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魔物のいない、平和な世界を──
星は、けなげな聖女の願いを叶えた。
今から五百年も前のことである。
幾多の時代を超えて尚変わらぬ星明かり──
その最後の煌めきが薄れて、惰眠をむさぼる王都スカイアに今日もいつもと変わらぬ夜明けが訪れようとしていた。
群青色から暗紫色、橙色へと塗り替えられゆく空の下、王都を象徴する城の尖塔が一足早く朝の光を迎える。
もうじき城下に広がる家々の屋根も色彩を取り戻し、早起きなパン屋の煙突から煙が昇り、新聞配りが街を駆け回ることだろう。
だが、その暖かな曙光も路地裏までは届かない。
「もう逃げ場はないぜ。堪忍するんだな、お嬢ちゃん」
下卑た濁声で言った男が手入れの悪いナイフをちらつかせる。
三人の悪漢に取り囲まれた少女は背後の袋小路に目をやり、退路のないことに歯噛みした。
それでも毅然とした態度は揺るがず、むしろ横柄に腕を組んだ。
「あんたたち、私に指一本でも触ったら火傷するわよ」
虚勢に満ちた大胆な発言は悪漢たちの哄笑を誘った。
少女は握り拳の中の汗を密かに拭い取った。
──この一幕を黙って見下ろしている人物がいた。
逃げ場のない少女も笑い転げる悪漢たちも、屋根の上にいる人影には気付かない。
「ねぇ、トト。あのこじゃないですか?」
「本当だ。ありゃりゃ、大変だねぇ」
屋根の上の青年はちっとも大変じゃなさそうに頬杖を突いて、つま先が上向きにカールした突飛なデザインのブーツをぶらぶらと軒先にぶら下げている。
闊達な子どもの声が、呆れたような響きを帯びた。
「たすけなくていいんですかぁ?」
「んー……。興味ないなぁ」
「もう。いつもそうなんだから。でも、いいんですかぁ? ごしゅじんさまから、たのまれてるんでしょ?」
「別にー。ボクのご主人様じゃないし」
「そりゃあ、そうですけど……あっ」
屋根の上の二人が暢気な会話を繰り広げているうちに事態が急変した。
少女の更なる挑発にのった悪漢たちが彼女に飛びかかったのだ。
「……まぁ、しょうがないですよね。トトは『こころのないどーけにんぎょう』ですから」
諦め混じりのため息にも応じず、青年は眉一つ動かさずに状況を傍観していた。
少女の悲惨な末路を想像していた彼らの予想は、数秒後──見事に裏切られた。
「大人げないわね。忠告はしたわよ」
繰り出されたナイフを避けた少女は、襲いかかって来た悪漢の勢いをそのまま受け流し、足をかけてすっ転ばせた。
男は顔面から袋小路の壁に激突し、情けなく鼻血を出しながらずるずると崩れ落ちた。
「……っ! 嘘だろ」
「このアマ、よくもやったな!」
仲間を倒され激昂した悪漢たちもサバイバルナイフを取り出した。
今度は二人がかりで華奢な少女を押さえつけようとしたが、彼女にとっては素人一人も二人も同じである。
手前に来た男の手首を捻り上げ、男が痛みのあまり悲鳴をあげながらナイフを取り落とす。
その死角から別の男が繰り出してきた丸太のような腕を掴み取り、その勢いを利用してナイフを取り落とした男に向けて背負い投げをした。
少女の倍は体積のありそうな巨漢である。下敷きになった男の方もたまったものではない。
「ぐがっ!」
「ぐえぇ!」
と、謎の言葉を残して二人仲良く動かなくなった。
悪漢三人が気絶すると、少女は近寄って手近な男の頬をちょんちょんとつついてみた。
不明瞭な呟きは聞こえるものの、起き出す気配はない。
「びびび、びっくりしたぁー……いきなり襲って来るんだもん」
少女は内心、飛び出しそうになっていた心臓の鼓動を必死に宥め、フーデットケープの胸の辺りで拳を握りしめる。
護身術を実践で使ったのは初めての経験だった。
