15月のない夜に
仕事が終わった。明日は休日出勤せずに済みそうだ。酒のつまみにデパ地下で豆腐のサラダと寿司を買った。たまの贅沢だ。最近、疲れがひどく、食欲が落ちている。
エスカレータに乗りいつもの駅のプラットホームへでる。混んでいて不快だが、家に帰れると思うとほっとした。一つ気掛かりがあるとすれば、ポストへの嫌がらせだ。
生ごみはひと月に一回くらいの割合で、あとは死ねと書いた手紙が投かんされている。無言電話も続き、固定電話を解約した。もともとスマホがあるのだし必要ない。そのスマホも番号を変えた。
何もないことを期待しつつ電車を待つ。警笛とともに電車が入ってきた。いつもの見慣れた駅の光景だ。その時後ろから強く突き飛ばされた。それからは、まるでスローモーションのようだった。ホームから線路の上に体が舞う。列車のライトが眩しい。
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フェリシエルは悲鳴を上げた。
「お嬢様!」
メイドのセシルが部屋へ飛び込んできた。窓には分厚いカーテンが引かれていて今何時かわからない。
「大丈夫よ。セシル、ちょっと夢見が悪かったの」
しかし、それでは済まず、まだ仕事をしていた父も兄もきた。彼女はそれなりに愛されているのだ。フェリシエルは、ちょっと怖い夢を見たと説明し、彼らに早々に引き上げてもらった。しかし、兄のシャルルだけは「婚約が重荷か?」と気遣いを見せた。
彼女は前世で何者かの悪意により殺されたようだ。砂が零れるように夢の記憶がさらさらと消えてゆく。あとには生々しい恐怖だけが残る。
最近、さぼりがちだったお妃教育がまた本格的に始まる。帰りの早かった兄とポツリポツリ言葉を交わしながら、フェリシエルは憂鬱な思いで夕食を食べていた。すると執事長のテイラーがやってきた。
「お嬢様、リュカ殿下より、贈り物でございます」
あの籠に宝石を入れて返してきたのかもしれない。いや、違う。多分、あれは彼女を貶めるために言っただけで、王子はそんな無駄遣いはしない。フェリシエルは興味を失い「私の部屋へ」と言って食事を再開した。
「おい、礼状はすぐにしたためろよ」
兄が口うるさい。フェリシエルは生返事をして部屋へ戻った。
「え?ナニコレ」
包みは大きくフェリシエルの腰までの高さがあった。添えられていたメッセージを見ると「いついかなるときも、愛するフェリシエルとともに 君の部屋の床に置いてね」と書いてあった。
「なんじゃこりゃ!」
「お嬢様、お言葉遣いが……」
フェリシエルがメッセージにツッコミを入れていると、遠慮なく侍女のヘレンにたしなめられた。その間に包みは使用人によって手早くかつ丁寧にとかれた。中から現れたのは、大きな砂時計だった。
「いらないから、これ、この部屋にいらないからーー!」
フェリシエルは絶叫した。あまりのショックに王子に対する意趣返しは、しばらくお休みにするとにした。
ここまでやるか? ふつう……。
その晩フェリシエルはなかなか寝付かれなかった。王子の嫌がらせが悔しかったのではなく。昨晩見た夢が原因だ。結局殺される運命なのだろうかと珍しく弱気になる。
すると窓の外でこつんと何かがぶつかる音がした。最初は風かと思ったが、音はしつこく鳴っていた。大きな音ではないが、規則的に何度もこつんこつん何か窓ガラスに打ちつける音が響く。妙に耳障りでイラつく。
ここは公爵家の館。警備は厳重だ。侵入者であるわけがない。そうは思いつつも、少し怖かった。しかし、こんな夜中に人を呼ぶこともないだろうと思い。フェリシエルは窓辺に近寄り、カーテンを開けた。するとそこに人ならざる者の影が……。
「ネズミ?」
「ネズミではないと言っているではないか!」
「ひっ! 殿下」
そこにはサテンシルバーのとてつもなく可愛いハムスターがいた。手にはドングリを持っている。どうやら、それで窓をこつんこつんとしつこく叩いていたようだ。フェリシエルはその愛らしい姿を想像して身もだえした。
「なんて、可愛らしぃ」
「そういうのいらないから。さっさと部屋へ入れろ」
慌てて窓を開けた。
(そういえば何しに来たの?)
