道は海沿いの断崖のうえに出て、しかも急カーブの連続になった。僕は緊張しながらハンドルを握っていたが、うしろの座席では絵里と綾子が明るい笑い声をあげていた。エアコンのきいた車内には快適な気分が満ちていた。
日御碕に着くまでにかなりの車とすれちがった。辺りに人家は見えなかったから、それらの多くは日御碕から帰ってくる車だったのだろう。
出雲大社から日御碕までは30分もかからなかった。駐車場に車を置いた僕たちは、軒を並べるみやげ物屋の前を通って、かなたに見える灯台に向かった。
松のかなたで白く輝いている灯台を目指してゆくと、見晴らしのよい台地のうえにでた。灯台を乗せた岩の台地は、岩の斜面を介して海とつながっていた。
日本海は穏やかだった。沖合に浮かぶ貨物船は東に向かっていたが、ほとんど静止しているように見えた。
「出雲って、人も穏やかだけど、海も景色もみんな穏やかなのね」と絵里が言った。
あまりにも穏やかな海が、絵里にそのような印象を与えたのだろう。
坂田が言った。「ここだって、台風が来たときには荒れるし、冬の日本海は波が荒いそうだぞ」
「だけど、今日の海は波がなくて湖みたいね」と綾子が言った。「灯台に登るよりも、あの人たちみたいに下までおりてみたらどうかしら」
数人の行楽客が水ぎわで戯れていた。その姿にひかれるままに、僕たちは灯台に登る計画をとりやめにした。
潮風と波が作りあげた岩の起伏をつたっていると、子供の頃に戻ったような気分になった。そこでは誰もがむじゃ気になった。僕たちは岩の斜面をかけまわって遊んだ。
僕がカメラを向けると、絵里は岩にもたれてほほえんだ。僕は絵里の笑顔をズームアップした。笑顔が僕に呼びかけていた。その呼びかけに応えてやりたいと思った。忘れていたシャッターをあわてて押すと、絵里が嬉しそうにうなずいた。僕はアングルを変えた絵里の写真をたて続けに撮った。
1時間ほどで日御碕を引きあげることにした。記念写真をとるために、坂田がバッグから三脚をとりだし、傾斜している岩の上にセットした。日ざしに輝く灯台を背にして、僕たちはカメラに向かった。すでに大きく傾いた太陽が、僕たちをまぶしく照らした。
夕日にきらめく穏やかな海を見ながら、海沿いの道を大社町へ向った。
「夕日が海に沈むところ、私はまだ見たことがないのよ。どんなふうに沈むのか見てみたいな」
絵里の言葉にだれもが同意した。日が沈むまでにはまだ時間があったので、それまでにホテルを確保しておくことにした。
出雲大社の前をふたたび素通りし、大きな鳥居に向かって行くと、神社から数百メートルの所に宿が見つかった。出雲大社の町に似つかわしい、古風な趣きのある旅館だった。
食事の時間などを確認しておいてから、あわただしく車に乗り込んで海岸へ向かった。海辺の近くの道に車を置いて、僕たちは砂浜に入った。日御碕の一帯は岩であったが、出雲大社の海岸は砂浜だった。砂浜はゆるやかな弧を描いて南西に延びていた。
砂の表面がひときわきれいな場所を見つけて、僕たちは腰をおろした。
水平線の上で輝く太陽は絶対的な存在だった。太陽はあたかも自らを荘厳するかのように、周囲の雲と海の面を鮮やかに彩り、視界のすべてを夕映えで染めあげていた。
オレンジ色の輝きは、赤みを増しながら降りてゆき、ついに水平線に接した。
太陽は水平線に溶けこむように形をくずしながら、思わぬ速さで沈みはじめた。華やかな入日の儀式に見とれているうちに、太陽はあっさりと姿を消した。
主役の消えた舞台には、華麗な飾りつけがまだ残っていたが、その光景は淋しさにも似た感情をもたらした。刻々と色調を変える夕焼け空が、甘美でしかも憂いをおびた音楽を想わせた。
「こんどの旅行で一番良かったのは、今日の夕日とこの景色だわ。いつまでも忘れないような気がする、体の中まで染められるような夕焼け空と、沈んでいったあの太陽」
旅行がまだ終わっていないにもかかわらず、絵里が口にした感想に、僕たちは共感の声をもらした。
「太陽があんな速さで沈むなんて、考えたこともなかったわね」掌から砂をこぼしながら綾子が言った。
