1-3
聖堂の朝は早い。
夜明けとともに起き出して身支度を整えた巫女たちの仕事は、夜更けまで酒を飲み陽気に語り合った寝汚い旅人たちを起こすことから始まる。
容赦ない華麗な布団剥がし技で叩き起こされたサフィアも軽いパニックに陥った。
(そんな……まだドレスに着替えてないし! 髪も結ってないし、化粧もしてない……!)
呆然としながら、まず着替えるための巨大なクローゼットがないことに気づき、彫刻の施された優美な鏡台がないことに愕然とし、ああそういえば自分の部屋じゃないんだっけとようやく寝惚け眼を覚醒させた。
(そっか……カテドラルに泊めてもらったんだった)
なんとか朝の祈りに間に合ったサフィアは、街門を出る手がかりを求めて街に繰り出した。
中央市場は買い食いをする客たちで賑わっている。嗅ぎなれない香辛料の匂いが鼻腔をくすぐって、サフィアの食欲を誘った。
サフィアは少し強引な売り子たちをやり過ごし、隅の方の席に落ち着いて煮込み肉のスープをすすりサンドイッチにぱくついた。
午後になって、今度は目抜き通りに出た。
神聖スカイアーク王国屈指の都だけあって、珍しい木彫りのおみやげ品や貝殻のアクセサリーが目を引く。
そして何より、右を向いても左を向いても、凄まじいほどのひと、ひと、ひと。
昨日は街門を通れなかったショックでくすんで見えた色彩が、今は躍動感に満ちて視界に飛び込んでくる。
そんな中でも、特に目を引いたのがショーウィンドウに飾られたドレスの数々だった。
そのうちのひとつの前で吸い寄せられるように立ち止まった。色とりどりの花が咲き乱れる庭園の中心で一際蠱惑的に佇む大輪のバラを、そのまま象ったかのような深紅のイブニングドレス。
「──そんな派手なの、ボク、似合わないと思うけどなぁ」
「きゃあっ?!」
内容よりも、突然声をかけられたことの方に驚いてのけぞった。
昨日と同じちぐはぐな衣装の青年が隣でショーウィンドウを覗き込んでいる。
奇妙な帽子の鈴が挨拶代わりにチリンと鳴った。
「こっちの白いワンピースの方がボク好みだな。これにしなよ」
「貴方、昨日の……鈴男!」
「あれ、そんな名前?」
「じゃあ……鈴女?」
「……」
じとっとした目で見られて、サフィアはさっきと違う意味で赤面するはめになった。
「キミ、いっそ清々しいぐらいネーミングセンスないね……」
「うるさいわね。じゃあ、さっさと名乗ればいいじゃない」
「まぁ、慌てない慌てない。ボクは──」
「……ちょっとすいませんね、お二人さん」
緊張感のない声で割って入ったのは赤い制服姿の男だった。
声とは裏腹に、研ぎ澄まされた警戒心を笑顔の下に隠しているような態度。必要があればいつでも腰に帯びた剣の柄に手をかけそうだった。
「往来で怪しい二人組がいると聞きまして。昨日から誘拐事件も起きてて物騒なことですし、まぁ、ちょっと近くでお話聞かせてもらえませんかね?」
怪しい二人組、とは自分たちのことだろうか?
(バレてはない……みたいだけど)
サフィアは気付かれないようにフーデッドケープを深く被り直した。
話の内容からして、赤い制服は街の警邏だろう。
魔物が出ているこの時分、こんな少女の旅人が珍しいというのも、まぁ、わからなくもない。
けれど、怪しい二人組というのは……。
「こいつと──」
「彼女と──」
「「一緒じゃありません」」
指を突き合わせて行った抗議は見事にシンクロしてしまい、一瞬、青年と顔を合わせてしまったサフィアはプイと視線を逸らした。
「──っていうことだから、ボクが話をするよ。どんな話がいい? 鍋にお尻がはまっちゃった女将さんの話とか、迷子の迷子の狼の話とか、ああ、心臓を龍に食べられちゃった男の話もあるよ」
にこにこと指折りおとぎ話のレパートリーを披露し始めた青年に唖然としたのはサフィアばかりではない。
猫撫で声だった警邏もさすがに平静でいられなくなり、剣の柄に指をかけて詰め寄った。
「こいつ、バカにしてるのか。つべこべ言わないでさっさと来い。道化師のくせに!」
「ちょっと、いきなり何よ」
「うるさい!」
警邏は、いきなり青年を足蹴にした。
盾突いたサフィアの方ではなく。
こんな往来の真っ只中で。
サフィアは信じられない気持ちで青年を庇った。
「貴方、それでも警邏なの?! 市民の安全を守るのが仕事じゃないの?!」
警邏は唇を歪めて嗤った。
「……市民? 道化師は『市民』なんかじゃない。私は怪しい人物を厳重注意したまでですよ」
「そんな言い分がまかり通るわけっ……」
だが、周りの通行人たちも騒ぎ立てるでもなく、当然という顔で通り過ぎて行く。
まるでうるさい蝿を払うのを黙認するかのように。
(な……何なの?)
