06罠
苦情処理が終わった。上司ともどもクレーム客の自宅に呼び出されて何が起こるのかと戦々恐々として菓子折りを持っていったら、相手はもう怒っていなかった。
それどころか家に上がって世間話をしてお茶まで飲んできた。電話の様子ではどうなることかと思ったが、実際会ってみると怒りはとけていた。苦情処理をしていると時折こういうことがある。
帰路、コンビニでビールとつまみを買った。土曜日は仕事で潰れてしまったが、まだもう一日休みがある。
夕暮れ時、住まいである賃貸マンションにつくとほっとした。エントランスに入り、郵便受けを開ける。
べったりとした感触。饐えた臭いのするものがドサリと足元に落ちた。生ごみが詰め込まれていのだ。
その日から、嫌がらせが始まった。ゴミが入っていたり、「殺す」と書き連ねた脅迫文が入っていたりした。そして、夜道を歩いていると誰かにつけられることもしばしばだ。
しかし、私には相談する友もいないし、こんなことで家族に心配をかけたくない。好かれていないとしても、ここまで恨まれる覚えはなかった。
じきに止むだろう。それが私の出した答えだった。
毎日、嫌なことから逃げるようにゲームにのめり込んだ。
お気に入りの王子ルート。本来ならば、婚約者である悪役令嬢がやる予定だった公式行事を王子とヒロインがこなし、愛を深めあっていく。いよいよ悪役令嬢断罪ひと月前になった。そこで劇的な事件が起こる。それによって悪役令嬢は退場を余儀なくされ、二人は結ばれることとなる。クライマックスだ。慎重にいかなければ、そこを失敗してしまうとヒロインはバッドエンドを迎えることとなる。
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翌朝、食堂で兄のシャルルを捕まえた。父はもう王宮に出仕した後だった。
「ねえ、お兄様。ベネット家ってどういう家なのですか?」
「それは、メリベル嬢が気になっているってことかい」
「今はそれほど彼女のことは気になりませんわ。それよりもメリベル様は伯爵家であるにも関わらず王妃陛下が懇意にしていらっしゃるので、何かあるのかなと」
シャルルはしばし黙考した。フェリシエルはつい最近まで、メリベルに嫉妬して怒っていたが、今はそれもおさまっている。一時は本気で心配したのものだが、今思うと年頃の女性にある不安定さがそうさせたのかもしれない。今はすっかり落ち着きを見せている。
シャルルはメリベルを魅力的とは思わないが、周りには意外に彼女に熱を上げている者も多い。確かにメリベルにはフェリシエルにはないものがある。例えば可愛げとか……。しかし、メリベルの愛らしさにシャルルはどことなくうさん臭さを感じてしまう。
「あの家は、あまり良い噂を聞かない。裏社会とつながりが深い。それにお抱えの呪い師がいるという話も聞いている」
「呪い師ですか?」
「ああ、あくまでも噂だ。それを使って敵対勢力を呪っているというのだ。それに財力はかなりある。うちに匹敵するかもしれない。悪辣な商売をやるバクスター商会とつながっている。ベネット家が出資しているようだ。どれも証拠がつかめなくて推測と噂の域を出ないがな」
フェリシエルはそう言われてもよくわからなかった。そいう事情には疎い。それにしても兄はきちんとベネット家の情報は収集しているようだ。やはり、ファンネル家の対抗勢力なのだろうか。
「それは、たいへんなお金持ちというわけですか」
シャルルは渋い顔をした。
「そうだ。王家に一目置かれるくらい。だからと言ってお前の殿下との婚約が揺るぐことはないから、安心しろ」
そうは言われてもあと数か月後にはあっさり破棄されてしまう。原因はどこにあるのだろうかとフェリシエルは考えた。
「安心しろとは何か根拠や保証があるのですか?」
「フェリシエル、お前、そういうところ、気をつけろよ」
「はい?」
「可愛げがない。まあ、私にはいいが、殿下には口の利き方に気をつけろよ。プライドの高いお方だ」
確かに王子はそういう人だ。もう失敗している。
「以後気を付けます。まとめると、私が殿下にとても嫌われない限り、婚約解消はないという事ですね」
シャルルは苦笑した。
