2-5
「……」
目が覚めても、トトは自分がどこにいるのかわからなかった。
洗いたてのシーツから香る洗剤の匂い。
それと、消毒液の匂いも。
風に揺れるカーテンの間から傾きかけた日差しが柔らかく差し込んでいる。
こんな城の奥に日が射すのか……と思ってはたと気付いた。
自分はここを知っている。
多分、城の奥にある礼拝堂の裏手。
一般には開放されることのない大賢者の奧棟──
そこまで考えて、トトはさっと青ざめた。
えらいところに運び込まれた。
一番借りを作りたくない相手。
慌てて身体を起こそうとするが、左胸を貫く痛みに喘いでベッドに引き戻される。
「トト?!」
誰かが呼んでいる。
一瞬、誰だっけと考えた。
粗末なフーデッドケープを脱ぎ捨てた少女は眩いばかりに上等な絹のドレスに身を包んでいたので。
「……サフィア」
ああ。思い出した。
自分はこの少女を庇って魔物に左胸を貫かれたのだった。
刺されたはずの傷に恐る恐る手を触れる。
出血はとうの昔に止まって、もう傷が塞がりかけていた。
我ながら呆れるほどの丈夫さ。
──たとえそれが呪いのせいだとしても。
「……ねぇ、なんで泣いてるの」
「……だって。トトが死んじゃうかと思った」
「死ななかったのに、なんで泣くのかわからないよ」
「……」
少女の涙は止まらない。
そんなに泣いたら体中の水分が全部なくなっちゃうんじゃないか。
トトは痛みに眉をひそめながら、手を伸ばして涙を拭ってやった。
拭っても拭っても落ちてくる。まいった。
「……ここ、お城だね」
「うん」
「帰ったんだね。っていうか、連れ戻されたのかな? 家出なんかして怒られたでしょ」
「……うん。すっごく」
心配性の女近衛兵のお小言を思い出したのか、サフィアはようやく口元を緩めた。
この少女はこうなのだ。
泣きながら怒ったり笑ったりする。
トトには不思議でしょうがない。
サフィアは少し視線を泳がせて、正面からトトに向き直った。
変わったのは服装だけではない。
二人の間を隔てていた秘密は緩やかに溶け出してしまっていた。
春を迎えて雪解け水がそっと流れ出すかのような心地よさで。
やっと涙が止まった。
サフィアは静かに切り出した。
「──私が巫女王だって知ってた?」
うん、とトトは答えた。
「だから、ついてきたの?」
「……最初はね」
「だから、身を挺して助けたの? 私が巫女王で、国のために必要だから?」
「それは違う」
トトは言った。強い口調だった。
無意識にドレスの胸元を押さえていたサフィアは、我知らず緊張していたことに気付いた。
嫌われたくない──それは一人で悪魔の森に向かったときにはなかったはずの想い。
あの夜から何かがすっかり変わってしまった。
トトは怪我のせいか少し苦しそうに息をついた。
「巫女王とか国とか関係ない。キミだから助けたんだ」
それきり沈黙が二人の間に落ちた。
どちらからともなく、ベッドの枕元に花が生けられているのをなんとなく眺めた。
誰が持って来たのだろうとトトは思う。
大賢者は自分の住処に花なんか生けない。
聖剣ステラの祭壇に供えることはあっても。
……その聖剣ステラも、今はない。
消えてしまった。
二年前、魔界の封印とともに。
今はどこにあるのか。
若くして巫女王になってしまった少女は、消えた聖剣ステラを捜しに行こうとしたのだ。
母の遺した国を守れない己の無力さを嘆きながら……。
「でも、トトが死んじゃうかと思った」
「死ねないんだ。絶対に。昔、黒い龍に心臓を食べられちゃったから」
「うん」
「知ってたの?」
「大賢者様から聞いた」
「……そっか」
サフィアには、トトが無表情の下にどんな感情を抱えているのかわからない。
何も感じていないのかもしれない。
それでも、何も考えていないわけじゃない。
彼はただ道化ているだけの人形なんかじゃない。
ちゃんと自分の考えがあって、時には他人のために愚かなこともする。
それはとても人間らしく見えた。
「──ひとつお話をしようか。黒い龍に心臓を食べられて、死にたくても死ねなくなったバカな男のおとぎ話」
そして、トトは静かに語り出した。
今はもう誰も知ることのない五百年前の物語を──




