1-5
ロッテ・ミルズは地下へと通じる石段を降りて行った。
魔物の返り血で汚れた白外套は替え、血脂で汚れた槍の刃も既に手入れを終えている。ただ沈鬱な表情はどうしようもなかった。
近衛の同僚たちにも会わず一人で考え事をしたいとき、彼女はよくこの城の地下に降りて来る。
今日は先客があった。
唯一の光源となる灯火に照らされて影絵となる人物。だが、明かりの有無は彼にとって大した問題ではない。
ロッテはちょっと目を瞠った。
「……大賢者様。どうされました、こんな場所で。お風邪を召されます」
「その言葉、そっくり返しますよ。ロッテ」
「私はその……いいんです。鍛えてますから」
このひとの前ではなんとなく言い訳にならない気がして、ロッテは結局、黙って白い息を吐きながら大賢者の横に並んだ。
ブーツの靴底が水中に浸る。
灯火が照らすのは空っぽの台座。他には何もない。
「二年……ですか。聖剣ステラが消えてから」
大賢者が言った。ロッテもちょうど同じことを考えていた。
世間的には、聖女が魔王を倒した後、聖剣ステラは行方知れずになったとされている。
だが、それは表向きだ。
実際には王城の地下に、それは常に安置され代々の巫女王が守ってきた。
秘匿されたのは、聖剣ステラを手にすれば巫女王に成り変われると勘違いした輩が国の至宝たる宝剣を狙い始めたからだった。
「バカなことを。聖女が巫女王となったのは、魔王を倒し魔物を封印して平和な世の中を作ったからです。聖剣ステラなんかのせいじゃない。そんなこともわからない輩が多すぎます」
国の宝を「なんか」呼ばわりした近衛兵だったが、大賢者は聞かなかったふりをした。
だが、実際そのとおりだ。
「だから……巫女王様が責任を感じる必要はないんです。聖剣ステラがなくったって、それで魔物が復活したからって、私たち近衛に任せておけばいいんです。必要なら国中の者たちを守ってみせます。私たちが……強くなって。きっと」
そうだね、とも、そうじゃない、とも大賢者は言わなかった。涙声になりかける女の背中を、そっと撫でた。
ただ二人とも、守りきるには圧倒的に兵力が足りないこともわかっていた。
この五百年間、魔物のいなかった世界は平和ボケしすぎた。
「……ロッテ、気付いているでしょう。魔物たちが活発になってきていることを。巫女王様がいるから安泰だと言われた王都にほど近い森まで魔物の巣になってしまった。それだけでは済まない気がするんです。巫女王様もそのことを薄々とでも感じていたのではないでしょうか」
ロッテははっとして振り返った。
手の中にいる限り、守れると思った宝物は、ロッテの指の間を自ら零れ落ちていく。
せめて相談してほしかった。一緒に連れて行ってほしかった。
そんな願いすらどんどん零れていくようで。
「貴方の教えを受けたのだから大丈夫。それにね、ひとつ手は打ってあるんです。ちゃんとお使いをして来てくれるか謎なのですが」
「……?」
大賢者はいつものようににこりと笑って、ロッテの背中を優しく撫でた。それだけでロッテは幼い子どものようになってしまう。
「……大賢者様。私、普段は魔物でもならず者でもバッタバッタなぎ倒してるんですよ……?」
「はいはい」
「……」
絶対勝てない、とロッテは思った。
そんな敗北感が心地いいなんて、ばかげてる。
☆☆
泣き虫ロジー。弱虫ロジー……。
今ならそう呼ばれても笑って赦せる。誰かに呼んでもらえるのなら独りじゃない。たとえそれが悪口であっても。
寛大な心でそう思えるほど、ロジーは憔悴しきっていた。
もうずっと暗闇の中を歩き続けている。
道に迷ったら夜空を見上げて、変わらない星を見つければいい。逃亡奴隷だった祖父はロジーにそう教えてくれたけれど、悲しいかな、魔物に追われるうちに迷い込んだ地下道でいくら目を凝らしたところで星屑のひとつも見つからない。
「ダッツ……ドット……」
友達の名前を呼んだ声が心細さに震えている。返事はない。
