2.5-2
魔王の城の最上階で、魔王に剣を突きつけられた少女を見た瞬間、トトは怒りで視界が灼熱に焼かれる思いがした。
あと少し遅かったらと思うとぞっとした。
明け方、アメリアが自分を置いて魔王の城に発ったと知って、心が散り散りになるぐらい悲しかった。
死に物狂いで後を追った。
無謀だとわかってはいても。
トトは選ばれし勇者でもなければ、勇猛果敢な剣士でもない。
戦闘においてはいつも笑っちゃうぐらい頭数に入らない。
薬草についての知識は少しはあったから、パーティーの誰かが怪我をしたら傷薬を塗る程度。
……だから、誰もトトの秘密を知らない。
(待っていて、アメリア。君の願いは叶うから)
──魔物のいない平和な世界を……。
トトは一度だけ目を閉じた。
ここに来るまでに、もう、覚悟を決めた。
「おまえが死なないのは、そこに心臓がないからだろ? 自分だけは死なないで女の子いたぶって楽しいか? 魔王の名が聞いて呆れるな。この下種野郎」
「魔王の心臓が……左胸にない?」
アメリアが呆然と見る先で、デュヴァルオードは楽しそうに口元を緩めている。
新しい玩具の登場を面白がるように、余裕たっぷり。
「そうだ……と言ったところでどうする? ここに心臓がなかったところで、俺様を倒す手立てにはなりえんぞ?」
アメリアの顔がさっと強ばった。
その表情と──彼女自身を赤黒く染めてしまった返り血を見て、トトは悟った。
魔王に攻撃が効かなかったこと、傷がすぐに再生してしまったこと……。
──全部、一族の伝承どおり。
トトは無意識に唇を舐めた。
「それはどうかな? これ、何だと思う?」
掲げた左手の中に、夜明けの一瞬の煌めきを閉じこめた真紅の宝石がある。
血の色を煮詰めたかのように巨大なの輝きを秘めて、ドクドクと生々しく脈打っている。
訝しげに眉をひそめるアメリアとは対照的に、デュヴァルオードが初めて顔色を変えた。
「貴様……まさか、それは!!」
トトが得たり、と笑む。
「城中捜し回ってやっと見つけた。間に合うかどうかヒヤヒヤしたよ」
「なぜ心臓の在処を……! それを寄越せ」
「アメリアと交換だ」
「……」
デュヴァルオードは憎々しげに舌打ちを漏らした。
一歩一歩、慎重に、トトは魔王との距離を詰めていく。
元々は豪奢だったはずの、今はすっかり毛も抜け落ちて朽ち果てた絨毯の残骸を踏んで、まっすぐ魔王の元へ。
「私のことはいいから早くそれを壊して! ……くっ!」
「黙れ、小娘」
デュヴァルオードに突きつけられた剣が鈍色に光る。
トトは顔を歪めた。
「……ダメなんだ」
魔王の心臓に短剣を振りかぶる。
キィンと激しく澄んだ音がして、弾け飛んだのは短剣の方だった。
「ここに来るまで何度も壊そうとしたんだけど……ダメだった。ビクともしない。魔物の心臓は魔力の塊。鍛え抜かれて凝縮された魔力の結晶は鋼より硬い……」
「そんな……!」
倒しようがない、という言葉をアメリアが飲み込んだ。
口にしたら、絶望に打ちひしがれてしまいそうで。
「ふははははっ! 茶番だな。言ったはずだ。人間ごときので俺様を倒せると思うか! 思い上がるな!」
(──いや、ある。たったひとつ、方法が)
瞑目したトトの瞼の裏に、かつて見た祖母の姿がぼんやりと浮かんだ。
決して唱えてはいけない呪文を教わった。
一族が大切に伝えてきた秘技。
耳慣れぬ構音。
それを象る文字とも判読できぬ字面の数々……。
「……──、──」
アメリアだけが気付いた。
旅の中で着古したマントで口元を隠し、トトが何かを呟き始めたことに。
少女は声をあげず、訝しげにそっと眉をひそめる。
無理もない、とトトは思った。
アメリアにもこのことは教えていない。
できることなら、ずっと知らないままでいてほしかった。
左手の中で、呪句に反応した宝玉がどんどん熱く強く脈打っていく。
これから起きる事態を予期して、興奮で昂ぶるかのように。
トトは最後の一歩を踏み出すと、デュヴァルオードを見据えた。
「心臓は渡すよ。さあ、アメリアをこっちへ」
「……いいだろう。くれてやる」
アメリアが投げ出されるのと、宝玉が魔王の手に渡るのが同時だった。
トトが倒れてきた少女を慌てて抱き留め、デュヴァルオードが愉悦の表情で自分の元に戻った心臓を見つめて──次の瞬間、悪鬼のごとき形相に染まった。
「小僧、貴様……! まさか?!」
魔王の心臓に狡猾な蛇のごとく巻き付けられた呪符。
トトは精一杯の虚勢を笑みに変えた。
「古の魔法よ、今こそその効力を示せ──『解呪』!!」
魔王が紙の呪符を破り取る寸前、紅蓮の閃光が宝玉から放たれた。
そのままふわりと浮き上がり、トトの手元に戻ってくる。
美しすぎる赤い果実が、空中で、水飴のようにぐにゃりと歪んだ。
星の輝きを秘めながら、トトの左胸にゆっくりと溶け込んで──
突如、爆発的な魔力の衝撃波を生み出した。
「きゃあっ!」
アメリアのフードがはだけ、髪が暴風になぶられる。
トトは少女の華奢な身体が飛ばされないよう必死に抱き寄せた。
「何これどうなってるの? 君、いつの間に魔法なんて使えたの?! どこで覚えたの?!」
「そんなことよりしっかり捕まって。制御できないんだっ」
「ええ?!」
(……ぐっ!!)