「昼間だって同じ速さで動いてるんだよな。太陽があんな速さでおれ達の上を通り過ぎたら、その一日が終わるというわけだ。こういうのを見ると実感できるよな、光陰矢の如しというけど」
「光陰の光は太陽で、陰は月のことですよね。月が海に沈むときはどんなふうに見えるのかしらね」
坂田と綾子の会話を耳にしながら、僕は横にならんでいる絵里を見た。絵里は太陽が隠れたあたりに顔を向けていた。体を寄せれば触れそうなところに絵里の腕があった。夕映えに染まっているその横顔を見ていると、絵里がまつげを一瞬ふるわせた。絵里がそっと首をまわして僕を見た。その眼にはいつもの微笑みがなかった。僕を見つめたその瞳が、絵里の想いを伝えてきた。その眼ざしが伝えたものを、そのとき僕はそのまま受け入れた。佳子は心の奥に隠れてしまい、僕にはその姿が見えなくなった。
胸をときめかせながら水平線に眼をやると、姿を隠した太陽がまだその存在を誇示しているかのように、夕焼雲に金色の輝きをそえていた。夕映えの華麗な色彩はかげりはじめていたが、その光景を僕は心を浮きたたせながら眺めた。
辺りは少しづつ暗くなったが、僕たちは腰をおろしたまま話し続けた。
「俺のおふくろのこと、昨日も話したけどさ、この先なんだよ、おふくろの故郷は」
母が生まれ育ったふるさとは、その海辺のはるか彼方にあった。
「昔はこの地方の中学校が、この大社町にあったんだ。昔のその中学校に通うために、俺のおじいさんは、砂浜の向こうの端あたりからここまで砂浜を歩いたそうだよ」
「昔っていつごろのことですか」綾子が聞いた。
「そうだな」およその見当で僕は答えた。「いまから六十年くらい前のことだな。大正時代が終わる頃だったそうだから」
「ずいぶん苦労したのね、昔は車がなかったから」と絵里が言った。
「出雲大社の祭りの時には、お参りするためにここまで歩いたそうだよ。いちばんの近道だから」
「大変よね、あんなに遠い所から、こんな砂の上を歩いて来るなんて。もしかしたら、神様に願いを叶えてもらうためには、そんなふうに苦労してお参りした方がいいのかな」
「そうよ、アヤちゃん。明日お参りするときは、せめて旅館からでも歩かなくちゃ」明るい声で絵里が応じた。
「神様はお見通しだぜ、絵里、そんなみえすいた考えなんてさ」坂田がちゃかすように言った。「車の時代の人間はだよ、それなりの誠意をもって参拝すればいいんだよ」
さきほどからの絵里の声には、はずむような響きがあった。絵里の心のうちを推しはかりながら、僕は夕焼けの名残の空をながめた。
西の空には夕焼けの色がまだ残っていたが、夕闇が辺りをおおいはじめた。海面はすでに暗くなり、水平線に近い辺りだけがきらめいていた。
「あ・・・・もう星が出ている」
綾子の声で眼をやると、星がひとつ光っていた。空のどこをさがしても、見える星はまだひとつだけだった。空はよく晴れていた。数年前に眺めたきれいな星空が思い出された。
「このあたりでは、夜になると満天の星って感じになるんだ。天の川だってはっきり見えるしな」
「すてきじゃない、満天の星と天の川」絵里が声をあげた。
絵里の希望に同意して、その夜はみんなで星を見ることにした。そのためにはひとまず旅館に帰り、食事をすませる必要があった。
車の場所に向かいながら空を見わたすと、わずかな間に星がふえていた。拡がりはじめた雲はまだ西の空にとどまり、その夜のきれいな星空を予告していた。絵里と眺める夜空を想像していると、甘美な予感が胸を満たした。並んで歩いている絵里にその想いを伝えたかった。絵里をいとおしく想うとともに、その想いを抑えようとする僕の感情。互いに絡み合い、心の奥に留まっていたその想いが、すき間を見つけて流れ出ようとしていた。その力に押し流されつつあった僕には、流れの行きつく先が見えなかった。
坂田と僕そして絵里と綾子のために、ふたつの部屋をとっておいたが、そのうちの一部屋に、4人分の食事が用意されていた。思いのほかに豪華な食卓だった。
絵里がうれしそうな声をあげた。「こんな旅館に泊まってこんな食事をするなんて、すっかり感激だわ、わたしは」
