第2章 その妹
第2章 その妹
演奏会場となる建物に近づくと、入口の近くに坂田の姿が見えた。意外なことに坂田は女をつれていた。坂田からは知らされていなかったが、妹をつれて来たらしいとすぐに察しがついた。
「わるいな、待たせたか」と僕は声をかけた。「妹さんか」
「ああ、せっかくだからつれてきた。妹のエリだ」
なぜか照れたような表情を見せながら坂田が紹介すると、その妹は、「はじめまして、エリです」と言って、かるくおじぎした。きれいな眼がまぶしかった。
「俺よりも妹のほうが楽しみにしていたんだ、今日の音楽会を」
「クラシックは初めてなんです。一度は聴いてみたいと思って、兄についてきました」
つつましやかな口ぶりだった。そのものごしに、控えめな性格が表われていた。
建物の入口を入ったところで、2階の座席へ向かう坂田たちと別れることになった。
「それじゃ、あとで」と僕は坂田に向かって言った。
僕はその妹にも声をかけようとして、どのように呼びかけようかと考えた。そのとき、その妹が笑顔を見せて、「エリです」と言った。僕はその言葉に誘われるように「エリさん」と呼びかけ、「クラシックなんて、気楽に聴けばいいですよ。聞こえてくる音を聴いてるだけでいいんだから」と言った。
開演を待ちながら僕は思った。坂田といっしょに飲んだとき、坂田は妹を紹介すると言っていた。坂田は妹を紹介するつもりでつれてきたのかもしれない。機会をみて、佳子のことを坂田に知らせよう。
演奏会がおわったあと、僕たちは会場の外で落ち合った。
「どうだった、坂田」僕は坂田に感想をもとめた。「会社のCDで聴くのと違ってたか」
「演奏するのを見ながら聴くのもいいもんだな。だけど、楽器を演奏している人の動きに気をとられるんだよな、俺は」
「珍しいからだろ」
「終わる頃には眠かったけどな。でも良かったよ、クラシックの音楽会というものを体験できて」
「俺だって、家でLPを聴くときには、しょっちゅう居眠りしてる。演奏会で眠るなんていうのは最高のぜいたくだよ」
絵里が笑った。遠慮ぶかそうな小さな声だった。
絵里を見ながら坂田が言った。「松井、どこかに寄らないか。せっかくだからさ、絵里に音楽のことを話してやってくれよ」
喫茶店をさがしながら地下鉄の駅に向かっていると、駅の入口に近いところでようやく見つかった。
コーヒーカップを手にしたまま、僕はその日の演奏会の解説をした。オーケストラの特徴や演奏曲目のこと、さらには作曲家のことなど。僕の向い側が坂田で、そのとなりが絵里だった。絵里はきれいな瞳を輝かせながら、僕の話にだまって耳をかたむけていた。
いつのまにか、坂田に向って話しかけているときですら、僕は絵里に聞かせるために話しているような気持になった。
「だったら、わたし、ラフマニノフよりも以前の人が作った曲も聴いてみたいですね」と絵里が言った。
「テープにダビングしてあげるよ、絵里さんが気に入りそうなのを。さっきも話したんけど、絵里さんのラジカセだったら、ヘッドフォンで聴いたほうがいい音で聴けるからさ、音質のいいヘッドフォンも貸してあげるよ」
「うれしいです」絵里が僕を見つめるようにして言った。「ありがとうございます」
「どんなのにしようかな」僕は絵里の気に入りそうなものを考えた。「さっき聴いたようなピアノ協奏曲ということで、シューマンとショパンのにしてみようか。他にも何か考えとくよ」
音楽の話がしばらく続いたあとで、銀行のことが話題になった。絵里が語った職場での体験談は、銀行の内部のことを知らない僕にはめずらしく、そして面白かった。
喫茶店でのひとときを、僕はうかれたような気分ですごした。自分に向けられた絵里の笑顔を意識して、僕はいつになく冗舌だった。
