贋者
正直、すごく美味しいと思った。
食べさせられたのだ、人間を。誰にと問われれば、それは僕の中の存在に。
あくまで僕自身の意思ではない。それは断言できる。僕の中の存在が、僕を唆したのだ。
人間になりたくば、そうしろと。
僕は、欠点を持って生まれてきた。欠点というのは、形を持たなかったのだ。輪郭こそ欠如していたが、僕はたしかにそこにおり、特に目的もなく漂っていた。
僕の中の存在が、僕の中に侵入したのは、ずいぶん前の事だ。正確な時期は覚えていない。とにかく、形を持たないが故に不死であった僕ですら、振り返ろうとすれば、気の遠くなるほどの過去の出来事なのだ。僕が、自我とは異なる思考に、意識を占領されたのは。
僕の中の存在が、僕を唆したのは、ごく最近の事。最近というのは、日単位の話ではない。
つい、先刻のこと。
僕の中の存在は、僕の中に入ってからというもの、暇なのかしょっちゅう僕に語りかけてくるのだ。刺激が欲しいものなら、僕の中からさっさと出ていけばいいものを、僕がそう諭しても、頑なに僕の意識に棲みつくことを辞さないのだ。
先刻も、いつものように、やたら気に障る軽々しい声音で、僕にこう話しかけてきた。
──貴様にも、憧れはあったのだな。貴様の意識を我が家にしてから、随分と経ったが、ようやく貴様のことが分かってきた気がする。所詮は顔を持たない相手の、顔のほんの一部だが。吾も、憑代が無ければ、一点には留まっていられない身だ。己の憑代が、その創造者の手で壊されてからというもの、依る宛ても無く彷徨う中で、貴様を見つけ、意識に邪魔したはいいが、まさか貴様も、吾と同じ憧れを持っていたとはな。
そう言って、僕の中の存在は、あるものへと僕の注意を向けた。
丁度、僕の真下を歩く、一人の少女。
岩肌が目立つ環境。この辺りでは唯一の川で、水汲みに汗を流しているのだろう、と僕の中の存在は、少女が小さな両手で水入りの桶を抱えている様相から推測した。
そして、こう言い出したのだ。
──あの子を、食べてみろ。さすれば、貴様は形を得られる。そっくりあのままの姿形をな。やり方など、考えなくていい。とにかく、食べたいと、そう思え。
次の瞬間には、丸い目をした少女が眼前にいた。
形が無いはずの僕を、彼女は捉えていたのだ。しかし、自身の状態を知るよりも、なにより目の前のそれを食べたい衝動を煽ったのは、僕の中に住まう怪物のこの一言だった。
──疾く、食え。
味を覚えた。少女という、味。
食べた、そう、食べたのだ。
どのようにして──それは、僕にも与り知らない。形の無い僕の、形の無いこの行為を、とりあえず強いて形容するなら、食事だったのだと思う。
少女を、食べていたのだと思う。
正直、すごく美味しいと思った。
没頭してしまうほど。
食べれば食べるほど、何かが満たされていくような感覚。満足感というのも、まさにこの時に覚えた。
そして、食べれば食べるほど、少女のあの華奢な輪郭が、僕という存在に組み込まれていくような。それまでの僕は果たして何だったのか──そんな疑問はさて置いて、とにかく食べ続けた。
食べきった。
瞬きほどの短時間でもなければ、瞑目ほどの長時間でもないくらい瞼に隠れていた眼球が露出すると、僕の視界は地べたにくっついていて、顔の両隣にはあの少女の手にそっくりな手があった。それと傍には、同じく地面に転がっている桶が見えた。口が横に向いていて、そこから水が残らず溢れていた。その水は、少女の身体にそっくりな身体をずぶ濡れにしていた。
起き上がる。そのつもりが、四肢が思うように動かない。
そもそも、動かし方が分からない。傍から見ていれば、利便性に富んでいるように見えたこの腕や足は、僕にごときには、身の丈を超えた宝でしかないのか。
──お前が手に入れたのは腕や足だけではない。頭もそうだろう。頭の中で、力を込めるよう意識するんだ、四肢に。
少女という殻を得た僕の中にいる存在が、そう僕に語りかける。ややこしいが、僕と奴は、いうなればこの少女という宿の同居人なのである。
同居人に知恵を賜れば、四肢は思い出したように動き出す。しかし、慣れない内は、たった二本の細い柱での歩行はできそうにない。仕方がないので、腕と手で地面を這って、傍の川へと向かう。
