2-1
これは夢だ。
滴のカーテンをひいたような豪雨も、雷光に四角く切り取られた窓枠も。
無造作に散らばって乙女の涙のようにきらめいた宝石も、泥だらけに踏み荒らされた足下の絨毯も。
血塗れの玉座で事切れる見慣れたはずの誰かも──
「……母……様……?」
これは夢だ。だから──早く夢から醒めなくちゃ。
のろのろと顔をあげた少女にも、白刃が振り下ろされようとしていた。
そうすれば、きっとこの悪夢が終わる。
目が覚めれば、夢の中で賊から少女を逃がそうとした父も母も何事もなかったかのように笑っている。生きている。
(……早く……目を覚まさなきゃ)
少女が願いかけたとき、それまで無音だった世界を切り裂く雷鳴が轟いて、彼女を狂気から呼び覚ました。
どちらが夢で、どちらが現実か。いまだにわからなかった。
けれど──彼女が生まれながらに背負った責務は、夢でも現実でも、理不尽な運命を受け入れることを許さない。
「……っ!!」
少女は水を吸った絨毯を渾身の力でひっつかみ、油断してバランスを崩した凶手の拘束をすり抜けた。
迷路のような王城で大人には通れない抜け道を的確に選び、数で勝る凶手たちの追跡を撒こうとする。
「小娘と思って油断するな。次期巫女王だ。逃がすな! 殺せ!!」
必死に逃げても、知らず知らずのうちに城の奥へ奥へと追いつめられていく。
少女は焦りと絶望でとっちらかった頭で考えた。
どこか凶手たちの知らないところ……。
そうして辿り着いたとき、彼女は宝剣の前にいた──初代巫女王となった聖女が、魔王を倒したときに手にしたとされる聖剣ステラ。
少女はここにきてようやく過ちに気付いた。
逃走場所にここを選ぶべきではなかった。
万一、聖剣ステラが奪われれば、魔界の封印が解けてしまう。
たとえ彼女自身が殺されようと、これでは賊を聖剣ステラの場所へ案内するようなもの。
(……大丈夫よ。見つかったって誰にも聖剣ステラは抜けっこないんだから。お母様にも大賢者様にも抜けないって聞いたもん)
かつて王城に忍び込んだ賊が偶然にも聖剣ステラを見つけたが、見つかったときには全員が不審死を遂げていたという。聖剣ステラは台座に刺さったまま。王城の七不思議のひとつでもある。
「……お母様……お父様……っ」
少女は地下室を満たす冷たい水溜まりに浸かるのもかまわず膝を抱いて嗚咽を漏らした。
まだ夢は醒めないのか、と思った。
逃げている途中、賊も近衛兵たちもたくさん死んでいた。
戦いに関係ない従者や侍女たちも一刀に斬り伏せられていた。
ベッドから起き出したときに履いていたスリッパは血だまりの中に両方とも落とした。
──そして、少女自身もついに見つかった。
出入り口を固めた凶手たちは、少女の逃げ場を絶った上でじりじりと距離を縮めてきた。
「随分と手こずらせてくれましたね……姫君」
中央に進み出たのは、なんと気心知れた近衛兵長だった。
本来なら少女を守る立場にいるはずのひと。
なぜ凶手たちの側にいるのか。
(……そういうこと)
だから、こんなに簡単に王城が制圧されたのか。
もう何年もかけて入念に準備されてきたに違いない。
「わざわざ聖剣ステラのところまで案内してくださるとは……私の新たな門出を祝福してくださるようです」
「バカね……お母様が巫女王でいたからこの世界は平和だったのよ。おまえごときに魔界の封印は維持できない!」
「聖剣ステラの封印を維持する……と誰が言いました?」
「……? 何?」
何がおもしろいのか、近衛兵長は白いマントを揺らしながらくつくつと笑い出した。
