5-2
「……トト? ねぇ貴方、トトなの……?!」
「……え? あれ? 君は……っ」
少年の手がそろそろと伸びてくる。
サフィアは反射的に身を引いた。
これが魔王の幻惑魔法じゃないかと疑ったのだ。
けれど、サフィアは少年時代のトトを知らない。
いくら魔王でも、サフィアの知らないひとに化けるのは無理がある。
ということは──
「……やっぱり、ここ、やっぱり五百年前なんだわ……」
少年は一瞬、きょとんとした顔をした。
だが、すぐに目元を安堵で緩ませる。
「よかった……アメリア。死んだかと思った。怪我は? 大丈夫かい?」
(……え?『アメリア』?)
サフィアは聖剣ステラの刃に自分の姿を映した。
毎朝、鏡で見ている見慣れた顔立ちに、肩先で切られてしまった栗色の髪。
アルマダールの集落から着の身着のままさらわれてしまったため、ふわふわとしたネグリジェの上からコートを羽織っている。
(私は、私よねぇ?)
サフィアは胸を撫で下ろした。
五百年前に巻き戻ったからといって、アメリア自身に成り代わってしまったというわけではなさそうだ。
……それにしても、そんなに似ているだろうか。
少年は声を震わせながら、サフィアの手を包み込んだ。
少年の声があまりに切なかったので、サフィアは「アメリアじゃない」と言い損ねた。
「本当に……心配したんだ。朝起きたら姿が見えないから。独りで魔王の城に向かうなんて無茶苦茶だよ。もう……会えないかと思った」
──もう会えないかと思った。
その気持ちはサフィアにも痛いほどわかった。
胸が熱くなった。
「……私も、もう会えないかと思ったよ」
目の前の少年に向けた言葉ではなかった。
彼はまだ『道化師』であるトトを知らず、平和になった後の世の中も、その中でどんな境遇になるのかも知らない。
それでも少年は満足げに微笑んだ。
心からの笑顔は、サフィアの知る『彼』が喪ってしまったものだった。
サフィアは少年の手を強く握り返した。
ここで彼に会えたのは幸運だった。
「貴方にここで会えてよかった。……よく聞いて。魔王は貴方に秘技を使わせないようにしてるの。信じられないかもしれないけど、私は五百年後の世界から……──」
そこでふと、包み込んだ少年の手から、不気味な脈動が伝わってくるのに気付いた。
サフィアの顔から血の気が引いた。
光を零しながら脈打つ深紅の宝玉。
蛇のごとく巻き付く呪符の意味を、サフィアはもう識っている。
儚くも透き通るようなトトの微笑みの──その意味も。
「僕も君に会えてよかった。最期に、一目、会いたかったから」
そう言って、トトの唇が耳慣れない音を紡ぎ始めた。
決して唱えてはいけない呪文。
古の一族が大切に伝えてきたもの。
「ダメ! 秘技を使っちゃ……!」
サフィアは聖剣ステラを振りかぶった。
けれど、いくら国宝レベルの名剣でも、素人が握れば木の棒と同じである。
それを難なく避けた少年は、困ったような顔をした。
「……どうして秘技のことがバレたのか知らないけど。ダメだよ、アメリア。この心臓は君に渡せない。この命に代えても」
少年も短刀を構えた。
魔王の心臓……ではなく、目の前の少女に向けて。
「僕を止めたいなら殺すつもりで来なよ。優しい君にそれができれば、だけど」
ぞっとするような声音だった。
冷たく光る刃が少年の本気を告げていた。
魔物を倒す百戦錬磨の勇者でも、幼なじみに本気で剣を向けることなんてできない。
まして殺すことなんて。
……勇者でもないサフィアには、そこまでの技倆すらない。
「……こんなやり方間違ってるよ。世界のために貴方が犠牲になるなんて、そんなこと、アメリアさんだって望んでない!」
アメリアの名前を聞いて、わずかに揺れたトトの瞳も、すぐに決意のベールで固く閉ざされてしまう。
「これは僕たち一族の問題なんだ。僕たちの一族は、ずっと、魔王を倒す機会を窺っていた。今ようやく叶えられるんだよ」
