5-6
ドラゴンと化した魔王デュヴァルオードは長い首をもたげた。
鱗で覆われた眉間に皺が寄る。
「この気配……奴か!」
忌々しげな呟きの向こう、レイピアの一閃が銀の軌跡を描いた。
何もない虚空が、突如、襤褸布か何かみたいに縦に裂けた。
何者かの魔法で、異次元と繋がったのだ。
その空間の裂け目から、道化服の青年と栗色の髪の少女が降り立った。
サフィアがまっすぐに魔王を睨み、彼女を腕に抱いたトトが不敵な笑みを刻む。
「このときを待ってたよ、魔王」
「小癪な真似を。また俺様の邪魔をするか、道化師! 道化者の虚けはこころのないまま無様に踊っていればよいのだ!」
「五百年もやってたから飽きちゃった。そろそろダンスのお相手が欲しいと思ってたんだ。やっと見つけたよ──黒き龍」
「愚か者。貴様の相手など、これで十分だ!」
この世の終わりじみた咆吼とともに、青い炎の渦が真っ向から放たれる。
サフィアは咄嗟に聖剣ステラを構えた。
対魔の光で食い止めている隙になんとかトトの退路を作ろうとして。
「トト、逃げて!」
だが、杞憂だった。
サフィアが剣を構えるのに先んじて、トトのレイピアが閃く。
その先端から巨大な氷柱が伸びて、炎の渦と正面から激突する。
「……何っ?!」
デュヴァルオードが目を瞠った。
黒き巨龍と道化師の魔法は拮抗し、激突した瞬間に相殺されて激しく散っていく。
トトが詠唱を続けながら好戦的に笑んだ。
「何を驚いてるんだい? リザードナイトが言ったんじゃないか。『古の大魔法使い』って。こっちだって五百年間、何もしなかったわけじゃないよ。封印されて眠りこけてた間抜けな誰かさんと違ってね」
(凄い……! あの魔王と互角にやり合ってる!)
爆風に髪を煽られながら、サフィアは胸が熱くなった。
心臓の魔力が暴走したのではない、むしろその経験を糧にして乗り越えた、トト自身の魔法。
決して自滅するのではなく、自分自身で勝ち得たかけがえのない力を目にして。
だが、デュヴァルオードはこの後に及んでニヤリと笑った。
「……バカな。せっかく戻った心臓で俺様に勝負を挑もうと言うのか? そんなことをして貴様に何の得がある?」
「ボクはアメリアの願いを叶えるだけだ。そのために五百年間、呪われてでも生きてきたんだ!」
「──その聖女は、道化師になった貴様を見捨てて逃げたではないか」
トトの顔色が変わった。
迷いを帯びたように魔法でできた氷柱の勢いが弱まる。
トトは舌打ちした。
こんなときに迷ってる場合ではない。
だが、デュヴァルオードは見つけた格好の玩具を見逃さない。
じりじりと玩ぶように傷口に爪を立て、抉り、広げてくる。猫撫で声で。
「よく思い出せ。ニンゲンどもが貴様に何をした? 世界を救ったはずの貴様を愚弄し、嘲笑し、石を投げつけ、異端者と切り捨てたではないか。いつの時代もニンゲンは変わらぬ。つまらぬ感情に弄ばれ、弱者とわかれば爪弾きにする。それで貴様が反撃すると叫ぶのだ──『化け物』と」
「くっ……!」
魔法の氷柱が熱風で溶け、細り、火勢に負けて徐々に後退してくる。
サフィアは聖剣ステラを放り、トトのレイピアを一緒に支えた。包み込んだ青年の両手が震えている。
(トトが迷ってる……?!)
トトの取り戻したこころの痛みが、触れた肌からサフィアにも伝わってきた。
古の一族の里で起こったような出来事が、永遠ともいえる時間の中で果てしなく繰り返されてきたのだった。
まるで拷問のように。
以前のトトならば、理解できなかった──理解せずにいられた。
こころがなければ、道化師のままであれば、感じずに済んだ苦しみに、彼は、気付いてしまった。
サフィアの頬を涙が伝った。
彼が過ごしてきた五百年間が、悲しくて、悔しくて、苦しくて、泣いた。
流れ落ちる傍から、熱風が巻き上げて乾いていった。
……じきに、ここも炎に呑み込まれる。
「何のために世界を守る? そんなもの、貴様にとってはゴミ屑同然ではないか。貴様も俺様と同じだ。この世界を憎みこそすれ、救うなど馬鹿げているわ!」
「……それでも、アメリアが守ろうとしたものだ」
弱々しく反論したトトの言葉を、デュヴァルオードは一瞬にして切り伏せた。
「違うな。あの娘は世界の方を切り捨てたのだ。秘技を完成させるよりも貴様を選んだ。聖女が守ろうとした、だと? 聖女の意志など、後世のバカどもが抱いた幻想に過ぎぬ──そうだろう、憐れな巫女王」
「……!」
サフィアは否定できない。
建国神話の真相を知った、今では。
魔王を倒せたはずの勇者は、幼なじみを助けるために、秘技を邪魔した。
そして、サフィア自身もまた……。
勝ちを確信したデュヴァルオードの哄笑が響いた。
「だが、最高に傑作なのは貴様だ。感謝するぞ、巫女王。貴様が教えた巻き戻しの魔法のおかげで、五百年前に戻ってこれたのだからな! 友を助けるために世界を売って、歴史まで書き換えた。ふふふ、まさに史上最悪の大罪だ! ……ああ、なんて愉快なのだ! せっかく聖女と道化師が築いた束の間の平和を、貴様自身が塗り潰したのだからな!」