絵里がひかえめな性格だということは、最初に言葉を交わしたときにわかった。絵里のものごしやその口ぶりに、そして、笑顔の中の美しい眼に、誠実で優しい人がらがにじみ出ていた。そんな絵里が僕には好ましく思えた。絵里が僕の心に残したものはそれだけではなかった。僕は気がついていた、絵里もまた僕に対して好意を持ってくれたということに。佳子という存在がありながら、ほかの女から好意を持たれたという意識が、僕をうわついた気分にしていた。
どんなに実験をくり返しても、成果らしいものはほとんど得られなかった。とはいえ、僕は実験装置の取り扱いにすっかり慣れて、小宮さんから試作の作業をまかされるようになっていた。
僕と小宮さんは時おり吉野さんの職場をたずね、実験データについての意見を聞いた。吉野さんは親切に指導してくれただけでなく、あとで電話をかけてきて、自分の意見を補足するようなこともあった。吉野さんは自分の仕事で忙しかったはずだが、いつでも気さくな態度で相談に応じてくれた。
僕には月曜日の会議が疎ましいものになった。野田課長はいらだちを隠さず、きつい言葉で課員を責めた。野田課長のそのような姿に、僕は疑問をいだきはじめた。
僕の課の四つのグループは、いずれも困難な技術上の課題をかかえていた。困難な課題だからこそ開発に意義があるはずだが、そのような開発が予定通りに進むとはかぎらない。試作の遅れにいらだつ野田課長の姿とその言動に、僕は憎しみすら覚えるようになった。
実験室で小宮さんとふたりきりになったとき、僕は野田課長に対する不満をぶちまけた。
僕の言葉に同意した小宮さんは、「野田さんは猛烈社員流のやり方から抜け出せないんだよ」と言った。
「こんなにがんばってるんだから、僕たちだって猛烈社員じゃないかな」
「もちろん、おれたちだって随分がんばってるさ。だけどな」と小宮さんが言った。「目標に向かってがんばるのと、野田さんみたいに無理な計画を立てて、それを達成するためにがんばるのとは違うはずだろ。ああいうのを猛烈社員型って言うんじゃないのかな」
「猛烈に働いて、たくさん作ってどんどん売って、それで日本は豊かになったわけですよね。だけど、日本人の生活というのはそれ程でもないんでしょ。外国とくらべて住宅が狭すぎるし、通勤には時間がかかりすぎるし。新聞や週刊誌にはそんなことが載ってますよね。日本の誰なんだろう、豊かになったのは」
「会社だろ、もちろん。あのグラウンドを見ろ。土地を買ってあんなに広くしたじゃないか。だけどさ、一番得をしているのはアメリカ人じゃないのかな。誰かが言ってたぜ、日本人はアメリカ人の豊かな生活のために、汗水たらして働く奴隷みたいなもんだって」
そんな記事か論説を読んだことがある、と小宮さんは言った。企業は互いに競争し、良い製品を少しでもやすく作ろうと努力する。その競争にまき込まれた日本人が汗を流して作った製品を、アメリカやヨーロッパでは豊かな生活のために使っている。それにひきかえ、日本人は努力したほどには報われていない。勤勉に働くことは日本人の美徳であるにしろ、それが自分たちに還元されていないのであれば、それは奴隷の労働に似たものである。小宮さんによれば、日本人奴隷論というのはそのようなものであるらしかった。
僕は小宮さんと議論した。実際のところ、今の日本人のおかれた状態はどのようなものなのか。確かに今の日本人には奴隷的な要素がある、と小宮さんは主張した。
「もしもそれがほんとなら、急いでリンカーンを見つけて来なきゃならないですね」と僕は言った。
「誰かがリンカーンにならなくちゃならないんだよ」
「労働組合ってリンカーンにはなれないのかな」