「我らの旅の記念すべき最後の晩餐だからな。いい思い出になるよな、これも」
「この旅行を考えてくれた絵里さんと綾子さんに、お前と俺は感謝しなくちゃな」僕は坂田にビールを注ぎながら言った。「いい妹がいて幸せだぞ坂田」
「いい兄がいて幸せな妹ってとこね、わたしは。こんな旅行をしてみたいと言ったら、兄さんのおかげで実現できたんだもの」
絵里の声がはしゃいでいた。僕は絵里にビールをついだ。絵里の視線を感じて顔をあげると、ビールを受けながら絵里は僕を見ていた。見つめ合った束の間に、僕も気持を絵里に伝えた。ときめく想いがわきあがり、幸福感が胸に拡がった。
食事をおえて間もなく、僕たちは星を眺めるために旅館をでた。少なかったとはいえビールを飲んでいたので、車を使うことはできなかった。旅館からはかなりの距離があると聞かされたけれども、僕たちは海岸まで歩いて行くことにした。
まだ宵の口といえる時刻だったが、街には騒音と呼べるほどのものはなかった。にぎやかな4人づれは目立ったことだろう。
海に近づくにつれて人影は減り、歩いているのは僕たちだけになっていた。旅館で借りた懐中電灯で坂田が道を照らした。
夕日を眺めた場所のあたりで、僕たちは暗い海に面して腰をおろした。絵里と綾子を内側にして、僕と坂田が両側にならんだ。僕の左が絵里だった。
冷えた砂がここちよかった。夜の浜辺とは思えないほど、波がくだける音は穏やかだった。細くてするどい月が孤独に光り、星空のアクセントになっていた。月明かりとは呼べないほどに淡いその光が、砂浜をほの白く見せていた。
僕は砂に寝そべった。星空が視野いっぱいに拡がった。絵里と綾子が、そして坂田も、僕に続いて仰向けになった。
暗さになれた眼に天の川がはっきり見えた。絵里が感嘆の声をあげた。誰のものでもないその星空を、絵里に見せて自慢しているような気持になった。
静かな夜の砂浜で、僕たちは声高に話した。いつもの生活の場から遠く離れて、いつものことを忘れる場所だった。夜の砂浜、満天の星、そして砂の感触。僕の横には絵里がいた。
「ねえ、少し歩いてみない」と綾子が言った。
「それもいいな。どうする松井」
「いいじゃないか、行ってきなよ」胸にさざなみを立てながら僕は言った。「おれは疲れたからここで待っている」
「私も疲れたから・・・・私もここに居ることにする」
期待した通りの絵里の言葉だった。胸のさざ波がうねりはじめた。
坂田と綾子はすぐに立ちあがり、波うちぎわへ向かって歩いていった。ふたりの足音は聞こえず、遠のいてゆく二人の声に、それまでは気にとめずにいた波の音がかさなった。
空気がにわかに密やかになり、声高には話せなくなった。絵里とふたりになれて嬉しかったが、心の奥には不安があった。言葉をえらびながら話している自分の声が、我ながらぎこちないものに聞こえた。絵里の口調もゆるやかになり、その声はささやくように低くなった。
僕は絵里の気持ちに応えたくなった。絵里はそれを待っているのだ。絵里の期待に応えてやりたい。今はまさにそのときなのだ。気持ちがそこまで高まったとき、いきなり心の隅に佳子が見えた。絵里に対する想いを口にだそうとしていた僕は、急いでそれに代わる言葉をさがした。
「綾子さんって、坂田にぴったりじゃないか」
「そう思うでしょ、やっぱり」と絵里が言った。「演奏会の帰りに話してくれたわね、新幹線に乗ったときに、隣の人と話をするのはどんな場合かって。兄さんたちは最初からうまくいったみたいね」
絵里のその言葉を聞いて、僕はますます絵里の期待に応えてやりたくなった。
自分の気持ちを表わす言葉が見つからないまま、僕は絵里の言葉を引きつぐようにして言った。
「棚から荷物を落とす方法・・・・試してみなかったのか」
絵里は無言のままに体をおこし、ゆっくりと立ちあがった。絵里の無言を気にしつつ、僕は絵里の横にならんで立った。
遠くの方にライトがあって、明かりの中に坂田と綾子らしい姿があった。静かな夜の浜辺だったが、彼等の声はとどかず、ここちよい風の中には穏やかな波の音だけがあった。絵里のシャツがほの白く見え、その肩先では髪が揺れていた。
