4-7
あれは、いつのことだっただろう。
まだ先代の語り部が生きていた頃、滅多にない来客が帰ってからもひどく怒っていたときがあった。
彼は怒ると雄弁になる性質で、弟子のルーナはよく弁舌に付き合わされた。
「よいか、ルーナ。わしは巫女王やら道化師やらなどというものに関わるつもりはない。これからもじゃ」
どうやら客はそこそこ名前の知れたどこかの勇士だったらしい。
どうやってかこの隠れ里を捜り当て、先代のもつ有史以前からの膨大な知識を求めたのだ。
先代は興奮冷めやらぬ風に唾を飛ばした。
「ふん。信仰やら政治やらといった俗世のものに興味はない。わしが追い求めるのは知識だけじゃ。わしらの伝える知識の中には、現代では廃れてしまった魔法に関するものさえある。わしらにはそれらを守り抜き、後世に伝えていく義務があるのじゃ」
「でも、お師匠様。そんなにカッカせんでも。呪句や呪符がわかったところで使える者など誰もおらんのじゃろ?」
弟子であるルーナは話半分で、呆れながら本のページを捲っていた。
いくら先代やルーナが魔法に関する呪句や呪符を知っていても、魔法を使うことはできない。
それを使える者たちはとうの昔にいなくなってしまった。
(そういえば、王都にたった一人だけいるって風の噂で聞いたな……お城の奥深くに住み着いている「大賢者」。まぁ、嘘か真か知らんが)
そんな怪異譚は腐るほど耳にした。
何しろアルマダールの民が誇る語り部である。
象牙の塔に籠もっていても、嘘も真実も玉石混淆に集まって来る。
そんなルーナの心中を知ってか知らずか、先代は何やら眉間の皺を更に増やして複雑な顔をしていた。
「よいか、ルーナ。魔法というのは、ただの言葉に現実の力を与える奇跡の秘薬なのじゃ」
「?」
「大昔、魔物が跋扈していた時代には、知識それ自体が脅威じゃった。知ってのとおり、わしら語り部が伝える知識の中には魔法についてのものもある。魔法が廃れた現代だからこそ、無為の言葉の連なりなのじゃ。よく覚えておくといい。語り部は言うなれば、作成不可能な古代兵器の設計図を抱えているようなものじゃとな」
当時のルーナは、そんな紙ペラだけあって、何ができるのかと思った。
結局、一族の「魔法」は、五百年前に道化師が使った秘技で最後とされている。
それでいい、とルーナは思っていた。
歴史を振り返っても、過ぎたる力は必要ない。
魔物のいない現代であればなおのこと。
そう思っていたのに──
それからまもなくして各地に魔物が復活し始めた。
「トト、よかった……! 無事だったのね?」
サフィアの声で、ルーナの意識は数年前の回想から引き戻された。
気が付けば、一族の隠れ里にある自宅ではなく、アナベルにさらわれて監禁された部屋だった。
サフィアが感極まった様子で目の前の人物に駆け寄って行く。
(……? 何が起こった?)