「いまの組合がやれるのは、せいぜい奴隷の待遇改善だろう」と小宮さんは言った。「やっぱりさ、おれたち日本人が変わらなきゃだめなんだよ、奴隷のような状態から脱却するには。どっかの誰かによって解放されるってもんじゃないだろ、そういうのは」
たしかにその通りだと思った。日本を住みよい国にしたいというのであれば、自分たちが真剣に考えるほかはないだろう。政治について坂田と話し合ったことが思いだされた。
昼食をとっている間に雨が強まっていた。社員食堂から僕の職場までは50メートルもなかったが、その距離を走ることすらあきらめさせる雨だった。食堂の出口付近にはたくさんの社員がたむろしていた。
「このようすだと、しばらく待つしかないだろう。中に入ってコーヒーでも飲みながら話さないか」
いつのまにか坂田が横に立っていた。
自動販売機のそばで紙コップを手に立ち話をしていると、坂田がとうとつに先日の演奏会のことを持ちだした。絵里は演奏会のことをとても喜んでおり、そのような機会をさらに持ちたがっている、ということだった。僕はそれを聞いて、佳子の存在を知らせなければならないと思った。
「実はおれのつき合っている人も音楽が好きなんだ。埼玉に住んでいるから、いっしょに演奏会に行くことはめったに無いけどな」
僕の話したことに意外な感じを受けたらしく、坂田はとまどったような表情を見せた。
「そうか・・・・でもいいじゃないか、音楽会に行く程度の浮気なら。お前にはつき合っている人がいること、家に帰ったときに絵里に話すよ。がっかりするだろうけどな」
坂田の「がっかりするだろうけど」という言葉が僕の胸にさざ波をおこした。甘美な想いを伴うさざ波は、ここちよく拡がりかけたけれども、すぐに不安を伴う予感がそれを抑えた。自分の心の不確かさをかいま見たような気がした。僕は佳子に対してうしろめたさを覚えた。
僕は心の揺れをおさえて言った。「絵里さんが聴きたがってるなら、もちろん喜んでつき合うよ。おれだって、一人で聴きに行くより、絵里さんといっしょの方が楽しいからな」
演奏会の日の別れぎわに、絵里は「もしも迷惑でなかったらですけど、いつかまたいっしょにお願いできますか」と言った。絵里の遠慮ぶかそうな声と笑顔を前にして、僕は喜んでつき合うと答えたのだった。絵里が望んでいるというのであれば、それを拒むわけにはいかないと思った。
多少のこだわりはあったけれども、僕は絵里の希望に応えることにした。そして、僕は自分に向って言いわけをした。約束通りに絵里を演奏会につれて行き、そのついでに自分も楽しいひと時をすごすのだ。そのことに問題があろうはずはない。いったんその気になると、なるべく早く絵里を演奏会につれて行きたくなった。
その日は夕食を終えるとすぐに自分の部屋に入り、プレイガイドに立ち寄るたびに持ち帰っていた、演奏会に関わる資料を取りだした。さがしてみると、どうにか良さそうなのがあったので、電話で坂田にそのことを伝えた。
坂田を介して絵里の都合をたしかめてから、つぎの日の夕方には入場券を買った。演奏会まで四日しかなかったので、良い席はすでに売りきれていた。
その日の演奏会に、僕はめずらしく早めに出かけた。会場の入口で絵里を待たせるようなことをしたくなかった。
待つほどもなく、白いブラウスを着た絵里の姿が見えた。壁にもたれていた僕のまわりには、知人を待っているらしい人が立ち並んでいたから、絵里には僕の姿が見えなかったのだろう。僕に見られていることに気づかないまま、絵里は軽快な足どりで近づいてきた。白いハンドバッグを手にした絵里がとても清楚に見えた。
絵里が近くまできてから、僕はもたれていた壁をはなれた。僕に気づいて、絵里はおどろいたような表情を見せたが、すぐににこやかな笑顔をうかべた。
