2-3
五百年の時を経て、大陸各地で魔物が復活しつつある。
しかし、巫女王の威光の下にあり、警戒態勢の敷かれる王都スカイアでは、魔物の被害はまだ比較的少ない……はずだった。
何事にも例外はある。
王都スカイアの北西部に広がるアルケミアの森──通称、悪魔の森もそのひとつである。
本当は寄り道をしている場合なんかじゃないと、サフィアもわかっている。
予定では昨日にでも王都の街門を抜けて旅に出るはずだったのだ。けれど──
(……知ったからには年端もいかない子どもを見捨てておけないじゃない)
一人で森の奥へと分け入るサフィアの背中に、紙の蝶が追いついてペタリと背中に貼り付いた。
トトと別れてサフィアを追いかけてきた蝶は、栗色の髪の毛に隠れてほっと息をついた。
──ふぅ。まにあった。みうしなうかとおもいましたぁ……。
しかし、そんな囁きもサフィアには届かない。
月や星が出ていたとしても、樹齢百年にも及びそうな常緑の木立に遮られて、手にしたカンテラの他には光源もない。
サフィアの身体がぶるりと震えた。
寒さのせいばかりではない。
そんな中、サフィアの瞳がかすかな明かりを捉えた。
それに……子どものすすり泣く声。
「もしかして……魔物にさらわれた子?!」
──わわわっ。ちょっと、きゅうにはしりださないでよ。おねーちゃん!
サフィアが駆け出し、背中から頭によじ登りかけていた蝶が必死にしがみついた。
不意に、木立が途切れた。
枝葉に遮られて届かなかった月の光が優しく降り注ぐ。
眼前に現れたのは小さな湖だった。
漆黒を溶かした湖面は深淵を湛えて静かに凪いでいる。
花の香りだろうか。
どこからか心とろかすような甘ったるい香りがした。
脳を痺れさせるような……。
湖の裾に花が咲き誇っているのに気付いた。
夜闇にもかかわらず、月の光に濡れそぼって鮮やかなまでの──血の色。
その中に埋もれるようにして子どもが泣いている。
ロジーではなかった。
十歳を少しすぎたぐらいの──少女。
「ねぇ、ちょっと大丈夫? ケガはない?」
少女は泣きじゃくるばかりで一向に動こうとしない。
肩に手を置くと、イブニングドレスのシルクの手触りが肌に吸いつくようだった。
「私が……私が悪いの……。私のせいで……みんな……」
「え? ちょっと泣かないで。大丈夫だってば。他の子もみんなちゃんと助け出すから。だから心配しないで。ね?」
「違う……私が間違っちゃったからっ。私のせいで……お母様も、お父様も……みんなっ」
心臓を射抜かれたように息ができなくなった。
この少女を知ってる、とサフィアは思った。
どこで会ったのだったか。
記憶を辿るが、靄がかかったみたいに思い出せない。
ただ鼓動だけが異常な不協和音を奏でている。
違和感を悟った瞬間、甘い花の香りがサフィアの心を満たし、次の刹那には意識から消え去った。
代わりに、泣きじゃくる少女の足下に深紅の絨毯が広がる。
雷鳴に浮かび上がる玉座のシルエット──王錫を手にしたまま事切れた誰か。
あの日の光景だった。
忘れたくても忘れられない、脳裏に刻まれた悪夢の記憶の中で、泣きじゃくる少女がふと、立ち上がった。
「私が近衛兵をお母様のところに通しちゃったから……っ、聖剣ステラも……私が抜いちゃって、魔物が復活して……っ、全部全部私のせいなの! 街が襲われるのも子どもたちがさらわれるのも……っ。知ってるんだから。みんな私に失望してる! 巫女王の血筋に生まれたくせに、お母様の血を引いてるくせに、巫女の力なんか全然使えない。私なんか役立たずだって……思ってること。だから、私一人で……! 私は……っ」
少女が手にした短刀を振りかざすのを目にしても、サフィアは呆然と見つめていることしかできなかった。
何もかもがあの日の再現だった。
サフィアの背後には、いつの間にか祭壇に刺さった抜き身の剣がある。
この剣を抜き放てば振り下ろされる凶刃を防げる……!
サフィアが震える手を剣に伸ばしかけた──そのとき。
──……そうやってまた古の聖女の力に頼るのだな?
脳裏に、嬉々とした若い男の声が響いた。
──聖剣ステラの力に頼って、聖女の施した魔界の封印をなきものにする……それもよかろう。ふふふ。五百年ぶりに腹の底から愉快な気分だぞ。代々の巫女王が守り続けてきた封印を、その継承者が直々にぶち壊すのだからな!
(……っ!!)
剣を取るのをためらったサフィアに、容赦なく銀の輝きが襲ってくる。
己の最期を予感してきつく瞼を閉じた、刹那──
「いいかげん、めをさましなさーい!」
鮮烈な冷たさがサフィアの意識を呼び覚ました。
湖面が大きく乱れ、一瞬にしてずぶ濡れになった。
気付けば護身用の短刀で、自分で自分を突こうとしている。
「ななな何これ? あたし、どうして……何が起きたの?」
助けようとしていたのとは別の女の子に水をぶっかけられ、湖面の鏡像をかき乱された気がしたのだが。
──ちっ。邪魔が入ったか。忌まわしい大賢者の使い魔め。やはり実体がないと魔力の効きが薄い。完全復活を待たねば……。
突風が吹き、苛立った声が葉擦れに混じって遠ざかっていった。
辺りに静寂が戻る。
足下はただの枯れ草で、赤い花も甘ったるい匂いもどこにもなかった。
泣きじゃくっていた少女の姿も……。
サフィアは自分に向けていた短刀を放り出し、身体を抱きしめるように力なくぺたりと座り込んだ。
「魔物が見せた……幻覚? でも……」
震えが芯からこみ上げてきて、いつまでも冷え切ったままだった。
そのときだった。
サフィアの頭上から、濡れたような鱗を持つ魔物の男が獰猛な笑みで凶刃を振り下ろしてきたのは。
「……っ?!」
不意の襲撃。
迫り来る刃は今度こそ、幻覚でも何でもなくて。
凶手の背後に頼れる女近衛兵もいない。
何より──背後に聖剣ステラの台座はなかった。
悲鳴をあげる暇も、目を閉じる余裕もない。
サフィアに避けるすべはなかった。
脳裏で、熱くて真っ赤な血の幻が足下を濡らした。
──あたかも深紅の絨毯のように。