甘い花の香りに目の前がくらくらする。
この部屋に花瓶などあっただろうか。
それも、こんな強烈な香りの──
「いかん、サフィア! そやつから離れろ!」
「……え……?」
サフィアはルーナの方を振り返って不審そうにした。
「ルーナ、どうしたの? ほら、トトだよ! 助けに来てくれたんだよ!」
「わしには、そやつが道化師には見えん。……先代に見える」
「……?!」
サフィアが瞠目して、「トト」だった青年とルーナを交互に見比べる。
青年の輪郭が見る見るうちに溶け崩れ、やがて背格好のよく似た青年の姿へと変貌した。
頭部に二本の角を生やし、漆黒に濡れた翼と凶悪な鉤爪が揃うにつれ、その美貌はますます鮮烈になっていく。
そして、すぐ近くに立っているだけでのしかかって来る威圧感……。
「そんな……!」
「一番会いたい相手の姿に見えてたはずなんだけどな……素直に喜んでくれないのは計算外。だけど──」
幻惑魔法に伴う甘ったるい花の香りが霧散していく中、魔物の青年は逃げようとしたサフィアを問答無用で捕まえ──抱きしめた。
「逢いたかったよ、アメリア……!」
息もできないほど強く抱きしめられて、サフィアは何が何だかわからなかった。
トトだと思っていた青年が、魔法で姿を変えた魔物で、自分のことを「アメリア」と呼んだのだ。
もがいて離れようとするが相手の力が強くて敵わない。
「嫌。放して!」
「ずっと君を待ってたんだ」
「人違いよ。私、『アメリア』じゃない」
「君だよ。僕が待ってたのは」
「?!」
サフィアの唇に指を這わせながら、魔物の青年はくすりと笑う。
漆黒の髪も瞳も、どことなくトトに似ている。
けれど、その瞳は無機質ではなく、とろけるように恍惚とした光を宿していた。
「……こんなの、知らなかった。君に会うと、心がこんなに高鳴るんだ。君が僕に教えてくれたんだよ、アメリア」
──コンナノ、知ラナカッタ。
「?! まさか、貴方……!」
かつて幼なじみの少女の傍らにいた少年トトが、もし何事もなく、道化師にならず、不老不死の呪いも受けずに成長していたら、きっとこうなっていたであろう青年の姿。
「貴方、魔王なの……? トトの心臓と混ざって、こんな……!」
魔物の青年──デュヴァルオードはにこりと笑った。
やっと気付いてもらえた、というような、本心からの清々しい笑み。
今のトトなら、絶対に浮かべない、理解することすらできない、心からの感情を宿した微笑みだった。
「もうどっちの気持ちかわからないんだ。あははは! 君が愛しくて愛しくて愛しくて……壊して殺して僕だけのものにしたい!! ふふ……あははは!」
サフィアはぞっと凍り付いた。
魔王が腕を離すと、その場にへたり込む。
「サフィア……!」
駆け寄ったルーナが、庇うようにしてサフィアの前に立った。
デュヴァルオードは意に介さない。
必中の距離にいようと、小娘二人などどうとでもなる。
問題は、ただの小娘ではないということだ。
「ちょうどいい、おまえは古の一族の語り部だそうだな。使いたい魔法がある」
「あいにくと、わしは百科事典ではない。貴様に教えることなど何もないわ」
吐き捨てたルーナを、魔王は愉快そうに見下ろした。
尊大な口調だと、トトから聞いた五百年前の話のようになる。
トトと心臓が融合して、口調まで混ざったというのか……。
「ふふ。そう言うな。実は、僕の心臓、道化師のと混じっちゃったんだ──それを直したい」
「そうか。それだったら、どこぞの魔法相談所にでも駆け込んだらどうじゃ。もっとも、そんなものが存在すればの話だがな」
「ふん。威勢のいい小娘だ。いつまで虚勢を張っていられるかな?」
「……! ダメ!」
魔王の鉤爪に晒されたルーナをサフィアが押し倒す。
「サフィア……!」
デュヴァルオードが舌打ちしたが、遅かった。
鉤爪はそのままサフィアを引き裂こうとし──
寸前で、眩い金色の光に弾き飛ばされた。
「?!」
鈴のように澄んだ衝撃音が響き渡った。
無傷なままのサフィアが床で縮こまっている。
「……あれ?」
「サフィア、無事か?!」
「う、うん……」
サフィア自身にもどうして無事なのかよくわからない。
魔王の鉤爪が自分めがけて振り下ろされるのを、確かに視たのに……。
デュヴァルオードも自分の手をしげしげと見つめていた。
「……。この忌々しい気配……そうか。封印が解けたのは……なるほどな」