「そういう事だ。せいぜい気を付けてくれ。ただ殿下は一時の情に流されることはないお方だ。例えお前が気に入らなくとも婚約が解消になるとは思えない。
それと王妃にはお前と殿下との婚約を覆すほどの力はないよ。茶会をメリベル嬢と一緒に邪魔をするからといって気に病むことはない。
それよりどうしてこんな話をするんだ。殿下と何かあったのか、それともメリベル嬢か?」
シャルルは王妃もメリベルもあまり好きではないようだ。それは話をしているフェリシエルにも伝わった。
「いいえ、何も。もう、嫉妬心などありませんから。ただ、メリベル様はどんなお家で育った方かと疑問に思っただけなのです」
わざわざ兄に王子に嫌いだと言われたことを伝える必要はないと判断した。
そのとき食堂のドアがバタンと音を立てて開いた。
いつもは冷静な執事のテイラーが、少し慌てて食堂に入ってきた。珍しいこともあるものだとみていると、シャルルに耳打ちをする。すると兄の表情が徐々に険しくなっていった。フェリシエルにゆっくり食事をするようにと言いおいて、慌しい様子で食堂から出ていった。来客だろうか?あのような兄の姿を見たのは初めてだ。
フェリシエルは嫌な予感がした。朝食を早々に済ませて食堂をでた。何が起こっているのか確かめておこうと客間へ向かう。すると玄関ホールの方が何やら騒がしい。慌てて覗いてみると、王子の護衛騎士と近衛兵が数人きていた。
「無礼だぞ。これではまるで罪人のような扱いではないか。フェリシエルは渡さない。きちんと父を通したうえでの申し出ならば話を聞こう。それも王宮ではなくこの家の中でだ」
断罪にしては早すぎる。いったいなにが起こったというのか。このまま兄に任せてもいいが、分が悪そうだ。相手は王命できているのだろう。
跡取りである兄が不敬罪になったらファンネル家の一大事だ、フェリシエルは腹を括った。下手を打てば家族そろって断罪だ。
「私に何か御用でしょうか?」
フェリシエルは進み出た。
兄は必死に止めたがフェリシエルは護衛騎士と馬車にのりこんだ。
さすがに縄を打たれることもなく。扱いも丁寧だが、馬車の中では両側を騎士に挟まれるというのは罪人のような扱いだった。どこの貴族令嬢が馬車から逃げおおせるというのだろう。
フェリシエルが王宮へ行くのは賭けだった。冤罪の罠かもしれないのだ。しかし、断罪はこんなに早くなかったはずだ。いったい何があるというのだろう。
王宮に付くとハイネス卿の執務室に連れていかれた。卿は貴族専門の取り調べ官だ。さすがに公爵家令嬢を取調べ室に連れていくわけには行かなかったらしい。続き部屋の応接室に通された。
きちんと挨拶を済ませると、着席を促された。じつに座り心地の良い椅子だ。しかし、目の前には喉を潤す紅茶すらない。
ハイネス卿とむかい合った。薄いブルーの瞳に酷薄そうな薄い唇。いったい、なんの咎を問われるのか?今のところフェリシエルには身に覚えがない。
「昨日リュカ殿下と二人きりで茶会をしましたね」
「はい」
それがどうしたというのだろうか。
「なぜいつもの庭園ではなく。あのような奥まった部屋へ?しかも未婚の男女が、人払いまでしたそうではありませんか?」
「すべては殿下がお決めになった事です」
こんなくだらない質問をするために呼んだのかと、カッとなったが抑えた。対峙した二人の間にしばらく沈黙が落ちる。どうやらフェリシエルが不安になって話し出すのを待っているようだ。いったいこれは何取り調べなのだろうと思ったとき、ハイネス卿が口を開いた。
「殿下が毒を盛られてね」
「え?」
死んだの?
フェリシエルはガタンと椅子から立ち上がった。
「それで、殿下は?」
そう問うとハイネス卿は重々しく口を開いた。
「……一命は取り留めました」
「容態はどうなのです?」
フェリシエルが畳みかける。
「それがあまりよくはなくて……」
と言葉を濁す。
「それで昨日は殿下と二人きりで茶を飲み菓子を食べたのですよね。誰もいない。二人きりの部屋で」
どうやらフェリシエルは毒を盛った犯人にされるらしい。
こんなシナリオあったのだろうか?前世の記憶といっても途切れ途切れですべてを思い出せるわけではない。ここはゲームと似て非なる現実世界。
私は誰に嵌められたのだろう……。