「ごめんなさい、待ちましたか」
「いや、ちょっとだけ」と僕は答えた。「たまには早く来て、どんなだか試してみようと思ったんだ」
「試すって・・・・」絵里はとまどいを見せたが、すぐに笑顔で続けた。「それで、どうでしたか、早く来てみたら」
「待つことも案外に楽しいということがわかったよ。絵里さんがどんな風に現われるのか想像したりしてさ」
「期待にそえましたか、こんな現れ方で」
絵里は両うでを左右に開きながら言って、そんな自分のしぐさをはにかむみたいにほほ笑んだ。いきなり、絵里がそれまでよりも身近で親密な存在になった。笑顔のなかのきれいな眼が、それほど眩しくはなくなった。
「絵里さんを見ていたら、演奏会に期待していることがよくわかったよ。ここへ向かって一所懸命に歩いてくるみたいだった」
「わー、はずかしい」本当にはずかしそうな表情を見せて絵里は笑った。「この次は松井さんよりも先に来なくっちゃ」
うちとけたもの言いをしながらも、絵里の笑顔にはまだ堅さが残っていた。そんな絵里を見ていると、いたわってやりたいような気持ちになった。
「この次も僕のほうが先に来て待つことにするよ。近づいてくる絵里さんを、どきどきしながら見たいからさ、今日みたいに」
それを口にしたとたんに、僕はかすかな狼狽をおぼえた。絵里の気持ちをほぐしてやるつもりの言葉の中に、自分の気持ちがまぎれこんだような気がした。
「ごめんなさい、先にお礼を言わなくちゃいけないのに」と絵里が言った。「ほんとにありがとうございました、あのテープ。とっても素敵です、ショパンもシューマンも」
絵里に贈るために、ショパンとシューマンのピアノ協奏曲をダビングし、一週間ほど前に坂田に渡しておいた。それがよほど気に入ったのか、絵里はそれら二つの協奏曲のことを夢中になって話した。
「そんな風にして、ヘッドホンであのテープを聴きながら小説を読むのって、ほんとに素敵ですよ。BGMみたいな感じですけど、くりかえして聴いてます」
「気に入ったクラシックでも、そんなに聴けばあきるだろうから、別のものをダビングしてあげるよ」
「ごめんなさい」と絵里が言った。「なんだかおねだりしちゃったみたい」
しばらく話しているうちに、絵里の笑顔からかたさが消えた。二週間ぶりの二度めの出会いだったが、僕たちをうちとけた雰囲気がつつんでいた。
演奏が始まっても、僕は音楽に集中することができなかった。横にいる絵里を意識しながら考えた。会場を出てからそのまま駅に向かうというのでは、絵里に淋しい想いをさせるような気がする。どこかに立ち寄って、演奏会の余韻を楽しむとしよう。ふたりとも食事はすませていることだから、飲み物だけでいいだろう。
会場を出ながら絵里に誘いかけると、絵里はうれしそうに同意した。
地下鉄の駅へ向かう途中にケーキ屋があり、その2階が喫茶室になっていた。飲み物を注文すれば、特製のケーキがついてくる店だった。店の中の階段をのぼって、僕たちは喫茶室にはいった。
コーヒーとケーキはすぐに出てきた。絵里はケーキをながめ、それから僕を見て嬉しそうにほほえんだ。笑顔を絵里にかえしてから、僕はコーヒーカップをとりあげた。絵里はケーキの皿を両手で引きよせた。
演奏会の感想を語り合っていると、にこやかな笑顔を見せて絵里が言った。
「あの人の寝息、何だかとてもおかしかったですね。音楽が静かになると聞こえて」
演奏が始まってからまもなく、絵里の前の座席から寝息が聞こえ始めた。サラリーマンらしいその男の寝息は、となりの人に注意されるまで続いた。
「あの人も、きっと音楽が好きな人だと思うよ。わざわざ出かけたんだからさ」
「この前に会ったとき、松井さんはLPを聴きながら眠ることがあると言ったでしょ。音楽を好きな人って、かえってそんなことがあるのかしら」
