5-3
巻き戻しの魔法が発動し、サフィアと魔王の姿が幻のようにかき消えた後──
一人取り残されたルーナは、監禁部屋に立ち尽くしていた。
サフィアがその方法を選んだのは、他ならぬルーナを救うためだ。
口を割らない人間の少女なんて、デュヴァルオードは赤子の手を捻るより簡単に殺してしまっただろう。
必ずなんとかすると言い置いて、サフィアは魔王に巻き戻しの魔法を教えてしまったのだ。
透明な滴がぽたぽた垂れて絨毯を濡らした。
頭の中ではこれまでに読んだ膨大な数の歴史書や民話、魔導書のページを捲っている。
どれだけ捜しても「友達が魔王と一緒にタイムスリップしたときの対処法」なんて載っていなかった。
なんのための語り部だ。
肝心なときに役立たずではないか。
「サフィア……すまぬ。どうしよう。どうしよう。どうしよう……」
ルーナは眼鏡を外して、次から次へと出てくるしょっぱい涙を拭った。
サフィアがいなくなって一人になった部屋は、一気に温度が下がったように肌寒かった。
こんなとき、ルーナは年齢相応の少女に戻ってしまう。
否──もしルーナが師匠と出会わず、語り部にならなかったら、世間擦れして要領のいい年頃の娘に育っていたかもしれない。
魔法使いでもないルーナは、巻き戻しの魔法を知識として識っていても、発動させることはできない。
サフィアを追って五百年前の世界に行くのは不可能だった。
「情けない……情けない……うぅ」
そうやって、どれだけの間、蹲っていたのだろう。
窓の外では雪が音もなく降りしきり景色を白く染めていく。
室内の明るさで窓硝子に映り込んだのは自分一人。
だが、ふと、何かの気配を感じた。
魔物が現れたのかと思ったルーナはびくりと肩を強張らせた。
そんな彼女を安心させるかのように温かな手が触れる。
どこからか、ちりん、と鈴の音がした。
「──おぬしは……」
瞠目したルーナに向かって青年が微笑む。
その姿が透けて、向こう側の壁が見えている。
ルーナはごしごしと目を擦った。
青年の姿はかき消えることもなく、そこにいる。
幽霊かもしれなかったが、少しも怖くなかった。
昨日の夜から魔物に誘拐されるわ、魔王に脅迫されるわで、もうとっくの昔に感覚が麻痺したのかもしれない。
身体の透けている青年はルーナの顔を不思議そうに眺め、涙が出ているのを拭おうとして触れられず、仕方がないから彼女の頭をよしよしと撫でた。やっぱり触れられはしなかったけど。
ルーナの心は少しだけ凪いで、落ち着きを取り戻した。
恥ずかしいところを見られたことを悟って火照った顔を俯いて隠した。
青年はどこかへ行く途中らしかった。
ふっと温かな体温が離れた。
そのまま空間に溶けていこうとする彼をルーナは呼び止めた。
「おぬしがどうやってここに来たのかは知らん。じゃが、サフィアのこと……──助けて」
青年は一度だけ振り向いて、煙のように消えた。
唇にふわりと滲んだ微笑みは、そんなこと言われるまでもないと言っているようだった。
☆☆
──結局、自分は何も変わってない。
ただ自分が助かりたい一心で、聖剣ステラを抜いてしまった二年前の夜から……何も。
目の前で変化した巨大な黒い龍を前にしながら、サフィアは金縛りにあったように動けなかった。
魔王が突き破った天井の瓦礫が落ちてくる。
少年が突き飛ばしてくれなかったら、今頃、下敷きになっていた。
「何やってんだ。死にたいのか! 走って!」
「う、うん」
手を引かれるままに逃げるサフィアの背後を青白い炎が追ってくる。
ドラゴンが吐き出した魔力の炎だった。
「ねぇ……トト。あれ!」
床に跳ね返った炎は人間大の大きさに変形し、魔物兵の軍団となって追いかけてくる。
たちまち囲まれた。
魔王デュヴァルオードだったドラゴンの足音が地響きのように近づいてくる。
魔王の城を自分の身体で瓦礫にしながら、愉悦を湛えてか弱い獲物たちのむなしい抵抗を眺めた。
「ふふふ……足掻け足掻け! 五百年越しの報復だ。ただでは殺さん。無様な道化者らしく絶望の中で死に絶える様を見せつけろ」
魔物兵たちは実体があるのか、サフィアと少年を掴んで引き離そうとする。
なのに、トトが短刀で斬り付けても、すり抜けるばかりでまったく手応えがない。
「放して……このっ、放しなさいよ!」
「くそっ! こいつら死霊系か……アメリアを放せ!」
サフィアは身体をよじりながら、魔物兵の包囲をなんとか抜け出そうとした。
聖剣ステラが魔物兵に当たった拍子に真っ白な光が迸り、魔物兵が悲鳴をあげてたじろいだ。
魔物たちの反応に、サフィアの方が驚いた。
「これ、対魔の光……アメリア、これは?!」
「わ、私にもわかんないけど……」
紛れもない巫女の力。
かつて聖女が魔王を封じたときに放った聖なる輝きだった。
魔物兵たちの間に動揺が走り、包囲を崩して遠巻きにしている。
漆黒のドラゴンも目を剥いた。
「小娘……やはり聖女の意志を継ぐ者か!」
「わわっ!」
サフィアは聖剣ステラをかざして、魔王が吐き出した青い炎を受けた。
剣を起点にした見えない盾がサフィアと少年を守り、炎が二人の横を避けるように通り過ぎる。
だが、それも保って数分といったところだ。
後ろから少年が支えても、熱波は徐々に二人を蝕むようになり、見えない盾がどんどん小さくなって消耗していくのがわかる。
(このままじゃ二人とも巻き込まれる……!)
「トト! もう保たないわ。秘技以外の魔法ないの?!」
「ムチャ言うなよ。僕が魔法使いじゃないの、知ってるだろ? 僕はただ一族の秘技を語り継いでただけで……」
少年も歯噛みした。
魔王の心臓を取り込んでいれば、まだ可能性はあった。
膨大な魔力を宿して、たとえ暴走してでも、デュヴァルオードをたじろがせ、倒せはしなくても封印するだけの魔力を放出できる可能性が……。
だが、呪符は焼かれ、秘技の可能性も途絶えた。
炎の渦が髪の毛を掠め、二人のマントとコートが端から焦げていく。
剣を支える腕が疲れて重くなってきた。
汗で滑ろうとする柄を懸命に握りしめる。
「せめて貴方だけでも逃げて。このままじゃ二人とも……!」
「嫌だ。死ぬときは君と一緒だ!」
怖くて逃げ出したいくせに、むきになって少年は言う。
──言うと思った。
サフィアの口の端に、知らず知らずのうちに笑みが滲んだ。
「……そうね。死ぬときは貴方と一緒」
──でも、それは今じゃない。
炎の渦が途切れた先に、漆黒のドラゴンが顎を広げていた。
巨大な牙の氷柱が頭上に生え並び、少年と少女を一息に呑み干した。




