5-1
彼が「大きすぎる過ち」に気付いたのは、すべてが終わった後のこと。
数え切れないほど眠れぬ夜を過ごし、涙も涸れ果てた頃になって彼はやっと心を決めた。
持ち慣れない短刀を逆手に、震える手で自分の左胸をひと突き。
それですべてを終わらせようとした。
それでも──
血塗れの彼は、死ぬことができなかった。
──?! どうして……!
それから、あらゆる手段を試した。
切り立った崖から飛び降り、荒れ狂う高波には身を投げた。
ちょうどいい高さの枝があれば荒縄を結わえて首を吊り、頭でも腕でも身体の至るところを傷付けた。
食べ物のない小屋の中に自分自身を閉じ込めて飢え死にしようとしたこともあった。
どんなに寒い雪の夜でも、身体を焼け焦がす炎の中でも、彼が死ぬことはなかった。
彼はようやく悟った──これは呪いなのだと。
自分はもう死んで逃げることさえ赦されないのだと。
──見届けろというのか、この僕に……?
彼は泣きながら嗤った。
老いることもなくなった身体──その意味を悟って。
魔物が蔓延り闇に沈んだ世界。
だが、そんな中にも救いはある。
あるかなきかわからぬ、か細い明星の光──
いつの日か、魔王を倒すための秘技を、想いを受け継いでくれる者が現れるだろう。
何百年、何千年、何万年かかるかわからない。
そのとき、彼はようやく、その身を焦がす罪の業火から解放される。
この世界に魔物を招き入れてしまった贖罪を……。
☆☆
「きゃあああ……!」
足下の絨毯が、踏みしめていた床ごと跡形もなく消えて、サフィアは深い深い穴の中に落ちていった。
「サフィアっ!」
「ルーナぁ!」
咄嗟にサフィアは手を伸ばした。
ルーナが床の縁から伸ばしてくれた手を掴もうとして──
だが、そのときにはもう遅すぎた。
瞠目したルーナの瞳の中で、落ちていくサフィア自身の姿がどんどん小さくなっていくのが見えた。
落ちていく。
墜ちていく──どこへ?
恐怖にきゅっと心臓を掴まれた気がした。
サフィアが教えた呪句を魔王が唱えた途端、不思議な力で、どこか違う空間に吹っ飛ばされた──否、突き墜とされた。
さっきまで貴族の屋敷にいたはずなのに。
延々と堕ちていく。
底のない真っ暗などこかに。
(ちょっと何これ。どういうこと?! どうなっちゃうの私!)
サフィアはぎゅっと目を瞑った。
こんな訳のわからない死に方嫌ー!
と心の中で叫んだとき、不意に重力が横にも作用し始めた。
そんなバカな、と思った。
それとも、サフィアが上下左右を見失ったのか。
どこかに吸い込まれていく感覚に驚いて目を開けると、真っ暗な空間の中、サフィアの周りで幾多の情景が窓の外を眺めるように映し出されていた。
見たこともないひとたちが酒場で笑い合っていたり、恋人たちの別れの場面だったりする。
肖像画で見たことのある何代も前の巫女王の戴冠式の様子や、遠い昔に流行したドレスを身に纏う舞踏会の淑女たちも映し出された。
「これ、みんな昔あったこと……?」
サフィアと同じ仮想重力に引っ張られて、どんどん巻き戻されていく。
ものすごい力の渦の中心──薄明かりの方へ。
「もしかして私、過去に巻き戻ってるのー?!」
疑問に答える声もなく、サフィアは吸い込まれるようにして光の渦に包まれて──そのまま意識が途切れた。
気が付いたときには、ひんやりと冷たい石の回廊に転がっていた。
埃っぽくて、喉がイガイガする。
燭台には火の気がなく、壁にかかる風景画や肖像画は見る影もなく朽ちている。
まるっきり廃墟の城といった趣。
どこも痛まないのを確かめながら身体を起こした。
「ここ、どこ?」
さっきまでいた貴族の屋敷ではなかった。
魔法で床がなくなって下の部屋に墜落とか、一階まで突き抜けていって激突死……ということにはならなかったらしい。
建物の朽ち果て具合を見ても、まるっきり違う場所に飛ばされた、という方がしっくりくる。
(ルーナはどうなったの? それに、魔王……!)
辺りを見ても、サフィアの他には誰もいない。
床の崩落が始まったとき、ルーナはまだあの部屋にいた。
一緒に落ちてきたのでなければ、巻き戻しの魔法には巻き込まれなかったのだ。
けれど、呪句を唱えた魔王デュヴァルオードは──
「……多分、私と一緒に落ちてる。この城のどこかにいるんだわ」
五百年前に戻って、トトと心臓が混ざってしまった過去を変えたがっていた魔王。
そのとき、彼はどこにいた……?
そこまで考えたとき、床に突いていた右手が何かに触れた。
何気なく振り返ったサフィアは息を呑んだ。
聖剣ステラ──この二年間、ずっと捜していたもの。
サフィアは精緻な模様の施された柄をそっと撫で、慈しむように抱きしめた。
まるで迷子になった我が子が帰って来たかのように。
否──剣はずっとここにあった。
二年前の凶行で助けを求めて縋ったサフィアの中に。
「ずっと守ってくれたのね。ありがとう」
抜き身の剣を持って、サフィアは立ち上がった。
そうすると、ほんの少しだけ、自分が魔王の城に乗り込んだ勇者のような気分になる。
五百年前の聖女──アメリアのように。
「……もしかして、ここ、魔王の城?」
魔王の城の最上階には、デュヴァルオードがいる。
そこにはアメリアが……そして、少年時代のトトが乗り込んで来るはずだ。
過去を変えたがっていた「現代」の魔王。
アメリアたちはそれを知らない。
このままではデュヴァルオードを封印できなくなるどころか、聖女の叶えた五百年間の平和がなくなる。
神聖スカイアーク王国を建国した歴史も変わってしまう。
(……冗談じゃない!)
ルーナにも大見得を切ったばかりだ。
必ずなんとかする、と。
それが剣も魔法も知識もない、ハッタリだらけの見栄でも。
サフィアは息せき切って廊下を駆けた。
脳裏を巡るのは魔王デュヴァルオードのこと。
置き去りにしてしまったルーナのこと。
魔王と対峙しているはずの、まだ見ぬ少女アメリアのこと……。
夢中になっていたサフィアは、曲がり角を曲がった途端、向こうから走って来た少年と正面衝突した。
「きゃあ!」
「うわぁ!」
勢い余って初対面の少年に組み敷かれる格好になる。
後頭部をぶつけて痛いやら重いやら、一瞬、何が起こったかわからなくなった。
「あ痛たたた……何よ、もう」
「ぎゃーっ! 魔物? やばい、とうとう見つかった? 婬魔……いや、死霊系か?! 悪霊退散悪霊退散悪霊退散!」
「……誰が魔物よ、失礼な!」
相当、混乱しているらしい。
はだけたフードの下から、少年の端正な顔立ちが顕わになった。
サフィアは息を呑んだ。
容姿の美醜に、ではなく、その面影に。
「ごめん、大丈夫? まさか魔王の城にひとがいるなんて思わなくて……」
サフィアが持っていたものより数段、くたびれた旅仕様のマントを着て、心配そうに覗き込んでくる。
周りの女の子たちが羨むような黒檀の髪。
瞳が心なしか潤んで泣きそうになっている──五百年後の『彼』には逆立ちしても真似できない憂いを帯びて。
初めて見る少年だったけれど、誰なのかは一目でわかった。
「…………トト?」