絵里は腰をおろすと、冷たい砂が心地よいと言いながら、手のひらを砂に押しつけた。僕が砂に腰をおろすと、それを待っていたかのように、絵里はゆっくりとした動作で身を横たえた。
「こうしていると、なんだかとても気持ちいい。このままずっとこうしていたい」
つぶやくような絵里の声にうながされ、僕も砂の上にあお向けになった。
星空を眺めながらの会話がふたたび始まった。絵里は短大時代の友人のことを話した。絵里の気持ちをはかりかねたまま、僕たちに関わりがあるとは思えないその話題につき合った。
心なしか絵里の声が憂いをおびたものになり、口調には淋しさがやどりはじめた。無意味なことを話してはいられないと思った。絵里の気持ちに応えてやらなければならないのだと、何者かにけしかけられているような気持になった。
「あの演奏会で初めて会ってから、まだ二ヵ月も経っていないよな。こうしていると、不思議な気がしないか」と僕は言った。
「不思議というよりも、私はこうして星を見ていることが、なんだか夢のような気がする。松井さんと二人だけで・・・・こんな砂浜で・・・・」
絵里のふるえる声が僕をゆさぶった。僕は体をおこして絵里を見た。絵里の表情はわからなかった。さらに顔を近づけると、絵里の息づかいを感じた。絵里は眼をとじていた。かすかな光の中で絵里がさびしげに見えた。そんな絵里がさらに僕をひきつけた。気配を感じた絵里が眼をあけた。絵里は大きく開いた眼をふたたび閉じた。僕は絵里にそっとキスをした。
絵里のしぐさはひかえめだった。おずおずと僕に応える絵里が、このうえなくいとおしく思われた。僕は絵里を抱きしめた。絵里は僕に腕をまわしていたが、その手は少しも動かなかった。
僕は顔をはなして絵里を見た。絵里がそっと眼をあけた。かすかな光の中で僕を見ていた絵里が、ふいに体を起こそうとした。僕は絵里の背中をささえて起こしてやった。
僕たちは体を寄せ合って、ささやくような声で話した。絵里の抑えた声が幸せな想いを伝えてきたが、その口数はむしろ少なくなった。 絵里の肩に腕をまわすと、絵里は体をあずけるように傾けてきた。絵里の手を握ると砂がついていた。砂の付着した手の感触を、なぜかとても新鮮なものに感じた。その感触を確かめるようにもういちど握ると、絵里もそれに応えて握りかえした。何かに遠慮しているかのように、絵里のしぐさはやわらかく、そしておずおずとしていた。
穏やかにくりかえす波の音にまじって、坂田と綾子の声が近づいてきた。絵里の手をはなして立ちあがると、坂田と綾子の姿が影のように見えた。
絵里がしづかに立ちあがり、僕の横にならんだ。背中についた砂をはらい落としてやると、絵里はささやくような声で「ありがとう」と言った。
坂田の声が伝わってきた。「遅くなったな。そろそろ帰ろうか」
その呼びかけに僕は声を返した。浜辺の静寂を破ったその声は、夜気のかなたへ瞬時に消えた。僕は絵里をうながし、坂田たちに向かって歩きだした。
懐中電灯の明かりをたよりに、僕たちは旅館への道をたどった。街灯のある道に入ってから、並んで歩く絵里のようすをうかがった。快活に話している絵里の表情は、海岸へ向かった時と変わらなかった。僕もまた、自分でも不思議に思えるほど、何ごとも無かったかのように振る舞っていた。坂田と綾子の二人にも、変わったところは見られなかった。
僕たちが旅館に着いたときには、予定していた時刻を1時間ちかくも過ぎており、部屋にはすでにふとんが敷いてあった。
急いで風呂に入ってから、一つの部屋に集まって話し合った。絵里はひときわ快活だった。僕もまた浮かれたようにふるまっていた。坂田と綾子はそしらぬ顔をしていたけれども、僕と絵里のそのような変化に気づいていたことだろう。
話し合いが終わるとすぐに、絵里たちは部屋を出ていった。坂田との会話はしばらく続いていたが、間もなく灯りを消して寝床に入った。
寝床に身を横たえて眼をつむると、その時を待っていたかのように、浜辺での絵里とのことが甦ってきた。淡い光の中でも一瞬光った絵里の瞳が、そして、心のうちの喜びを伝えてきた絵里のしぐさと絵里の体の感触が、なまなましい程にはっきりと思い出された。