「LPならば子守歌にできるけど、演奏会で寝てしまったらもったいないよ」
「演奏会が子守歌っていうのもぜいたくだけど、寝ちゃったら子守歌も聞こえないから、やっぱりもったいないわね」
絵里の言葉に僕が笑いだすと、絵里もいっしょになって笑った。抑えられたその声が、僕の耳には好ましく聞こえた。
「僕だって、場合によったら居眠りするかも知れないよ、あの人みたいに。マージャンで寝不足になったりすれば」
「マージャンをするんですか、松井さん」
「学生時代に、マージャンの好きな友達に誘われたんだ。洞察力が強くなるからやってみろって。僕もたまには遅くまでつき合ったけど、卒業してからは一度もやっていないよ。それほど好きなわけじゃないし、そんな暇もないからさ」
「兄は好きなんですよ、マージャン」
「そうか、意外な感じだな、坂田がマージャンをするとは。もしかすると、坂田の洞察力はマージャンのおかげかもしれないな」
「そんなに洞察力があるんですか、兄さんは」
「坂田の洞察力はそうとうなもんだよ。僕たちがこんな店に入ることだって、坂田にはお見通しだと思うな。だからさ、月曜日に坂田に会ったら、あいつは僕に向かって言うはずなんだ。演奏会のあとで絵里といっしょにケーキ屋に入って、二階の席でケーキを食いながら、うまいコーヒーを飲んだだろう。お前を見ただけでおれにはわかる」
絵里は控えめな声をあげて笑い、「松井さんは、私のこともそんなふうに洞察できますか」と言った。
「洞察って、絵里さんのことをかい」
「そう、たとえば、休みの日にはどんなことをしてるのか」絵里は両手で持っていたコーヒーカップをゆっくりとまわしながら言った。「あるいは・・・・ボーイフレンドはいるのかどうか・・・・たとえばそんなこと」
絵里がボーイフレンドという言葉を口にしたとき、僕は心の揺れをおぼえた。坂田が僕に絵里を紹介しようとしたのは、絵里にはつき合っている男がいないからだ、と僕は思い込んでいた。絵里の言葉を聞いて、もしかすると、絵里にはボーイフレンドが居るのかも知れないと思った。
「むつかしいな、ボーイフレンドについての洞察なんていうのは」
「だから・・・・そのことも含めて、ようするに私のこと」
「居るんだろ、ボーイフレンド」
「さあ、どうでしょう。どう思いますか」
絵里は僕に笑顔を向けたまま、コーヒーカップを口へはこんだ。
その様子を見て、絵里にはボーイフレンドがいないような気がしたけれども、僕は「もちろん居ると思うよ。だってさ、絵里さんをひとりにしておくなんて、もったいないからな」と言った。
絵里の眼が、笑顔の中で驚いたように大きく開かれた。絵里はコーヒーカップをテーブルに置き、カップに手をそえたまま顔をあげた。
「居ないんですよ、わたし、ボーイフレンドって。短大の頃だって。だからね、ボーイフレンドを持ってる友達がうらやましかったの」
「今までいなかったなんて不思議だな。もしかしたら、ボーイフレンドが欲しいと、本気で願っていなかったんじゃないのかな、絵里さんは」
「そういうのって、やっぱり縁だと思いませんか」
「銀行にもたくさん居るんだろ、良さそうな人が」
「そうね、一般論的にいい人は、いっぱい居るような気もするんだけど」
「なんだよ、一般論っていうのは」
「理想的な恋人の条件というのがあるんですって。そういう意味では、銀行にもいろんな人がいるんですけど、とくにこの人はというひとはいないのよね、わたしの場合には」
「一般論的な理想にこだわるわけじゃないんだろ」
「そんなことにはこだわりませんけど……いままでは、わたしと縁のある人に出会えなかったのよね、きっと」