それにね──とトトは笑んだ。
「臆病な僕だけど、君のためなら、何だってできるよ」
「そんなこと望んでない。貴方のいない世界なんていらないの! わかってよ!」
一閃、二閃と斬り結んだ。
初めて扱う剣は重く、リーチでは勝るはずなのに、少年は易々とそれをかい潜る。
サフィアは歯噛みした。
もし相手が本物のアメリアだったら、トトは全然敵わなかっただろう。
勇者であるアメリアは魔物の弱点を的確に見抜き、劣勢な戦況を鮮やかに覆してみせた。
サフィアは勇者でも剣士でもない。
剣を振り下ろした隙を突かれ、旅慣れた少年から鳩尾に蹴りを入れられて、膝に力が入らなくなった。
くずおれながら空気を求めて咳き込んだ。
涙が出た。
「トト……こんなの、間違ってるよ……」
「……君に笑っててほしいんだ。僕がいなくなった後の世界でも。さよなら、アメリア」
頭上から少年の声が降ってくる。
そうして呪句の詠唱を再開しようとした、そのとき、少年の手にしていた魔王の心臓が一際大きく鼓動を打った。
「……?!」
少年が驚きに目を瞠る。
見ていたサフィアにも、一瞬の出来事だった。
禍々しい魔力の奔流が辺りに渦巻き、真っ青に放電した雷の矢が飛来してトトを掠めた。
「うわっ……!」
少年の手にした心臓が青い炎に包まれ、見る見るうちに呪符を焼き焦がす。
秘技の要だった紙は灰になり、儚く宙に散った。
「そんな……呪符が!」
「タネが割れた手品を使おうなんて三流だよなぁ? 反吐が出るよ。そう思わないか?」
サフィアとトトが呆然と見守る中、異形の青年は満面の笑みで現れた。
目だけが笑っていない。
「……魔王! 謁見の間にいるはずじゃ!」
──違う。
ここにいるのは「現代」の魔王だ。
サフィアと同じく、異なる時空間から舞い戻った闖入者。
だが、少年はデュヴァルオードの存在よりも、呪符の消滅を知って青くなっている。
呪符がなければ、秘技は完成しない。
「魔王を倒す、唯一の方法が……!」
遅れて、やっとサフィアも悟った。
道化師トトが語った「おとぎ話」の結末──聖女が宿した対魔の力と少年に残った心臓の魔力で、魔王を封印するという一縷の望みが絶たれたことを。
『それを教えては歴史が変わってしまう! 五百年間にわたる平和も、何もかも……!』
ルーナの言葉は正しかった。
聖剣ステラを抜いて魔界の封印を解いてしまった、あのときとは違う。
聖女やトトが叶えた五百年間の平和も、神聖スカイアーク王国の歴史そのものも、塵に還ろうとしている。
サフィアが犯したのは歴史そのものの改変だった。
「違う……私、そんなつもりじゃ……!!」
サフィアは今更ながらに震えた。
トトの手の中にあった心臓がふわりと浮かび上がり、デュヴァルオードの手に戻った。
何も混ざっていない純粋な魔力の果実を美味しそうに呑み下すと、これまでの数倍にも匹敵する凄まじい魔力の奔流がデュヴァルオードの全身から迸った。
目も開けていられないほどの波動がサフィアたちにまで襲いかかってきて息ができない。
「くっ……!」
「きゃあ?!」
手のひらで遮りながら見たものは。
異形の青年の姿が数十倍にも数百倍にも膨れ上がり、天井を突き破って瓦礫を撒き散らす悪夢のような光景だった。
顔は鼻の部分が大きく盛り上がり、四肢はずんぐりと太く獣のようになった。
今まで見たどんな魔物よりも遙かに巨大で、禍々しく、神々しいまでの偉容を放つ姿はまさしく魔物の王──
「……ドラゴン……!」
巨大な漆黒の龍になった魔王は、幾重にも絡まり合った声音で咆吼を放った。
「ふふふ……あはははは! やっと取り戻した……俺様の、俺様だけの心臓だ!! さあ、五百年越しの復讐劇の始まりだ。俺様の華麗なる舞台の観客になれる類い稀な幸運に酔いしれながら──死ね」