フェリシエルはとりあえず疑問を頭の隅においやり、思うぞんぶんなでなでして頬ずりをした。ハムスターは諦めているのか、しばらく彼女の手の中で大人しくしていた。もふもふで温かくて柔らかい。とくとくと心臓の音が伝わってくるようだ。
「そうだわ。殿下、お茶を用意いたしましょう」
「いや、この姿だ。それはいい。そんな事より、その砂時計をひっくり返せ」
そう言われてフェリシエルは部屋の片隅に置かれた大きな砂時計を思い出した。この部屋のオブジェとしてはどうかと思う。仕方がないので言われた通りひっくり返しにいく。地味に重い。
「あの、殿下この砂時計って?」
「砂が落ちるまで7時間だ。私はその間ここに滞在する」
「ハムス……神獣のお姿のままならば、大歓迎です」
「つくづく不敬なやつだな」
「そういえば、王宮抜け出してきちゃったんですよね。何かあったのですか」
重い砂時計をひっくり返し終えたフェリシエルは部屋にあるティーテーブルに座る。相変わらずモフモフしていて可愛い。今度ハムスター用のブラシを特注しようと心に決めた。膝に彼を乗せようとしたが、今度は逃げられた。テーブルのはしにちょこんと座る。
「何かあるも何も命を狙われるなど日常茶飯事だからな。この姿だと何かと不便だから、抜けてきた。まったくメイドのやつめネズミと見ると容赦な……そんなことはどうでもよい。お前はもう休め」
フェリシエルは必死で笑いをかみ殺した。どうやらメイドに見つかって追い出されたらしい。しかも自分でネズミと言っている。
「殿下はどうするのですか?」
「適当に寝る」
そういうとぴょんとソファーに飛び移り丸まった。柔らかそうな、まあるぃマシュマロ。フェリシエルは撫でたくてたまらない気持ちを抑えるのにひと苦労した。
「そういえば、なぜ7時間なのですか?」
「時折あるのだ。7時間ほど人になれないことが」
「それは……大変ですね。公務の時はどうしているのです」
「一応日程は調整している」
「それで殿下のその神獣のお姿を知っているのは私と側近の方ですか?」
「いや、父は知っている。しかし、実際にこの姿を目にしているのは亡き母とお前だけだ。生涯の伴侶にしか見せぬと言ったではないか、もう忘れたのか」
ハムスターが呆れたように肩をすくめた。器用すぎる。ちょっと腹立たしいが、可愛いので許す。この際メイドに姿を見られているではないかというツッコミはなしにした。使用人達には、王子とネズミが紐づいていないのだろう。
「よく今までバレませんでしたね」
「当たり前だ。そんなへまはしない」
「なるほど……」
訳知り顔でフェリシエルは頷くと窓辺に行って月の無い夜空を見上げた。それを見たハムスターが舌打ちする。
「朔の晩にそれが起こるのですね」
あっさり見破られた。フェリシエルは日頃単純で騙しやすいわりに、ときおり頭の回転の速さを見せる。
勉強は出来るのに対人関係においては隙があり、普段は間抜けに見えるタイプなのだ。
本人はそれに気づいていない。次の行動が読みやすい彼女は一緒にいて安心できる。
「しかし、殿下がソファーで、私がベッドというわけにもいきませんわね」
「なら、床で寝ろ」
「はあ? 私、これでも公爵令嬢ですのよ。その私にそのような真似をしろと?」
怒ったフェリシエルは瞳をきらめかせ、きゃんきゃんと文句を言う。鑑賞には値するが……。
「うるさいなあ。明日は早いから、もう寝かせろ。お前もさっさと寝ろ」
フェリシエルは、ソファーにうずくまるハムスターをひょいととり上げると、壊れ物のように丁寧に両手の中におさめた。
「寝ろと言ったはずだが」
王子が押し殺した声で言う。
「はい、今すぐ寝ますよ」
フェリシエルは王子をベッドまで運んだ。
「お前はどこで寝るのだ?」
「もちろんベッドです」
そういうとフェリシエルは燭台の灯りを落とし、彼の横に滑り込んだ。
「こらっ! 結婚前の男女が同衾しては駄目だろう。お前には乙女のはじらいというものはないのか」
「いや、だって、今ハムスターじゃないですか」
「何度言ったらわかるのだ! 私は神獣だ!」
「はいはい、明日は早いのでしょう? 殿下、おやすみなさいませ」
言うが早いかフェリシエルはすぐそばで寝息を立て始めた。眠りについた彼女は日頃の生意気さが嘘のようにあどけなく清らかだ。仕方がないので、王族ハムスターは寝入った彼女の腕の中から、もぞもぞと抜け出し、ソファーへ移って丸まった。
前は二歳上の自分に向かって、もっと勉強しろだの他の女性といちゃいちゃするななど口うるさい彼女を鬱陶しく思っていた。しかし、こう何度も愛想よく笑顔で近づいてくる相手に命を狙われると、良くも悪くも自分に正直なフェリシエルといる方が安らぐ。
もし彼女が自分を害そうとすれば、すぐにわかる。突然の心変わりはあったものの、今のところ彼女に殺される心配はなさそうだった。