絵里はコーヒーカップを取りあげると、それを両手でそっと支えるようにした。絵里のそのような仕ぐさがかわいらしく見えた。
「出会いを待つのもいいけどさ、縁を作るようにしたら、もっと早く見つけることができるはずだよ。男にだって同じことが言えるんだけど」
「男の人にとっても一般論的っていうか、そういうのはあるんでしょ」
「あるだろうな、たぶん。でも結果としてはやっぱり縁だろうな」
「いまつき合ってる人とは縁があったわけですね」
坂田が伝えたはずだから、絵里が佳子のことを知っているのは当然のことだったが、その言葉に僕は不意をつかれた。あのとき坂田になにも話さなければ良かった、という想いが心の端をよぎった。
僕にはつき合っている女がいるということを知って、絵里はむしろ気楽に僕に接することができたのかも知れない。絵里は内気な性格に見えたが、その日ははじめから、思ったよりもうちとけた態度を見せていた。そのわけがわかったような気がした。
「そうだろな、たぶん。一般論的にどうとかいうことは、少しも考えなかったからな」
絵里がうなづいたのを見て僕は続けた。「もしかすると、僕のようなのは一般論的には対象外じゃないのかい」
「でも結果的には松井さんを好きになった人が現われたわけでしょう」
「そうか、やっぱりおれって一般論的じゃないんだ」
「ですけど、松井さんってすてきですよ」絵里はにこやかな笑顔を見せて言った。
絵里にしてはずいぶん大胆な言葉だと思った。同時に僕はここちよくくすぐられたような気持になった。
「僕のことはもういいよ。それよりも、絵里さんがボーイフレンドを見つけるための方法を考えようよ」
「教えてもらえるとうれしいですけど」絵里が再びにこやかな笑顔を見せて言った。「どうしたらいいんでしょう、早く見つけるためには」
コーヒーカップを口にはこんだ絵里は、唇をかるく触れただけですぐにそれを離した。僕はそんな絵里を見ながら、絵里のために役に立ちそうな話をしてやろうと思った。
「だいぶ前に新聞か雑誌にでていた話なんだけどな、これは。東京駅で新幹線に乗ってから、隣り合った乗客どうしがどんな会話をするのか調べたんだよ。大学の心理学研究室だったと思うけどな、それをやったのは」
僕がいきなり話題を変えたので、絵里はとまどったような表情を見せた。
「調べてみたらわかったんだよ、どんな条件があれば乗客どうしで話をするかってことが。それがどんな場合なのか想像できるかい」
「そうねえ・・・・・・私が新幹線に乗ってる場合を想像して・・・・」
絵里は手にしたコーヒーカップに眼を落とし、ほんのしばらく考えてから言った。
「酔っぱらった隣の人から話しかけられたり・・・・棚にあげようとした荷物を落してあやまることだってあるけど、そういうのとは違うわよね、いくらなんでも」
絵里をからかうような口調で僕は言った。「絵里さんって、案外おもしろいことを想像するんだな」
「想像だったらいいけど、誰かさんが、ほんとに荷物を落とした話なのよね、これって」
その言い方がおもしろくて僕が声にだして笑うと、絵里自身もおかしそうに笑った。すっかりうちとけている笑顔だった。
「教えてあげようか」と僕は言った。
「その条件ってむつかしいものですか」
「そうなんだ、むつかしいんだよ。だから隣どうしで話をするのはめずらしいんだ」
「そうね、ずっと並んでるのに、話なんてしないわね」
「隣り合ってる人のどちらかが、先に座席についているわけだよな。そこへ隣の人がくるわけだ。それでさ、1分以内にどっちかの人が隣へ声をかければいいんだよ。ちょっと声をかけるだけでいいらしいよ。そうするとだよ、それから後で互いに話をすることがあるんだってさ。隣り合ってから1分以上も話をしない場合には、大阪までお互いにひと言もしゃべらないそうだよ」