改めて突きつけられた現実に、サフィアは目の前が真っ暗になって足下がふらついた。
トトと一緒にレイピアを支えていた腕に力が入らなくなる。
反論したいのに、何一つ言葉が浮かばない。
魔王の言うとおりだった。
結局、すべてを台無しにしたのはトトでもアメリアでもない。
平和だった五百年間はなくなり、神聖スカイアーク王国の歴史は無に還る。
そんなつもりじゃなかったと言っても遅い。
歴史が書き変えられた今、それはサフィアの選択の結果だった──最悪の大罪。
ガクガクと震え始めたサフィアの肩を、ふと、トトが支えた。
片手だけで掲げたレイピアの魔法は尽きかけ、デュヴァルオードの吐き出す炎の渦が二人を呑み込もうとしている。
もう一度呑み込まれれば、きっともう戻れない。
「大丈夫だよ、サフィア。そんなことにはさせない。ここで魔王を倒せばいいだけのことだ」
疲れて青ざめる横顔で、最後の力を振り絞って、炎の渦を押し返す。
いつもの飄々とした笑みがそこにあった。サフィアを安心させるかのように。
「道化師だって嗤われても、化け物と呼ばれたってかまわない。こころの痛みも傷跡も、自分自身で乗り越える……何度だって!」
その言葉がトトから放たれたことに驚いた。
一番びっくりしているのはトト自身だった。
サフィアの方をちらりと見て照れたように顔を背ける。
そうか、とサフィアは思った。
トトの言葉は、サフィアの胸の深いところに、すとんと落ちていった。
「……私たちで乗り越えていこう。傷も、痛みも。どんなに果てしない苦しみであっても!」
二人で支えたレイピアに、正真正銘、最後の魔力が宿った。
道化師と少女は走った。魔王の放つ炎の渦を突き抜けて、その先へ──
魔王の懐に飛び込んだ瞬間、魔力の閃光が弾けた。
魔法を宿したレイピアは黒い龍の胸元を貫き、炎を切り裂きながらなおも切り進み続ける。
「憐れなニンゲンどもめ! まだわからぬか。この世界にそんな価値などない! 貴様ら自身が証明していることではないか!」
「憐れなのはあんたの方よ! 魔物の王。何も愛せない貴方に、この世界は渡さない!!」
凄まじい衝撃が、きた。
炎と氷が激突する中、サフィアは刺すような熱さと冷たさの狭間に呑み込まれた。
強大な魔力がぶつかり合ったことによって生じた真っ白な閃光の中、怒りの咆吼をあげて叫んだデュヴァルオードの姿が、巨龍からどんどん小さくなっていく。
やがて人間大の姿になったその胸元に、銀色のレイピアが、深々と突き刺さっていた。
(やった……!)
傍らにいる青年を振り返ろうとして、青ざめた。
道化服を着た青年を、長く伸びたデュヴァルオードの爪が、貫いていた。
皮肉にも、人間型に戻ったデュヴァルオードともつれ合うようにして立っている。
「がふっ! ぐっ……」
口から鮮血を吐いたトトを見て、瀕死の魔王も嗤う。愉快そうに。
道化師に刺された傷は心臓を僅かに逸れて、致命傷には至っていない。
五百年間に渡る永き戦いに決着が着いたことをデュヴァルオードは悟った。
「ふふ……あははは! まだだ……まだこれからだ! これから始まるのだ。ニンゲンどもの悪夢……がっ?!」
魔王は自分の胸元を見た。
背中を貫いた「二本目」の剣がデュヴァルオードの心臓を精確に刺し貫き、取り返しの付かない深手を負わせ、すべての生命機能を停止させようとしている。
魔物の王は信じられない気持ちで、背後に立つ少女を見た──魔物の弱点を「視る」目をもつ巫女。
聖剣ステラで貫かれた傷口から退魔の光が眩いばかりに湧き出で、邪悪な存在そのものを浄化しようとしている。
デュヴァルオードの口から、ごぼりと、血の塊が溢れた。
「……まさか、貴様にとどめを刺されるとはな。小さな巫女王……」
その言葉を最期に、今度こそ、人間型の魔王の姿も微細な欠片に砕けて爆散した。
☆☆
魔王デュヴァルオードが消滅し、支えを失ったトトは静かにくずおれた。
サフィアはトトの傷口に触れた。
深すぎる傷に、言葉を失った。
鮮血が心臓の鼓動とともに血の池を作っていく。
トトが取り戻した、彼自身の心臓だった。
……彼はもう、不死ではない。
そのことを、サフィアは絶望とともに自覚した。
「トト、死んじゃ嫌! 死なないで! お願いだから……」
しがみついたサフィアの涙が血の気を失ったトトの顔に落ちていく。
トトは苦しげに目を開けて、力なく手をさ迷わせた。
焦点の合わない瞳はもうサフィアの姿を映していない。
「……サフィア。やっとキミが、なんで泣いてるのか、わかった……」
「嫌だよ。やっと呪いが解けたのに。魔王を倒して、これからじゃない。死なないでよ、トト。……置いてかないで……」
トトの意識は闇に呑まれて、落ちて、溶けていく──その中で。
トトは弱々しく微笑んだ。
震える手でサフィアの涙を拭おうとする。
「……サフィア、泣かないで……」
吐息のような、トトの囁きだった。
何も掴めず届かないままの手が、静かに落ちていく。
トトの左胸で、心臓の鼓動が徐々に弱くなり……──
──……やがて、止まった。




