#01 転生
俺が目を覚ますと、そこは知らない天井だった。
「ロラト様。いかがなさったので?」
ロラトと俺を呼ぶ若い女中の顔を見ても、何のことだか心当たりがない。
人違いではと返したけど、そもそも俺のその声はやけに高く、どう考えても子どもか女性のそれとしか思えないのだ。
「ロラト様……?」
俺がロラトだという深い確信をいよいよ帯びて部屋にすっかり入り込んだ女中。
というか、見た目が女中なので勝手にそうと俺が決め付けたのだが、とにかくその中年の女性は何やら薄く白い布切れを持ち近づいてきた。
「さ、ぐずっていないでお着替えの支度を」
そして、どうやら子どもようのカッターシャツであるらしいそれを無造作に置くと、女中っぽい女は足音を乱暴に立てながら部屋を去った。
(ヤクザなおばさんだな)
なんてことを悠長に思っていたが、そんなことより俺はロラトじゃないのだが。
▽
しかし、そんなこんなで一週間が過ぎた。
分かってきたのは、俺は実際に「ロラト=ザウル」という、十三歳という、オトナには程遠いお子さまになっているらしいということだ。
「ロル。お前も直に知っておかねばなるまいだろうな」
俺をロルと呼ぶのは、ロラトとしての俺の父であるバルイーシュ=ザウルだ。
そして、おもむろに父は昨今におけるカラタン国内の情勢を力説し始めた。
カラタン。
カラタン王国というのが正式だが、通称としてはカラタンだ。
要は、アメリカ合衆国をいちいちアメリカ合衆国と呼ばずに単にアメリカというのに似た常識が「この世界」でも存在している。
この世界、というのは「この世界」としか俺のボキャブラリーでは言いようがない。
というのは、この世界は俺がかつて「迅尾 タクミ」として生きていた日本や先ほどのアメリカがある世界とは別の世界らしいのだ。
ただ、日本がある世界にいた頃でさえ、ロラトの、つまり今の俺だが、その父であるこの白髪まじりの初老男の話は半分も理解出来なかったろうとしみじみ思う。
迅尾タクミなんて立派なだけが取り柄の名前よろしく、俺は見た目だけは立派な冴えないサラリーマンだった。
覚えている最後の景色は、おんぼろアパートの誰も来ない寂しい一部屋、そしてガスコンロのガスを充満させる俺という残念すぎる一幕だ。
「こ……こんなはず、じゃあ……」
その時の俺は年甲斐もなくそう泣きじゃくりながら、思い詰めて髪の毛を掻きむしっていた。
そしてなるべくガスで満たされるように無駄に創意工夫した部屋を見渡しながら、そっと目を閉じたのだ。
「聞いているか、ロル」
西洋風の人々が暮らすカラタンで、貴族の地位を手にした誉れ高きザウル家の当主である父が叱咤する声で、俺は我に返った。
「は、はい、父上。今は財政こそ問題ない代わりに、その豊かさを狙った他国の不届きものが巧妙に色々と悪さをしているのでしたね」
俺がそう言うと厳しい表情をわずかに緩めはしたが、それは一瞬。
そして「国内にもいるのだ。不届きものは……」と嘆息しながら立派に蓄えた自らのヒゲを触った。
▽
迅尾タクミとしての俺は生前、借金を抱えていた。
まあ、それだけなら自業自得と笑われるだろう。ただ、本来それは人生をすっかり投げた両親のものであり、俺は普通に生きていただけなのだ。
不届きもの、という言葉にいまいち戦意が湧かないのは、今の俺が子どもだからというだけでないのだろう。
つまり迅尾タクミもまたそうした存在として社会から淘汰され、命を自ら絶ったからだ。
そして俺が「この世界」に来てから更に一週間が過ぎた時、父は死んだ。
いや、父だけではない。女中のマリウルさんも、飼い犬のサリサも、良き隣人であったフォラク家の人々もみんな死んだ。
母は幸せだったのかもしれないな、というのがその瞬間に立ち会った俺の正直な感情だった。
フォース・フォール。