──何だ、己の形に見惚れたいか? まあ、気持ちは分かるがな。まだまだ未発達だが、我らの宿は中々の上玉と見た。
今回ばかりは同居人の駄弁を無視して、とにかく移動に精を尽くす。そうこうしている間に、四つんばいまで可能となり、その頃にはようやく川に着いていた。やっとのことだった。
一方向に波打つ川を見ると、空とそっくりな景色があった。さすがの僕でも、その理由が、水面が光を反射しているからであることは知っている。これを鏡として使おうと、思い立ったのだ。
おそるおそる、覗きこむ。
あどけない大きな瞳が、僕を見つめていた。満月のように丸い輪郭に収まるパーツは、全体的に主張性に欠けており、それがこの身体の元の持ち主の性格を物語っている。しかし、見た者に、将来の美貌を思わせる程の魅力は十二分にある。同居人の意見はこうだ。僕にはよく分からない。
顔の横から垂れて水に浸る髪は、艶があって、それ故かまとまっている。若年特有だと、同居人は言う。心なしか、その口調はいつも以上に浮ついていた。
薄い唇は、常に隙間があって、鼻と同様、そこから息が出たり入ったりしている。呼吸だけの器官ではなく、周りに声を届けることもできるのだと、同居人が教えてくれる。
「……あ、あ」
──ほう、もう声が出せるのか。中々、美しいじゃないか。人間の声というのは、まあ者にもよるが、聞いてて飽きないものだ。
同居人はあからさまな興奮を抑えることもせず、己の宿を絶賛している。
──そうだな、ここで一つ。にゃあ、と言ってみろ。
「……ぃあ」
──惜しい。口の中に、やたら動く柔らかい部分があるだろう。舌と呼ぶらしいが、それを上手く使って、音を変換するんだ。お前ならできる。
何だか、よくない方向に誘導されている気はしたが、同居人の熱心な指導に従う。
確かに、声を出そうとするたび、口内で伸び縮みする部分がある。これが舌とやらだろうか。加えて、唇の形も意識しながら試行錯誤している内、ようやく思い通りの音が出せるようになってきた。
「……にゃ、あ」
──よし、よし、それでいい。くぐもってはいるが、却って愛らしい。
同居人の満足げな声音が、何故か癪に障る。ところが、内心では、望む形を手に入れた喜びに沸き、酔いしれているのも事実だった。
「……つぎ、は?」
──上達も早い。宿と同様、お前にも見込みはそれなりにあるようだ。そうだな、まずは立って、歩けるようになれ。そう時間は掛からない筈だ。
「……わかった」
なるべく声での返答を意識する。積極的に練習し、急いで身体に慣れなければ。その為にも、同居人は、声の次に動くことを優先したのだろう。
動物というのは、動かなければ生きていられない。空から眺めていたから、僕もそれくらいは知っている。
まずは、立つことを覚えよう。四つん這いまではできる。ここから堅実に段階を踏めば、いずれはきっと足が身動きの要になってくれる。健康な身体だ。歩いたり、走ったりする以上の筋肉はある。ただ、中身が無知なだけ。
「……むず、かしい」
──イメージだ。単に足を柱として見立てるだけでは足らない。二本の柱で、地面を強く踏むんだ。最初は、めり込む勢いでも構わん。とにかく立つことを考えるんだ。
「……きみ、が、うごかせば」
発声を意識しすぎた所為か、思考がつい口をついて出てしまった。我ながら動転して、口を覆おうと地から手を離したために、胴体の支えがなくなって、地面に伏してしまう。何度目だろうか。分からないほど数をこなし、その分、経験が蓄積しているのは確かなのだが。
──お前の望みだったのだろう、形は。得る術を与えた吾に、その台詞は無粋だと思わんか。
腹に据えかねるのも無理はない。同居人の教えは、僕に対する親切心だ。
「…………ごめん、なさい」
今のやり取りにおいて、非は全面的に僕にある。
身体が思い通りに動いてくれなくて、少し気が立っていたのだ。不用意だった。考えてみれば、これは元々、僕の身体ではない。突然に乗っ取られて、素直に命令に従えないのも致し方ない。
──しょぼくれる姿も、絵になるな。まあ、口答えも過ぎなければ愛嬌だ。煩わしいようなら、吾もしばらく黙る。
「……んん。いい、しゃべってて」
──お前のそのいじらしさは天然か?
