3-6
アルマダールの隠れ里で唯一、語り部の役割を受け継いでいる少女は読んでいた紙面から顔を上げた。
気が付けば、外はすっかり土砂降りになっていた。
サフィアたちが帰ってから建国神話に関係する書物を紐解き始めるうちに、時間を忘れて読み耽ってしまった。
「いかん。また寝食を忘れるところだった。今、何時じゃ?」
本で視界の利かない部屋には、語り部の少女ただ一人。
いつものように独り言で、返事をする者もいない。
部屋の片隅にある大時計が、薄宵を指してボーンと鳴ったところへ、ずぶ濡れになった女の子が家を訪ねて来た。
ツインテールのしっかり者で、正体は大賢者の使い魔である。
もっとも、彼女が使い魔であることを知っているのは語り部をしているルーナの他、数えるほどしかいない。
「なんじゃ、メイか」
「かたりべさまぁ。トト、こっちにきませんでした? おいかけてたんですけど、とちゅうで、みうしなっちゃって……」
「おぬしらしくないな。『蝶』になって奴の背中に貼り付けばよかったじゃろうに」
「そんなヒマなかったですー」
メイは玄関でずぶ濡れのコートの滴を払った。
歩くと水滴が子分のように点々と後をつけて来る。
「ああ、待て。そこに座るな。本が濡れる」
「ほんより、メイをしんぱいしてくださぁい」
「む……」
もっともである。
ルーナはメイのために、山積みになった本の中からタオルを発掘してやった。
メイはしわくちゃになったタオルに眉をひそめながらも、背に腹は代えられなかったらしい。おとなしく身体を拭き始めた。
「まぁ、座れ。お茶でも飲んでいくといい。外は大分、冷えたじゃろ。今日な、巫女王と道化師が来おったよ。ふふ、なかなか骨のある娘じゃな。巫女王は道化師の心臓を取り戻したいと言ってた」
「そんなこと、いってたですか? トトのために?」
愉快そうなルーナに対して、メイは複雑な面持ちである。
その理由も察して、ルーナはメイの頭をぽんぽん撫でた。
普段、周りに子どもがいないせいか、小動物でもあやしている気分になる。
「なに。そんなに心配することでもなかろうて」
「メイはしんぱいです。ニンゲンはこわいです。いつだってコロッとたいどをかえます」
ほぅ、とルーナは意外そうな顔をした。
「人間が怖い、とな。おかしなことを言う。おぬしの敬愛する大賢者様もわしも、その『人間』じゃのに」
大賢者の魔法によって生まれた使い魔たる子どもは、ちょっと黙った。
自慢のツインテールまでが心なしかしょげている。
サフィアとトトの仲が近づくにつれて、メイの抱いている不安は大きくなった。
もしトトが忌避されるばかりの存在で、誰にも興味を示さないままだったら、こんな心配はしなくて済んだのに。
「おねーちゃんは、まだしらないですよ。トトがどうしていみきらわれるか、そのりゆうを」
格好の奇抜さや言動の突飛さだけではない。
不老不死の呪いで、姿形が変わらないからでもない。
こころのない道化人形が社会に溶け込めず、忌避されるのにはもうひとつ、理由がある。
サフィアはまだそれを知らない。
知らないからこそ、トトと普通に接することができるのだとメイは思った。
ルーナも、ふむ、と考えに耽った。
「道化師が『道化師』たる由縁か……確かに、興味深くはあるな。わし自身、語り継がれた知識でしか知らんしな。そうさなぁ……仮に道化師の格好や言動、不老不死であることまで受け入れられたとしても、『そこ』まで受け入れるのはなかなか難しかろうて」
メイは膝の上で拳を固めた。
トトが誰かと仲良くなれば遅かれ早かれ通る道だった。
「けど、このさきもトトといっしょにいれば、いつかぜったい、そのときはきます。そのとき、おねーちゃんは……──」
「……そうじゃな。巫女王の小娘は何を思うだろうな。道化師はこころのない人形。それゆえに──」
「「──時代の折々に大虐殺を起こしていることを」」
トトは何も感じない。
ひとの生死に関わっても、何も……。
それは彼が道化師として忌み嫌われ、異端視される、最大最悪の理由。
☆☆