甘美な想いにふけっていると、胸の奥からいきなり佳子が現われた。佳子は悲しみにうちひしがれていた。佳子がいたわしかった。佳子をしっかりと抱き締めてやりたかった。佳子を悲しませるようなことをしたくないと強く思った。
急速にひろがり始めた不安の中で、佳子に対する気持ちを考えてみた。考えるまでもなかった。いつにも増して佳子をいとおしく思った。それならば、絵里は自分にとってどんな存在だろう。そのこともまた、考えるまでもないことだった。絵里もまた僕の心のなかに座を占めていた。それどころか、絵里は始まったばかりのときめく想いの中にいた。不安な想いが次第につのり、いつまでも寝つけなかった。
つぎの朝、無邪気なほどに明るい絵里の笑顔が僕を迎えた。喜びに輝く絵里の瞳はうれしかったが、たちまち佳子のことが思いだされて、前夜からの思案の流れに引き入れられた。絵里の期待に応えてやりたいと思う気持ちと、それを抑えなければならないという意識が、僕に不安と混乱をもたらしていた。僕はそのような不安を抱えたまま、明るくふるまう絵里と向き合うことになった。
時間にゆとりがあったので、ゆったりと準備を整えてから旅館を出た。その日は朝から曇っていたが、まだ雨の心配はなさそうだった。
「どうしたんだ、松井。今朝はいやに静かだな」車を運転していた坂田がいきなり声をかけてきた。
浜辺での絵里とのことを思い返していた僕は、その声に応じて口をひらいた。
「俺たちはついていたな、天気が良くて」
「それじゃ、運が良かったことを神様に感謝してくれ、お前が代表して」
坂田はそのまま口を閉じた。絵里と綾子が天候に恵まれたことを話題にしはじめた。僕の意識はふたたび絵里に向かった。うしろの席から僕を見ている絵里の心のうちを想った。絵里はどのような気持ちで、昨夜のことを思い返しているのだろうか。今朝の絵里はとても幸せそうだ。絵里をもっと幸せな想いにしてやりたいけれど、そんなことをしていたならば、佳子との仲がおかしくなるにちがいない。佳子を悲しませるようなことはしたくない。これから自分はどうしたらよいのだろうか。
車を神域わきの駐車場におき、参道を歩いて神殿に向かった。僕には3度目の参拝だった。宗教心という程のものを持たない僕も、神域のかもしだす雰囲気につつまれると、さすがに少しは厳粛な気分になった。
本殿の前で写真を撮ることになり、坂田が三脚にカメラをセットした。セルフタイマーをセットしている坂田を見ていると、不意に浜辺での絵里とのことが思いだされた。
シャッターがおりそうになったとき、絵里が体をよせてくる気配がした。絵里の気持ちを推し量りつつ、絵里との交際のゆく末を思った。
細長くつらなった建物の前で綾子が言った。
「ここは神様のアパートみたいね」
僕は出雲の神在月について話した。陰暦の神無月には全国の神々が出雲に集まるというので、出雲ではその月を神在月と呼ぶのだが、意外にも坂田はそれを知っていた。
「そういうことなら、この建物はやっぱり、出雲に来た神様たちが泊まるホテルかも知れないわね。だけど」と綾子が言った。「神無月とか神在月という呼び方、誰が最初に考えたのかしら」
「そうだよな、全国の神様をここに呼ぼうとしても、断られたらそれっきりだしな」
「ほんとだ、坂田。おもしろいぞ、それは。出雲の神在月ってさ、日本中の合意があったわけだろ。どうやって合意を取りつけたんだろう」
「朝廷かどっかが決めたんじゃないのかな」
「だったら、出雲じゃなくて、奈良か京都に神様を集めてもよかったんじゃないかしら」と絵里が言った。
「出雲風土記っていうのがあるよな。そこにでも書いてあるんじゃないのかな、そのいきさつが」と僕は言った。「おれはその中身を知らないけどさ」
出雲風土記という古い書物にどのようなことが記されているのか、4人のうちにそれを知る者はなかった。
それからおよそ1時間が経ったころ、僕たちは坂田が運転するレンタカーで出雲市へ向かっていた。
レンタカーを返してから出雲市駅に行くと、特急やくもが発車するところだった。