緊張と昂揚感のあまり顔が淡くピンク色に火照っている。
上等な仕立てのブラウスとプリーツスカートを整え、後にした袋小路をちらりと振り返った。
「もう邪魔しないでよね。私、今日中に王都を出るんだから」
路肩に投げ出していた鞄を拾い、寝ぼけ眼を擦りながら街中へと小走りに駆けて行った背後──
屋根の上で歓声があがったことを、立ち去った少女はもちろん、知る由もない。
「つよーい! ねぇ、みましたか、トト? 『ぐがっ』『ぐえっ』ズドーン! ひゃあっ、かっこいいですぅ!」
「ふぅん」
「あー、はいはい。きょうみないですねー。わかってますとも。へぃへぃ」
「……そうでもないよ」
「またまたぁ。わかってますよー。どうせみせかけなんだから」
そんな文句など気にする風もなく、青年は立ち上がって猫のように伸びをした。
遥かな山々の稜線から朝日が顔を出して背の高いシルエットを照らし出すと、カラフルな布地を継ぎ接ぎした衣装が露わになる。
「さぁ、いきますよ、トト。はやくしないと、みうしなっちゃいます」
「ふぁーい」
やる気のない返事をして、青年はひらりと屋根の上から飛び降りた。
ちりん、と鈴の音がした。
☆☆
悪漢たちに宣言した通り、少女──サフィアは王都の外に向かうべく、郊外へと向かう乗り合い馬車に乗った。
市場に出かけて来た行商人やこれから働きに出かける石工たちの中に混ざり、目立たないようにきゅっと膝を抱え込む。
燃えるように赤い葉をつける街路樹が整然と立ち並ぶ通りはやがて途絶え、ごつごつとした未舗装の砂利道に変わる。
馬車が不規則に揺れ、心地よいまどろみに落ちかけたサフィアの意識を浮かび上がらせた。
「……でね……」
「…………まさか……」
忍びやかなひそひそ声。
十人ほども押し込まれた狭い幌の中では、否応なく会話に耳をそばだててしまう。
「──出荷元の畑が魔物の被害に遭うたもんでなぁ。この辺のマダラ菜とタロタロ芋は全滅だと。やつら、人間様を見るとあからさまに敵意もって襲って来るかんなぁ。ほんと人死にが出なかっただけでも喜ばんといけんよ」
「そいつぁ大げさだよ。魔物なんてどうせ野生の熊や狼に余計な毛が生えたようなもんだろ?」
「いやいや、とんでもない! あんさん、王都の外に出たことないんかい? 最近、あっちこっちでそりゃあひどいことになってるよぉ。旅人が襲われたり子どもがさらわれたり、もう散々ってもんだ!」
「怖いねぇ……嫌な世の中だ」
神聖スカイアーク王国は、巫女王の治める麗しき王都スカイアと、巫女王に委任された地方領主たちの治める十八の領地を擁する。
伝説の聖女にして神聖スカイアーク建国の祖、初代巫女王──その 末裔であるセレンザ・スカイアークが現・巫女王として即位したのはたったの二年前のこと。
以前から王位継承権第一位の姫でありながら病弱なのか引きこもりなのか、公の場にはほとんど顔を見せない深窓の令嬢だと庶民の間ではまことしやかに囁かれている。
その巫女王の治める王都スカイアでさえ、魔物の恐怖が密かに浸透しつつあるのだった……。
その後も馬車は順調に小麦畑の中を進み、数時間後には街門を通るための列に並んだ。
痛くなったお尻をさすっていたサフィアはあることに気付いた。
「あのぅ、なんであの人たち、馬車を一個一個覗き込んでるんですか?」
「通行証のチェックだよ。ないと街門を通れないからね」
「え?」
青くなったサフィアを、乗り合わせた男が心配そうに覗き込む。
「なんだ、通行証を持ってないのか?」
「おいおい、魔物が蔓延ってるこのご時世に通行証も持たずに街門通ろうとするバカいないって。なくしたんじゃないの? それならお城で再発行を受けないと」
「ちょうどいい。ありゃあ城の近衛兵の制服じゃないか? おーい、そこの兵隊さん。こっち!」
(……全っ然、ちょうどよくない!)