「……?」
デュヴァルオードが何かぶつぶつと呟いた。
気配がどうのとか、封印がどうのとか。
ルーナがサフィアにひっそりと耳打ちした。
「まずいぞ、サフィア。奴は道化師を殺して復讐を遂げようとしておる」
「ど、どうしよう……っていうか、くっついちゃった二つの心臓を引き離す魔法とかってあるの? ルーナ、知ってる?」
「……わしも皆目、見当がつかぬが……」
知らないものを教えるも何もない。
白状しようにも、そもそも白状する内容がないのだ。
目当ての魔法を知らないとなるとルーナが殺されかねない。
だが、そんな心配は杞憂だった。
デュヴァルオードは事も無げに言ったのだ。
「古の一族の語り部よ、巻き戻しの魔法は知ってるな──教えろ」
ルーナは目を剥いた。
道化師の使った秘技が禁忌なら、巻き戻しの魔法は禁忌中の禁忌──決して口外を許されない類いのもの。
「心臓がくっついたのなら融合する前に戻ればよかろう? 五百年前に戻ってやり直せばいい」
「なっ……! おぬし、何を言っているのだ?! ならん! 絶対にならん! 過去を改変することになるのだぞ?!」
何か途方もないことが起きていることをサフィアは悟った。
魔王の心臓を取り出す秘技よりも遙かに──
「過去って……? 時を操る……ですって?! そんなこと、できるわけが……」
だが、本当にできないのだろうか。
もしそうだとしたらルーナがこんなに焦る理由がない。
「……ルーナ……?」
ルーナは苦々しい顔をして俯いた。
眼鏡の奥に狂おしい光を浮かべて。
「……第一、『鍵』になるものがない。過去へと巻き戻す依り代がなければ、いくらなんでも……」
「五百年前を知る『鍵』ならば、ここにある」
「……え?!」
デュヴァルオードの唇が耳慣れない響きの呪句を唱える。
彼がサフィアの胸に手をかざした刹那、何か得体の知れないものが体内から無理矢理引きずり出される感覚がした。
自分の中から何かが引っ張り出されていく。
かつてのトトのように心臓を奪われる予感に、サフィアは身も凍るような恐怖で悲鳴をあげた──が。
(な、何……?!)
直後、信じられないことが起こった。
サフィアの胸元から先ほどの金色の光が零れ、部屋中を照らし始めたのだ。
目も開けていられない眩しさの中で、サフィアは頭の中に響く女の声を聞いた。
──ダメ。それを魔王に委ねてはいけない!
(……?!)
その声の正体に思いを馳せる間もなく──
サフィアの胸元から生えいずるように姿を現したそれは、真っ赤に脈動する心臓ではなく、精緻な彫刻の施された一振りの剣だった。
柄頭には澄んだ海の色をしたエメラルドの宝石がはめ込まれている。
「……聖剣……ステラ? なんで私の中から……」
「ふん。正統な持ち主の願いに応え、守ったんだろう。魔界の封印が解けようとも、かまわずな」
サフィアの目から涙が一筋、零れた。
巫女の力がなかったのではない。
それはもう既に使ってしまっていたのだ。
二年前の、あの悪夢の晩に。
(……あぁ……)
ずっと自分とともにあったのだ。
捜しに行くまでもなく、ずっと、守ってくれていた。
サフィアは大切な子どもが帰って来たかのように剣を抱きしめた。
「バカな……聖剣ステラが……こんなところに」
ルーナも呆然としている。
そんな二人をよそに、デュヴァルオードは肩を竦めた。
「──さて。茶番はもういいだろ。これで『鍵』も揃った。さあ、巻き戻しの魔法を」
「ならん! 死んでも口は割らんぞ」
(……っ)
サフィアは戦慄した。
魔王はルーナを八つ裂きにしてでも呪文を吐かせるだろう。
そうなるぐらいなら──
「──私が教えるわ。巻き戻しの呪文」
「サフィア?!」
デュヴァルオードが訝しげに振り返った。
それはそうだろう。
サフィアに魔法の知識なんかあるわけがない。
──さっきまでは。
「聖剣ステラを取り出されたとき、頭の中に知らない言葉が響いてきたの。あれが、多分……」
「ダメじゃ、サフィア! それを教えては歴史が変わってしまう! 五百年間にわたる平和も、何もかも……!」
魔王が静かにサフィアの元へ歩み寄った。
聖剣ステラと距離を取りつつ、サフィアと真正面から対峙する。
サフィアは無理矢理、笑みの形を作った──泣き笑いだった。
「ルーナ、私を信じて。絶対、魔王の思い通りにはさせない」
そうして、サフィアは唱えた。
過去へと還る、禁忌の詠唱を──