次の特急やくも号は1時間後だった。僕たちは切符を買ってから駅を出て、隣接するデパートに入った。大社町の店でみやげ物を買った絵里と綾子は、そのデパートでも買物をした。彼女たちが用事をすませてから、デパートの食堂で昼食をとった。4人ともに、出雲のわりご蕎麦を選んだ。時間に追われながらの食事をおえて、僕たちは駅に向かった。
座席指定券の2枚は隣り合った座席のもので、あとの2枚は互いに離れた席のものだった。絵里とふたりだけになることを避けたかったので、隣り合った座席を坂田と綾子にすすめた。出雲市駅が始発の特急やくもは、座席の多くが空席だった。不安な気持をかかえたまま、僕は絵里のとなりの席に腰をおろした。
絵里は快活に話しかけ、明るく笑いながら体をよせてきた。絵里が見せはじめたそのような振る舞いはうれしかったし、絵里の体が触れるたびにときめくような想いがしたけれども、その一方で、僕の不安はますます強まっていた。絵里との会話のあいまに佳子のことを思った。佳子を悲しませるようなことはしたくないと思った。
左側に宍道湖が見えてきたので、絵里をうながして右側の座席から左側の空席に移ることにした。
厚みを増した雲が宍道湖を覆っていた。にぶい光の帯が湖面を走り、風が流れる向きを教えていた。対岸の景色がかすんで見えた。雨つぶが窓について、外の景色がにじみはじめた。
僕の気持ちの揺れには気がつかないらしく、絵里は明るい声で天候に恵まれたことに感謝した。好天に恵まれて本当に良かったと、僕は絵里と同じことを口にした。
「今度の旅行のこと、松井さんは何が一番良かったの」
その言葉が夜の砂浜を思い出させた。絵里の問いに答えるかわりに、僕は「絵里さんが良かったのは、やっぱり鳥取の砂丘か」と聞いた。
「わたしはあの夕日ね」と絵里が答えた。「いろんな夕焼けの詩や歌があるわけがわかったような気がする」
「荘厳っていうか、厳粛っていうか、そんな感じの夕日だったけど、おれは鳥取の砂丘だよ、いちばんよかったのは」
出雲大社の浜辺を話題にしていれば、のっぴきならない所に追い込まれそうな気がした。僕はいそいで話題を移したが、しばらくたつと、絵里はふたたび浜辺のことを口にした。
「星もよかったわね」小さな声で絵里が言った。「天の川も見えたし」
絵里の口調の陰りを気にしながら、僕は「東京にはないんだよな、あんな星空は」と言った。
自分でも気になるほどに、僕の声には元気がなかった。
沈黙が数秒つづいたあとで、絵里が「いい思い出になるのに、星空は記念写真にできないのよね」と言った。
声がさびしげに聞こえた。僕はあせった。
「いい思い出になるよな、今度の旅行。良かったよ、こんな旅行ができて」
「私も・・・・ほんとに良かった。とても楽しかったし・・・・」
絵里はつぶやくような言いかたをした。僕が不安な想いにとらわれているかぎり、絵里の気持ちを曇らせるおそれがあった。会話をはずませるためにも、そこまでの自分の態度を取りつくろうためにも、適切な言葉を見つけなければならなかった。言葉を探しながら窓の外に眼を向けると、ぬれた窓の向こうで松江の街がにじんでいた。
松江の駅では多くの乗客が乗りこんできて、いきなり車内がにぎやかになった。僕と絵里が右側の元の座席にもどると、若い男がやってきて、問いかけるようなまなざしを向けてきた。
学生風のその男は、並んでいる僕たちを見て、座席の交換を申し出てくれた。絵里とふたりでいることには苦痛を感じていたが、その男に感謝の言葉をつたえて席を替わってもらった。岡山に着くまでの数時間を、僕は絵里と並んで過ごすことになった。
僕がどんなにうまく取りつくろったところで、前夜からの想いにひたり続けていたはずの絵里には、僕の態度が不可解なものに映ったことだろう。数時間を僕とふたりで過ごすことになったとき、さぞかし絵里は期待したことだろう、さらに大きな喜びが得られることを。期待をうらぎられた絵里はそのわけを察したに違いなかった。僕と佳子の仲がどの程度のものか、絵里がそれを知るはずはなかったけれど、そのとき、絵里は佳子の存在を強く意識したにちがいない。絵里は口数が減り、声と口調が重くなった。