白地のマントを着こなした近衛兵が馬車に近付いて来る間、サフィアはどうやってこの場を離れようか頭をフル回転させた。
フーデットケープをこれ以上ないほど引き下げ、隠れられる場所がないか必死に視線を泳がせる。
しかも、近衛兵は知っている顔だった。
腰まで伸びる黒髪を凛々しくまとめた女性の名前はロッテ・ミルズ。
華麗な槍捌きを前代の巫女王に認められて異例の抜擢を果たした若き精鋭である。
よりにもよって。
サフィアは泣きたくなった。
(ああもう、もうちょっとだったのに……。どうしよう……どうしよう!)
馬車が街門を通ってしまえば首尾良く逃げおおせると思ったのに。
見つかれば今度こそ捕まるに違いない。
素人の悪漢三人を倒すサフィアでも、さすがに近衛兵を倒せるとは思えない。
しかも、相手は稀代の槍使い──間合いを取られてしまえばサフィアの戦法は通用しない。
「──どうしましたか?」
ロッテがフードを目深に被った不審な少女に声をかけようとしたときだった。
「助けてくれ! 街門の外に魔物が!」
「なんですって?」
一瞬にして蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
列に待機していた人々は散り散りに逃げ惑い、魔物の対応に向かう近衛兵たちを阻む。
「くっ……! 落ち着いて行動してください。みなさん落ち着いて!」
(──今だ!)
ロッテの注意が逸れた一瞬の隙をついて、サフィアは幌の中から飛び出した。
「あっ、待ちなさい!」
「ロッテ、何してる! 早く魔物の討伐に向かわないと」
「……っ!」
ロッテは名残惜しそうに少女の逃げた先を目で追ったが、既に彼女の姿は人混みに紛れてしまった。
「まさか、ね」
と呟くと、ロッテは他の近衛兵たちとともに人波に逆らって走り出した。
☆☆
燃えるように赤い葉をつける街路樹が整然と立ち並ぶ広場のベンチに座り込み、サフィアは胸中から溢れ出た気持ちをぽつりと呟く。
フーデットケープをばさりと脱ぐと、ポニーテールに結い上げた栗色の柔らかな髪が艶やかに煌めいた。
淡くピンク色に染まった肌を上等な仕立てのブラウスとプリーツスカートで包んでいる。その上に羽織る無骨なマントと鎖帷子だけが旅仕様でくたびれていたが、可憐な少女の印象を覆すには至らない。
その少女はまるで老婆のようにがっくりとうなだれて傷心に染まった胸のうちを吐露していた。
「まさか王都から出ることもできないなんて……」
季節は巡り、足下では木枯らしが石畳の落ち葉を躍らせている。
忍び寄る冬の気配は静かに、しかし確実に道行く人々の装いを変えつつある。
サフィアもそっとケープの襟を引き寄せた。
頭を抱えて昼下がりの広場から見ると、あら不思議、威容を誇る白亜の城もまるで人形の家サイズ。実はクランベリージャムとビスケットでできているのだとうそぶかれたら信じてしまいそう。
視線を上げれば、囁く木の葉の向こうに染みひとつない穏やかな蒼穹。
ついまどろんだ意識の片隅、微かに鈴の音が聞こえた。
チリン、とひとつ。またひとつ。
(……? どこから……)
すぅっと思考が軽くなる。
魂が身体を抜け出して夢の世界に片足を踏み入れかけた──ところへ、額に鈍い衝撃がきた。
たまらず頭を抱えてうずくまった。
「ぁ痛……たた」
降ってきたのは赤くて丸い何か……いや、どう見ても林檎。
なんとなく視線を泳がせていると、なんと頭上から足がにょっきり生えてきた。
つま先が上向きにカールした突飛なデザインのブーツ。
履いている本人は楓の木の枝にぶらさがって弾みをつけると、体重を感じさせない身軽な仕草でサフィアの目の前に降り立った。
思わず惚けて見とれた。
半拍置いて我に返った。
「なななっ、何なの?」
「やあ、それボクの林檎。拾ってくれてありがとー」
「ありがとうじゃないわよ。おでこに思いっきり当たったんだから、まず謝ったらどうなの?」
「あれ、そうなの?」
おかしな青年だった。
まず男か女かがわからない。