脳裏に昨日の夕方の出来事がまざまざと浮かんだ。
小麦畑での手伝いを終えて遊んでいたら、突然、空から魔物が襲ってきた。他の子どもたちが鉤爪に捕らわれて連れ去られる中、逃げ延びたロジーは運がよかった。
とっさに、追いかけなきゃ、と思った。ダッツとドットは嫌いだけどこのまま黙って見ていることはできない。
子どもながらの愚かで浅はかな行為だったし、幼いからこそ純粋な正義感に突き動かされた。
震える足を無理矢理踏ん張って走り、ひそかに魔物たちの後を追って森の奥まで辿り着いた。
途中までは確かに見失わないよう追いかけていた。
シルクハットの奇妙な猿の魔物たちにからかわれ、逃げ込んだ洞穴の中で迷った挙げ句、地下道に転がり落ちなければ。
「……おかあさん……」
片方だけの靴で歩いて行くうち、ロジーは不意に、目の前の闇が少し薄らいでいるのに気付いた。
最初は錯覚かと思った。
前方の光が不安定に明滅を繰り返すのとは対照的に、ロジーの足下の影は徐々に色濃くなっていく。
ついには小走りになりながら、ロジーは明かりのもとへと急いだ。狭苦しかった地下通路を抜けて、どこか大きな空間に出た。
まだ地下のどこか。
「……さむい」
吐いた息が白くてぎょっとした。
まるで一足早く冬がきたみたいだ。
靴をなくした方の裸足で踏みしめたのは霜だった。刺すように冷たい。
見上げた頭上に、空はなかった。太い氷柱のようなものが無数に突き出すばかりの土が剥き出しの天井。
確かに明るかったのに……と思ったら、空間の中央にある篝火が祭壇を照らし出していた。
五百年前に魔王を倒したとされている、初代巫女王たる聖女の石像。
元々は立派だった祭壇が、落雷にでも打たれたかのように、見る陰もなく真っ二つに破壊されている。四季折々の花を供えていたはずの花瓶の欠片が凍える地面に刺さり、篝火のもとで異様な美しさをちらつかせていた。
「……せいじょさま」
ロジーは像の亀裂にそっと指を這わせ、ひざまずいて指を組んだ。
どこからか優しい眼差しが彼と友人たちを見守ってくれている気がして。
(みんながどこにいるのか、おしえてください。まものに、たべられちゃってませんように。みんなでうちにかえれますように)
ぴちょん、と水滴が鼻の頭で弾けた。冷たい。
(のど、かわいた)
それも当たり前だ。ずっと地下にいるのだから。
水滴は天井から生えた太い氷柱のようなものから落ちてきているらしい。ロジーは喉を潤した。よくよく見ていると、氷柱ではなくて、巨木の根っこの部分が地下の天井部分を突き破って延びている。
夢中になっていたロジーは、足元に忍び寄った蔓に気付かなかった。
「いたっ!!」
刺すような痛みに飛びすさろうとした足が動かない。
その正体に気付いて、ロジーは戦慄した。
恐怖がロジーの心臓を鷲掴みにした。
「うわぁぁぁっ……! く、くるな! あっちいけぇ!!」
スイカほどもある巨大なバラをつけた魔物の蔓がロジーの身体を這い上がってくる。必死に逃れようとした脚を、腰を、胸を、両腕を音が鳴るほど締め付け、瞬く間に拘束していく。
立っている地面がぐらりと揺れた。
──否、揺れたのはロジーの方。
蔓からクリムゾンローザの刺の毒が回り、強烈な目眩で立っていられなくなる。
(──?! たすけて……! だ、れか……)
舌が痺れて、内臓を掻き回されるような気持ち悪さに吐き気がする。
まとまらない思考の中、ロジーは必死に意識の切れ端にすがりついた。感覚まで麻痺したのか、霜の降りた地面の冷たさも感じなくなっていく。
いつの間にか何体もの魔物に囲まれていた。
ゴーレムの岩肌が篝火に照らし出され、巨大なコウモリの群れがロジーを取り巻いている。獲物を捕らえたクリムゾンローザが弄ぶように──嘲笑うように蔓をうねらせた。
そのどれでもない、新たな魔物の獣臭い吐息が、倒れ伏したロジーの頬にかかった。
──子ドモ……人間ノ子ドモ……。
──……魔王サマニ……新シイ生贄ヲ……。