サフィアには何がなんだかわからない。
「ふん。この場はこれぐらいにしといてやる。ともかくおまえたち、騒ぎは起こすなよ。ただでさえ魔物騒ぎでみんな不安がってるんだからな」
暴力警邏が立ち去ると、青年は何事もなかったように立ち上がって埃を払った。
助け起こしたサフィアにも「へーきへーき」と笑う。慣れっこのようだった。
「……何よ、あれ。感じ悪い」
「ちなみに、キミが街を見て昨日より鮮やかだと思ったなら、赤い制服の警邏が増えたっていうすっごく単純明快な物理的理由だね」
「そ、それぐらいわかってるわよ。バカにしないでくれる? そんなことより何か事件でもあったの?」
「知らないの? 今、その話で持ちきりなのに」
「貴方にだけには言われたくないわ!」
「えー? そう? 仕方ないなぁ。ねぇねぇ、キミたち、ちょっと昨日の事件のこと教えてくれない?」
「あ、ちょっと待ちなさ……」
あろうことか罪なき通行人の首根っこを捕まえて巻き添えにしようとしたので、慌てて止めた。
標的にされた哀れな通行人は「ひぃっ、道化師。ご勘弁をー」とあらぬ方向を見ながらもがいている。青年が忌避されている理由は不明だが、ある意味こういう無軌道な行動が周りの恐怖心を刺激しているのかもしれない。
サフィアは栗色の髪を掻き上げた。
「わかったわかった。貴方の口から聞くから。昨日の事件っていうの教えてくれる?」
「誘拐事件だよ。犯人は人間じゃなくて魔物だけど。昨日の夕方、子どもが何人か小麦畑の手伝いを終えて畑に残ってたらしいんだけど、そこを魔物に襲われたんだって。逃げ延びた三歳ぐらいの女の子が証言したらしいんだ」
「小麦畑……?」
『早く小麦畑に戻りなさい。遊びは手伝いが終わってからね』
サフィアは見えない手で心臓をきゅっと掴まれたような気がした。
昨日、部屋にいた子どもがそう言われて追い立てられていなかったか。
「それで不審者に声かけてるのね……貴方と一緒にされたのはひっじょーに不本意だけど。でも、犯人は魔物なんでしょ? どうして私たちに声をかけるのよ」
「うーん、そうだねぇ。ボクたちが魔物に見えたんじゃない?」
「ふーん、そう……って、そんなバカな!」
くすくすと笑う青年に、もう怒る気力も失せてしまう。
けれど、不審者に声をかけているということは、子どもたちの行方は目下捜索中なのだろう。
それどころかまるっきり目星もついていないのではないか。
「ほんとにバカみたいだよね。そんな回りくどいことをしなくても、さっさとアルケミアの森を捜しちゃえばいいのに」
「何?」
「アルケミアの森。王都の北西にある森だよ。俗に悪魔の森って呼ばれ方もするけど、実際には古い聖地なんだよね。魔物が棲むようになってから誰も近づかないんだけど、昨日は珍しく子どもが一人で入ってったんだよね。友達の名前を呼びながらさ。きっとさらわれた子たちを捜しに行ったんじゃないかなぁ?」
「入ってったんだよって……貴方、見てたの? なんで止めなかったのよ! 大人も近づかないぐらい危険なんでしょ?」
「どうしてボクが止めるの?」
「どうしてって……普通、止めるでしょ!」
「そうなの?」
青年はきょとんとした。
どうして怒られているのか本当に見当もつかない、といった様子だ。物心ついたばかりの子どもでもわかるだろうに。
「とにかくその森に子どもたちがいるのは貴方しか知らないのね? 早く駐在所にいって知らせなくちゃ」
「そうなの? わかった。じゃあ、行ってらっしゃい」
「貴方も行くの!」
「え? ボク?」
「だって、私一人で行ったら目立って正体が……じゃなくて、貴方と一緒ならいい隠れ蓑になりそう……じゃなくて、えーと、とにかく放っておけないでしょ」
えー、と不満げな青年を引きずって駐在所の場所を訊きに行った。
「そうだ。貴方のこと何て呼べばいい?」
「道化師だよ。みんなそう呼ぶよ」
青年はなぜか拗ねた様子でチリンと鈴を鳴らした。
「それ、名前じゃないでしょ?」
「……トト」
迷った末に、青年はようやく名乗った。
「そう。私はサフィアよ。よろしくね」
「……知ってるよ」
「え?」
「どうしたの? 早く行こうよ」
トトがぽつりと言った言葉は木の葉と一緒に舞い上がって、サフィアの耳には届かなかった。