柔和な顔立ちの男性のようにも見えるし、すらりと上背のある女性のようでもある。
声も中性的で、女声のようでもあるし男声のようにも聞こえる。
極めつけが服装で、いくつもの布地をつぎはぎしたちんちくりんな上下に、三方向に垂れた見たこともない帽子。
それが性別のわからない一番の原因でもあった。
不思議な青年が身じろぎするたびに小さく鈴が鳴った。どうやら帽子の先っぽにそれぞれ付いているらしい。
「変だなぁ。どうして林檎の落ちた先に君がいるんだい?」
「逆だってば。私が座ってるところに貴方が林檎を落っことしたんでしょう?」
「どうして君はこんなところに座ってたの?」
「え、えぇ? そりゃあ……ここが広場でベンチがあるからで……」
だんだんまともに説明しているのがバカらしくなってきた。
この青年、頭がおかしいのかもしれない。
それなら奇天烈すぎる服装にも説明がつく。
サフィアは投げやりに林檎を放って返した。
「……私、今忙しいんだから放っといて」
「ふぅん。でも、キミ、これが欲しいんじゃないの?」
「えっ? ちょっと見せて!」
青年が持っていた紙切れを奪うようにして矯めつ眇めつすると、確かに巫女王の御璽が入っている。
だが、肝心の署名に見覚えがなかった。
現巫女王セレンザ・スカイアークでもなければ先代でもないのが妙だった。
(でも、これで街門を通れるかも)
「ねぇ、あんたと一緒に行ってもいい? 私、王都から出られるんだったらなんでもするから」
「へ?」
青年の方が目を白黒させる番だった。
ちょっとおずおずという感じで念を押した。
「えっと……ボク、道化師なんだよ?」
「うん。そうなの……だから何?」
「みんなから嫌われる役どころっていうか、関わると災難に遭うとか遭わないとか……」
「別にかまわないわ。さぁ、そうと決まれば行きましょ」
「ちょっと待って。これ持ってっても街門は通れないったら。だってこれ発行日が百年も前になってるんだ」
「……は?」
……本当だった。
ボロボロのくたびれた紙だと思ったら。
「……なんでこんな……」
脱力しているサフィアの傍で、青年はまた服を何やらがさごそと探り始めた。
「……そうだ。お詫びにこれをあげるよ」
屈託なく笑った青年のポケットから銀の光が零れた。
サフィアが両手で受け取ると、それは小さな鍵。
今度こそ、サフィアは目を白黒させた。
「えっ! ちょっと待って。鍵?! ちょっと、受け取れないわよ。これ、どこの鍵よ?!」
「ふふふ。どこだと思う?」
青年が意味ありげに笑う。
ふと、この人はどこから来たのだろうと思った。
城下街で色々な服装を見たけれど、こうも現実離れしたファッションの人は他にいない。
それとも、普段着ではなくて何かの衣装なのだろうか。
たとえば、地方に巡業するような……。
お詫びにくれるということはサフィアにとっていいものなのだろう。
そして今、サフィアが入りたい場所といえば──……
「もしかして……これで街門を通れたりする?」
「いやぁ……だってこれ玩具箱の鍵だもん」
「……ああそう」
脱力のあまり地面にめり込むかと思った。そうならないように全精力を費やす勢いだ。
「……やっぱり骨董品じゃないのよ……」
まったく、気力の無駄遣いもいいところだった。
抜けるような秋晴れの空の下、時計塔で正午の鐘が鳴った。
純白の鳩が群をなして飛び去っていく。
「あぁもう。お腹すいてきた。玩具箱よりもお店を探すわ。これは記念にありがたくもらっといてあげる。じゃあね」
サフィアが立ち去った後──
ざわめき出した広場には青年が一人。いつまでもくすくす笑っていた。
「知らないの? ──大人の玩具は怖ぁいんだよ。……んん?」
青年の大きな襟飾りの中から、ひらりと何かが飛び立った。
無垢な白羽にびっしりと黒い模様の入った蝶──紙でできたそれが歩み去った少女の背中を追いかけて行き、音も立てずにぺたりと貼り付いた。
一部始終を見ていた青年は人知れず笑みを深くした。
「おーやおや……」