土砂降りの中、濃厚な血の臭気が立ちこめていた。
吐き気がしそうだった。
路地裏に折り重なって倒れている数十人の血が雨に滲み、悲鳴と呻き声がそこかしこから聞こえている。
そのすべてが同じ刃物傷を帯びていた。
さながら合戦場跡に降り立った残酷な死神の鎌。
ぽたり、ぽたり……。
死神のレイピアから血がゆっくりと滴り落ちている。
持ち主は背を向けて立っていた。
いつものようにちぐはぐな衣装で、爪先のカールした靴を履いて。
けれど、いつもと全然、違う後ろ姿で。
サフィアは目の前の光景が信じられずに、瞠目したまま立ち尽くした。
「……トト……? 貴方、どうして……」
返り血を浴びた青年は緩慢に振り向いた。
漆黒の瞳は無機質で、何の色も映さない。
否──トトはずっとこの瞳だ。
サフィアが忘れていただけで。
……彼が、道化ているだけの人形なのだと。
「……。『どうして』って?」
暗闇から赤く染まった手を差し伸べてくる。
血塗れの道化人形は、心の底から不思議そうにした。
「なんで泣くの? キミのために壊したのに」
そこで初めて、サフィアは自分の頬を伝っているのが雨ではないことに気付いた。
無惨に切り刻まれた栗色の髪をトトが掬った。
暴徒と化した男に切られ、散ってしまった髪だった。
その彼も地面に倒れ伏して動かない。
濡れそぼって壊れた人形のように。
「泣かないで」
そう言ったトトは、いつもどおり、無邪気に微笑んでいた。
頬を流れている雨滴も相まって、笑いながら泣いているように見えた。
でも、トトが泣いているはずがない。
こころのない道化人形──ひとを殺しても何も感じない。
「冗談じゃない! 魔物じゃないのよ?! 人間なの! こんな簡単に傷付けていいはずがない! こんな簡単に殺していいはずが……!」
「どこが違うの? キミを傷付けようとしたのに」
トトは不思議そうに首を傾げている。
「魔物を倒すのも、ひとを殺すのも、何が違うの?」
「何がって……おかしいよ! いらなくなった玩具を壊すんじゃないのよ?! なんで、こんな……簡単に……!」
「……?」
サフィアは足下の地面が崩れ去る感覚に襲われた。
アルマダールの民にサフィアの声が届かなかったのとは違う。
もっと根本的で根源的な壁が二人の間にあった。
トトは困ったように頬を掻いた。
「わかんないなぁ。このひとたち、キミを傷付けようとしたんだよ? 下手したら殺されちゃってたかもしれない。その前に壊しといて、何がいけないの? どうして魔物はよくて、人間はダメなの? ──ねぇ」
(──届かない)
頬に添えられた手をサフィアの涙が濡らした。
血塗れの指が優しく拭うたび、サフィアの真っ白な頬は汚れていく。
俯いたサフィアの頬を、次から次へと滴が零れていった。
「……なんでわかんないの。狂ってるよ。嫌! 触らないで!」
「……サフィア……?」
膝に力が入らなくなり、その場でくずおれた。
何かが取り返しのつかないほど間違っていて。
どこまで戻ればいいのか、よくわからない。
(私たちは、どこで間違えてしまったんだろう……?)
血の巡らない頭で、そんなことをぼんやりと考えた。
もう考えても仕方のないことだった。
「サフィア……あのね」
「──セレンザ様から離れろ、道化師」
ロッテ・ミルズとアルディクトが硬い顔でトトに刃を突きつけた。
旅の間のほがらかな空気など、どこにもない。
主の敵を排除する冷徹な執行者としてそこにいた。
「彼を拘束して里の者たちに引き渡す──いいですね、セレンザ様」
「……」
トトの凶刃から逃げ延びた者たちが応援を呼んで、一族の者たちが駆けつけて来た。
手に手に武器を持っている。
女たちは医療道具を持って、負傷者たちの応急処置に走った。
トトは抵抗せず、おとなしく拘束を受け入れた。
誰かがトトを「化け物」と呼んだ。「人殺し」と石や腐った果物を投げた。
昨日、歓迎してくれた若者たちの姿もその中にあった。
トトは何か言いたそうにサフィアを見た。
そのまま独り、鉄格子の中に護送されて行った。