「私がどうして長らくお仕えした王家に刃を向けたと思いますか? 今の世の中を儚む方々がいるのですよ。いいですか、姫君。五百年前から、我が国の魔法文明は下降の一途を辿った。あなた方の言う『平和』と引き替えにね。もうとっくの昔に時代遅れなんです。『平和』も『巫女王』もね」
「目的は……王位の交代じゃないっていうこと? おまえたちが本当にしたいのは……」
少女は男の殺気に当てられてぞくりと総毛立った。
後ずさりした先に聖剣ステラの柄飾りがある。
「邪魔なんですよ、巫女王陛下も……貴方も。何より聖剣ステラの結界がある限り、我が国の魔法文明は滅びるしかない。一族すべてが滅びれば、封印も自然と解けましょう」
「──っ! 来ないで!」
愚かにも。少女は聖剣ステラに縋った──抜けない剣に。
それしか身を守るすべがなかったから。
剣は地面に縫いつけられたかのようにびくともしない。
最期を無様にあがく少女を凶手たちの嘲笑が包んだ。
「……動いてよ。夢の中でぐらい……」
悔し涙が少女の頬を熱く伝った。
何もなせないことへの後悔だった。
「私の夢なんだから……ちょっとはいい格好させくれたっていいじゃない」
剣にかじりつく少女に近衛兵長の凶剣が迫った。最後の最後まで悪夢で救いようがない。
血と悲鳴の幻が目の前で鮮明なまでに爆ぜたそのとき、手の中の抵抗感がふっと失せた。
「……っ!! はぁっ、はぁっ……?!」
「何……?!」
少女の手の中、突如として抜き放たれた聖剣ステラが閃いて、振り落とされる凶刃を精確に受け止めた。
だが、少女にそれを振り切る膂力があるはずもなく、押し戻されて尻餅を突く。
「ふ……ははは! あははは! まさか抜いてくれるとはな! 私のものだ! 私の……」
熱を帯びた哄笑を最後まで轟かせることなく、巫女王に長年仕えた近衛兵長は槍で背後から貫かれ、水溜まりの中に倒れ伏して絶命した。
「……ご無事ですか、姫様」
少女は放心したまま顔を上げた。
若きロッテ・ミルズが手を差し伸べていた。
気がつけば他の近衛兵たちが凶手を斬り伏せている。全員が全員、誰かと自分の血で汚れていた。
多分、怪我をしていないだけ少女が一番マシ。ただその分だけ。
「お怪我はありませんか」
少女はおとなしく助け起こされた。
ロッテの表情に安堵の様子はなく、「申し訳ありません……間に合いませんでした」と言ったのみ。
何に間に合わなかったのか。
巫女王のことか、聖剣ステラの方か。
「ロッテ……大変。抜けちゃったの」
「え?」
「聖剣ステラが……え? あれ?」
さっきまで確かに手の中にあったのに。
聖剣ステラはなかった。どこにも。
あるのは、空っぽの台座だけ。
「……え……? あの……」
今更ながら震え出した少女をロッテは抱きしめた。強く強く。その存在を繋ぎとめて離さないとでもいうように。
自分はここにいるのだと、言葉では伝えきれないというように。
「わかりました。落ち着いたらお話を聞きます。……もう大丈夫ですよ、姫様。もう大丈夫。最悪の夜は終わりましたから……」
それが悪夢の始まりにすぎないことを、このときは誰も知らなかった。
☆☆
一月後──
神聖スカイアーク王国に若い巫女王が誕生した。
聖剣ステラの台座は空っぽのまま。
何とか取り繕った形骸だらけの祭壇に跪き、少女を巫女王と認める大きすぎる王冠が祭司の手によって載せられようとしていたちょうどそのとき、伝令兵が慌ただしく飛び込んできて平穏を突き破った。
「魔物が……魔物が現れました!」
それは五百年間なかったことで。
混乱の渦に投げ飛ばされた儀式の中、少女に授けられるはずだった王冠が祭司の手を離れて緋色の絨毯に転がった。