「そういうことだったの。そう言われてみれば、わかるような気がする、その話。おもしいことを研究するわね、大学の先生も」絵里は感心したように言った。
「案外とおもしろいよな、心理学の研究というのも。とにかく、そういうわけだからさ、男と女の間だって、出会ってから1週間なのか、あるいは半年なのかわからないけど、その間にきっかけを作ればいいと思うよ」
「あ・・・・・・やっとわかったわ。どうしてそんなことを話してくださるのかと思ったら、そういうことなの」絵里は明るい笑顔を見せた。「その話をもっと早く聞いておけば、ボーイフレンドができてたかも知れないわね。でも良かったわ、いま聞かせてもらったから、今後の参考にさせてもらいます」
「ずっと同じ職場で働いている人とどうにかなりたかったなら、変化を起こすようなことをしたらいいんじゃないかな。棚から荷物を落としたら会話が始まるんだからさ。今からでも間に合うよ、きっと」
「そうね、これからは最初がかんじんだって心がけときます。それでもうまくいかなかったら、荷物を落とすやり方をためしてみます」
絵里はおどけたような口調で言った。僕たちは声を合わせて笑った。そんなときでさえも、絵里の笑い声は遠慮がちに聞こえた。絵里のやわらかいアルトの声と、つつましやかながらも明るい話しぶりが、その笑い声とともにとても好ましかった。
演奏会からの帰りではあったが、僕たちは音楽についてはあまり話さなかった。絵里が音質の良いヘッドホンを買うつもりだと話したとき、ついでのように音楽のことを少しだけ話題にした。
気がついたときにはずいぶん時間が経っていた。両親が心配しているかも知れないからと、絵里は店から自宅に電話をかけた。僕はテーブルについたまま、電話に向かっている絵里を見ていた。絵里の体がときどき小刻みにゆれた。絵里が話し終えるまで、笑いながら話している絵里の後ろ姿から眼を離すことができなかった。
店を出たときには霧雨が降っていた。ふたりとも傘を持っていなかったので、地下鉄駅の入口を目指して懸命に歩いた。
「私は今までデートをしたことがないんです。だから、今日は私とデートをしたことにしてくださいね」息をきらしながら絵里が言った。
息をきらしながらも、絵里は明るい笑顔を見せていた。絵里にいとおしさを覚えながら、その笑顔に向かって僕は答えた。
「もちろんデートだよ。今日のは最高のデートじゃないか」
「松井さんは、休みの日にはいつもデートするんですか」
「たまに会うだけだよ。せいぜい日曜日に会うくらいかな」
佳子との親密な仲を知らせるべきなのに、僕はそのことを隠そうとした。そんな自分を意識して気持ちが少しかげった。
地下鉄駅の改札口を入ったところで、僕たちは再会を約す言葉を口にして別れた。僕たちにはその日が二度目の出会いだったが、ふたりをつつむ雰囲気は、すでに親密なものになっていた。僕は心の隅でふわふわと揺れるものを抱えて家に向かった。
家に帰り着くとすぐに自分の部屋に入った。家族の者としゃべったり、テレビを見たりするよりも、ひとりで静かにしていたい気分だった。
腹ばいになって夕刊の見出しを追っていると、別れぎわに絵里が口にした言葉が甦ってきた。演奏会のことを感謝したあとで、絵里は「迷惑でなかったらですけど、ヘッドホンを買うときに、松井さんに相談にのってもらえたらと思って」と言った。僕は「遠慮しないでなんでも相談しなよ。迷惑だなんて少しも思わないから」と答えた。僕は思った。絵里はこれから、いろんな相談を持ちかけてきそうな気がする。あの笑顔で頼まれたなら、応じないわけにはいかないだろう。喫茶店でのひとときが、絵里の笑顔と声を伴って思いだされた。