60 フェリシエルの秘密
ミカエラが柔らかく微笑む。
「二番目の王妃殿下がまだ側室だった頃、不興を買い手打ちにされるところでした。そこを、まだ幼かった殿下に助けられました。それからは市井の呪い師として、姿を変えて生き延びて参りました」
王子は自分の幼い頃の家庭教師を紹介したくて、フェリシエルをここに連れて来たのだ。しかも彼女は稀代の呪術師だという。さっきの話は本当に王子が思い出した前世ではないのだろうか?
フェリシエルはキツネにつままれたような気分になった。
「さて、フェリシエル様。お約束の期日がきました。私があなた様からのご依頼で奪ったものを返して欲しいですか?」
薬草茶を淹れなおし、席に着くと老婆が開口一番に言った。いきなり何を言い出すのだろうとフェリシエルは驚いた。
「何のことでしょう?」
ミカエラと会うのは今日が初めてだ。
「フェリシエル、やはりミカエラの元へ行っていたのだな」
王子にじろりとにらまれる。
「いえ、まさか行っていません」
「呪いのせいで、お忘れになっているのでしょう」
老婆が穏やかに言う。フェリシエルが顔色を変えた。
「まさか、私は誰かを呪ったのですか? そしてそれを忘れていると?」
ミカエラが首をふる。
「あなた様は、とても美しい御心をお持ちです。誰かを呪うなどとんでもない」
「まあ、心が綺麗かどうかは別にして、フェリシエルは気に入らない者がいれば、感情のままにぶつかっていくタイプだろう。呪いをかけるなどありえないな」
王子がしれっとフェリシエルを下げる。
「失礼ながら、殿下、私はお妃教育を受けている身です。そんな短絡的な人間ではございません」
心外とばかりに文句を言う。
「何を怒っている? 褒めているのだ」
とぼけた顔で王子が応酬する。挑発には乗らないことにして、ミカエラの方を向く。
「忘れているのならば、とても気になります。私は何をしにミカエラ様のところへ行ったのでしょう?」
「フェリシエル様は、こうおっしゃいました。殿下が欲しいというのならば、その時は返してくれないかと」
まるで謎かけのようだ。
「食べ物ではないのですよね? それは何かのなぞなぞですか?」
フェリシエルが不思議そうな顔でミカエラを見ると、彼女がフェリシエルの耳元である言葉を囁く。その瞬間記憶が戻り、フェリシエルの顔が真っ赤になる。
「いやだ。私、そんなものを」
しかし、それで合点がいった。なるほど、そういう事だったのか。
「おい、私だけ仲間外れか? 一体何なのだ?」
王子が焦れて文句を言う。
「ミカエラ様、どうか殿下にはご内密に」
「フェリシエル、それはないだろう」
するとミカエラが援護する。
「依頼人の秘密は守ります。呪い師とはそういうものです」
ミカエラとフェリシエルは微笑み合う。
「私も長く生きておりますが、あんな依頼を受けたのは初めてですよ」
楽しそうにミカエラが笑った。
♢
三日後の晩いつものように、でんちゃんが秘密の通路を通ってやってきた。ハムスターの頭には迷路のような地下道の地図が入っているようだ。
「殿下、私もいつかお城の抜け道を全部教えてもらえるのですか?」
「なんなら今日でも良いぞ」
でんちゃんは上機嫌だ。この間、別れたときはミカエラと意気投合しているフェリシエルを苦々しい顔で見ていたのに。あのあと彼は子供のように不貞腐れた。
「でんちゃん、ご機嫌ですね」
「ふむ、月を見ていると、気持ちが高揚するのだ。それでフェリシエル、相談なのだが……」
「なんです」
「この間の話だ。いくら考えてもお前が、ミカエラに何を奪わせたのか分からない。預けたというのだから宝物なのだろう? 教えてくれないか?」
珍しくフェリシエルに教えを乞うている。王子ではなく、窓辺にちょこんと座る可愛らしいでんちゃんになら、素直に話せるかもしれない。
「そうですね。その前にひとつ教えてください。愚かな王子のおとぎ話ですが、なぜその王子はハムスターになって牢を逃げ出さなかったのですかね? そうすれば、処刑されずに済んだのに」
ハムスターはこしこしと顔を洗い、次に後ろ足で耳を掻く。
「ふん、その愚か者が神獣の姿になれたかどうかは知らんが、ハムスターを可愛がってくれる女の子はもうこの世にはいないのだから、獣化しても仕方がないと思ったのではないかな」
それが、本当なら、悲しい悲しいおとぎ話だ。
「愛です」
ポツリと零れた。
「は?」
「ミカエラ様に、愛を奪ってもらいました。そして殿下がそれを必要としてくれるならば、結婚前に返してくださいと」
「……」
でんちゃんの動きが、ぴたりと止まる。
「私は、あの頃、メリベル様にひどく嫉妬していました。それはとてもとても醜くて……。もちろん、殿下は聡明な方ですから、浮気など軽はずみなことはしないと頭ではわかっていました。それなのに気持ちは騒めいておさまらない。だから、私から愛を奪ってくれとお願いしました」
夜風が部屋に吹き込みでんちゃんの長い毛足を撫でる。
「なるほど……それで、お前の心が急に私の元から離れていってしまったのだな。済まないことをした。私は、お前にそんな辛い思いを」
「いえ、殿下は悪くありません。きちんとメリベル様との間に一線を引いていらっしゃいました。王妃殿下やその周辺の方々の顔を立てる程度の付き合いだと理解していました」
「しかし」
「これは私の心の問題です。ミカエラ様によると愛を失った私の心は洞のようになり、そこへ、転生前の記憶が流れこんだのではということです」
フェリシエルはなるべく感情を交えないように機械的に説明する。そうしないと流されてしまいそうだった。
「ということは、あの後ミカエラと二人で会ったのだな。それで……その奪ってもらった物は返してもらったのか?」
「いいえ」
「なぜだ?」
「いりませんから」
「フェリシエル……私は浮気などしない。側室も持たない。お前を唯一の妻とする。生涯をかけて愛すると誓う」
ゆらりとハムスターの姿が揺らぐ。人化しかけているのだ。彼の不安が伝わってくる。フェリシエルは静かな声で語りかけた。
「あの、一回しか言いませんから、聞いてください。でも、今、人化したら一生言いません」
「わかった」
一つ頷いたハムスターが、フェリシエルを見上げる。かわいいかわいい、そして何よりも大切なハムスター。
「私の心に愛が溢れているからです。もうこれ以上詰め込めないくらいに。だから、古い愛が入る隙間などないのです」
ゆらりと風が揺れ、陽炎のように神獣の姿が揺らぐ。そこには誰よりも頼りになるフェリシエルの王子様が立っていた。
彼は跪き、フェリシエルの手に口付ける。そして、永遠の愛を誓った。