不届きものの中の不届きものにより、遥か南東に位置する大国グークーから放たれた紫月魔法。
それが俺がいた区域を始めとしたカラタン王国の四分の一ほどを一瞬で灰にした。
なぜか俺は無傷で、突然に一面が紫色になった視野の中でただただ様々な悲鳴が聞こえてきたのは未だに心に影を落としている。
▽
或る日、俺は突然にかつて暮らしていた日本を思い出して一滴の涙をこぼした。
そう。ほんの一滴しか涙は出なかった。
それは深すぎる悲しみゆえなどという大層なものではなく、混乱して半ば感情が死んでいたのだ。
そして、その感情の死による陰鬱な振る舞いがそれ以降、ロラトである俺にしつこく付きまとうことになった。
(俺に代われよ、迅尾タクミ)
そう聞こえてくるのは、他ならない俺の声だ。ただ、その声は他人には聞こえようがない。
なぜならそれは俺の中でハイエナのように俺の心が折れるのを持つ別人格「ヨミ」の声だからだ。
(代われない。お前は、――狂っているから)
俺はヨミに、冷酷にいつもの言葉を投げた。
ヨミは不敵にクックッと笑う。それもいつものことだが、敢えて俺はその様を指摘した。
今日の俺はいつになくイライラしていたからだ。
(甘ちゃんがうぜえよ……)
ヨミは明らかに神経を高ぶらせ、かつ威圧的にそう歯向かってきたが、俺は幻聴に等しいその内なる声を無視した。
幻聴に等しいのは俺が平静でいられる間に過ぎないけど、イライラという感情程度なら、狂人ヨミを呼び醒ますには及ばないらしい。
もっとも、狂っているのは俺も同じだ。
向かう先が内か外か。
俺が前者でアイツが後者だ。
▽
ヨミがいると気付いたのは、フォース・フォールのしばらく後のある日のことだ。
(迅尾タクミ)
不意に不気味な声が、俺の住まいだった焼きただれた屋敷跡に響いた、――ような気がした。
「誰だ」
自分の同じ声なんて、意外と分からないものだ。
だから俺は、迂闊に不審者が至近距離に迫ることを許してしまったと勘違いして声を張り上げた。
そして間もなく俺の意識は俺でなく、ヨミの物となった。
「ヒャーハハハ! まるで無期懲役が見逃されシャバに出た気分だぜ」
ヨミは俺にはない、魔法使いの才能を持っているらしい。
そして宙を自在にスーパーマンかコンコルドのように音速で舞い、高笑う。
その様は数千年の時を経て進化した異次元の鷹か、さもなければ堕ちた天使だ。
しばらく上空から世界旅行を楽しんでいた彼はズドン、と墜落に似た着地音を上げた。
そこはフォース・フォール以前から人の寄り付かない荒野。
故郷から幾らか北に位置する「デルソル・バーン」だ。
しかしヨミは「チッ、もう時間か」と急にぐったりとその場にうずくまった。
そんな荒野で、俺は俺に戻り、そして風に吹かれていた。
「……」
耳を澄ますまでもなく、人が寄り付かないその地に、幾つもの呻きが聞こえる。
「魔物」と呼ばれる異端種のそれだ。
ある者は蛇のように這いずり、またある者は熊のように重々しく歩む。
その時に俺は彼に、つまり生まれてしまったらしいもう一人の俺にヨミと名付けた。
ヨミ。
つまり黄泉の国だ。
狂った魔法使いは魔物ひしめく荒野という死が満ちた地に俺を連れてきた。
つまり、――死ね、というメッセージだ。
なぜなら俺には剣も魔法も使えない。
なにせまだ十三歳。それで普通だ。
仮に迅尾タクミに戻れたって大差ない。せいぜい器用貧乏で培った事務能力しかないのだから。
俺は目を閉じた。
死ぬと分かるなら、せめて目を閉じていたい。
それは日本で自殺したあの日と同じ、絶望と逃避の象徴みたいにくっきりとした心情だ。
▽
「アウト・サンダーよ。内より貫け!」
何かが起きた。
それは紫月魔法とは違う、使い手の熱い思い出が滲んだように目映く白い雷。
それが俺と、ゼリフ=ストラナクとの出会いだった。