絵里は僕たちふたりに係わることを口にしなくなった。絵里が意識してそのような話題を避けているのだと思うと、僕の気分はさらに重くなった。そんな僕たちに話題を提供してくれたのは、車内販売から求めた週刊誌だった。そこから話題が得られることを期待して、僕は二冊の雑誌を買い求め、そのうちの一冊を絵里に渡した。ふたりともそれをほとんど読まなかったけれども、記事の見出しを眺めるだけで話題のタネが見つかった。絵里は少しづつ明るさを取りもどしたが、嬉々とした表情はもどらなかった。絵里は意識して明るくふるまって見せたのかもしれない。声にだして笑うことがあっても、体を寄せてくることはなかった。
岡山駅で新幹線に乗りかえた。自由席の車内で僕たちはそれぞれに空席をさがした。名古屋で多くの乗客が降りるまで、僕たちは離ればなれに座っていた。
東京に着いたのは8時過ぎだった。新幹線の改札口から少し歩いたところで、僕たちはにぎやかに別れの言葉を交わした。笑顔で手をふる絵里にむかって、同じように僕も手をあげて応えた。絵里の笑顔がやどしていた寂しさに、そして、つらい想いでそれを見ていた僕の気持ちに、坂田と綾子はおそらく気づかなかっただろう。
坂田は絵里といっしょに両親の住む家に向かった。綾子が乗るのは地下鉄だった。僕はひとりで中央線のプラットホームへ向かい、高尾行きの電車に乗った。
ひとりになったとたんに、僕は想いの世界にひき寄せられた。
浜辺での絵里とのことを思いかえした。あのとき、絵里はほとんど動かなかった。その控えめなしぐさの一つひとつに、歓びに震えている絵里を感じた。おずおずとしたその動きに、嬉しさの中にも緊張している絵里の気持が表れていた。
甘美な想いにひたっていると、いきなり心の中に佳子が現れた。たちまち僕は不安におそわれた。絵里のことを知ったら佳子はどんな気持ちになるだろう。何も知らない佳子が哀れだった。僕は心の中で佳子をなぐさめた。まだ愛しているんだ、悲しまないでくれ。佳子がとてもいとおしく、そして、ふびんに思われた。
先夜からの不安がふたたび僕を強くとらえた。僕は途方にくれながら思った。どうしてこんなことになったのだろうか。
絵里とつき合い始めてからほどなく、僕に対する絵里の気持ちに気がついた。佳子との仲を絵里に伝えなければならなかったのに、僕はむしろそれを隠そうとした。自分の心の不確かさを意識していながら、絵里からの誘いに僕は喜んで応じた。そして今では、絵里がこれ程までにいとおしい存在になってしまった。
僕は思った。今のうちなら絵里から離れることができるだろう。絵里のためにもそうすべきだ。だが、そのように考えている僕の中には、絵里の笑顔に応えたがっているもうひとりの僕がいた。
僕はさらに思った。佳子以外の女を愛することなど考えられなかったのに、今の自分はたしかに絵里を愛している。このような自分には、さらに新しい出会いが待っているかも知れないではないか。僕はもの悲しい気分になった。そのとき不意に、伯父のことが思いうかんだ。母が話してくれたところによれば、母の兄には離婚した経歴があり、再婚して現在の家庭を築いているということだ。僕が生まれるよりも以前のそのできごとについて、詳しいことを伯父からは無論のこと母からも聞いたことがなかった。
温厚で誠実なあの伯父が、どうして離婚する結果になったのだろうか。人生の過程で互いに深く関わりあった男と女が、その関わり合い方を根底から変えてしまったのだ。その過程では別の男か女が関わっていたのかもしれない。縁という言葉で説明するにしろ、運命だと受け入れるにしろ、そこには人の責任に帰すべきところが多かったに違いない。その人生を振り返るとき、伯父自身はどのような想いを抱くのだろうか。そんな伯父に相談すれば、自分が抱えこんだこの問題を解決するうえで、手がかりになるものが見つかるかも知れない。
日野市に住んでいる伯父とはいつでも会えるのだが、その半年ほどは会っていなかった。僕は伯父に会いたくなった。伯父と話し合うことで、僕が必要とする何かを得られそうな気がした。