トトの左胸に溶け込んだ魔王の心臓から、とてつもない魔力が放出されていた。
それが空気中の元素と融合し、放電されて巨大な雷の矢がそこかしこに降り注いだ。
制御を離れて暴走し始めた魔力の奔流に、さすがのデュヴァルオードも足止めを食らって近寄れずにいる。
元々が自分の魔力である。
はらわたが煮えくり返るような怒りに怒鳴った。
「俺様の心臓を返せ、ガキどもぉ!!」
「凄い! 凄いよ、トト! 今のうちに逃げよう! ……トト?!」
「ぐっ……ぅぅ!」
ようやく、アメリアも異変に気付いた。
トトの顔色は青白く、額には脂汗が光っている。
荒い呼吸を繰り返して、肩が大きく上下していた。
「ちょっと、どうしたの? 苦しいの?」
「……大丈夫」
強力すぎる秘技を発動した少年は、いつもどおりに微笑もうとして、失敗した。
想像を絶するぐらい馬鹿げた威力だった。
爆発的で暴力的な魔力が熱く全身を巡り、血管という血管が浮き出て紋様のようにトトの両腕を這い回っている。
圧倒的すぎる魔力の拒絶反応に身体がついていかない。
おそらくそう永くは保たない。
小さすぎる器に閉じこめられた魔力は遠からず決壊する──壊レル。
だが、もとよりそれも覚悟のうちだった。
ほんの数瞬だけ時が稼げればそれでいい。
(……僕に、勇気を)
──どうか。
怖気が足下から忍び寄ってくる。
これから起きることへの恐怖を懸命に押さえ込んだ。
「どうしたらいい? この雷の魔法を止めれば──」
「──アメリア」
そっと口づけをして少女の小さな唇を塞いだ。
少女は何をされたのかきょとんとして、次いで顔中を真っ赤にした。
何もかもが愛おしかった。
トトはアメリアに微笑み、唇だけで謝った。
『ご』
『め』
『ん』
『ね』
「……トト……?」
アメリアが不安そうに少年を見つめる。
トトはデュヴァルオードに向き直った。
魔王の心臓を飲み込んだ身体は決壊寸前の堤防みたいに魔力で溢れていて、非力な人間の器ではじきに限界がくる。
──その前に。
魔力の紋様の這う両手で短剣を構えた。
この愚かしい喜劇にピリオドを打つために。
「いくらおまえの心臓が硬い魔力の塊でも……肉体が脆ければ砕けるだろ?!」
非力だった少年は、渾身の力を籠めて短剣を振り下ろした。
自分の胸元──魔王の心臓が溶け込んだ場所へ。
アメリアの悲痛すぎる叫び声がすべての音を掻き消した。
☆☆
ただ別れの予感だけが吹き荒れた。
魔王に敵わないからでも、トトと二人で殺されるからでもない。
何かとんでもなく間違っているのに気付いていないのではないか──そんな焦燥に駆られたのだ。
自分が見ていない未来にトトだけが見据えて、覚悟を決めているような。独りで遠くにいってしまうような……そんなおぞましい未来。
そして、その予感は現実となった。
トト自身の胸に振りかぶられる短剣の動きが、まるで水の中にいるかのようなスローモーションで、視えた。
その切っ先が振り下ろされれば、間違いなく致命傷になることも。
(──嫌だ……)
いつも一緒だった。
一緒にいることが当たり前になっていた。
トトのいない世界なんて知らない。
「嫌だ……トト!」
守りたいもののために、戦ってきた。
守りたかったのは、君の大好きな世界。
君がいたから戦ってこれた。
君がいない世界に……意味なんかない。
どこまでいっても、アメリアは勇者になんか、なれなかった。
勲章も名声もいらない。
魔王よりも、世界よりも、アメリアはこの瞬間──
ただ一人の少女であることを願ってしまった。
「やめてぇぇ!」
少年と世界を天秤にかけてしまった──罪。
脆いひとの器ごと魔王の息の根を止めるはずだった短剣が、アメリアの剣に弾き飛ばされた。