「……やっぱり、だまってて」
──そう僻むな。おや、言い争ってる間に、目標の一つは達成できたようじゃないか。
直立はできないが、どうにか腰を地べたから離すことはできた。まだ足の中心辺りは大きく曲がっているが、堪えるような姿勢だが、それでも僕がこの短時間の内に立ち上がるまで至ったことに、同居人は素直に驚いてくれた。
「……これ、なんていえばいいのかな。あしの、ちゅうしんって、どうやって、のばすの?」
──関節か。何、逆方向に反らすように力を加えればいい。あと、無駄に力み過ぎだ。そのままでは、筋肉がすぐに音を上げるぞ。
「……あ、うっ」
ふと足から力が抜けて、へたり込んでしまう。僕の意識は、必死に状態を保とうとしていたのに。同居人が言った、筋肉が音を上げるとは、この事だろうか。
──お前が慣れていないだけだ、安心しろ。筋肉が疲れたときは、痛くなるらしい。例えば、足や腕、笑いすぎて腹を痛めるなんてこともあるらしいぞ。
「……わらう、って?」
──そうか、お前は表情を知らんのか。先刻までは、顔すら持たなかったのだから無理もないな。こればかりは自然に覚えてもらうしかないようにも思えるが、まあ試してみようか。
そう言った傍から、同居人は沈黙する。一時は待ってみるものの、声は聞こえてこない。何か異常が起きたのかと不安になり、とうとう僕は自ずから語りかけてしまった。
「…………ねえ?」
──呼ばれて飛び出て吾っと驚け吾だけにね!
「…………」
──……歩け。いいから、歩け。
唖然としていた僕だが、その次の同居人の語気に気圧されて、足に力を込める。それから歩こうと努めはするものの、直前に芽生えた心配は、確認しないと払拭できそうになかった。
「……だいじょうぶ?」
──吾が奇を衒ったとでも? 気をやったとでも? まさか、遠い昔に見掛けたつまらんギャグというものだ。
「……なにを、いってるの?」
──五月蝿い。つまらないのは、空気を読んで笑わん貴様の方だ。
何故、僕が謗られなければならないのだ。いつになく、同居人が不機嫌だ。
へそを曲げたお調子者には、機嫌を取ろうと棘を撫でるより、無言を与える方が効果的だと聞き及んだことがある。生まれて間もなく、とりあえず傍にいて退屈しない人間の影に潜んでいた頃に得た知識だ。彼は、自他共に認めるほど人脈に恵まれなかった。もう生きてはいまい。
「…………よっ」
──…………。
「……それっ」
──…………。
「……ほっ、わわっ」
──……先刻までの、容量のよさはどうした。
先に折れたのは、同居人の方だった。
「……いじらしいのは、おたがいさまじゃない?」
──口だけは達者になったものだな。それより、立てたのに歩けんとはどういうことだ。
「…………さあ」
挑戦こそ幾度となく繰り返しているものの、足だけの歩行ができない。一歩、二歩までは踏み出せるのだが、すぐに膝から崩れてしまう。
──自分で歩けないのでは、餌も獲れんぞ。どうしたものか、なあ、少女よ。
「クーフェ、中々帰ってこないものだから探しに出てみれば、どうしたんだ?」
不意に、背後から声が聞こえた。野太く、掠れた、男性的な特徴が著しく突出した声。
肩に硬い手を置かれて、振り返ると、どちらかといえば老いた男性が、不思議そうな表情で僕を見下ろしていた。
──クーフェ。おそらく、宿の名前だろうな。詰まる所、奴は宿の父だ。
ということは、彼は僕を呼んだのか。
──そうだ。確かにそうだが、……それより貴様、まともに立ててるじゃないか。
驚き混じりの指摘を受け、ようやく自覚する。
直立している。微塵の震えも無く。
そんな、さっきまでは、イメージを尽くしても踏ん張るのがやっとだったというのに。
「……クーフェ?」
「ん、お父さん。……おとう、さん」
無意識に、喉が勝手に鳴り、唇が勝手に動いて、勝手にそんな台詞が出た。
お父さん。間違いは無い。同居人が言うのだから、この人は、僕の、この宿の父親なのだろう。
動揺せざるを得なかったのは、先程までの苦労が嘘の様に、驚くほどすんなりと、足が歩を進めたからである。それに、笑みを浮かべているのが、自分でも分かった。それらもまた、佇もうとしていた僕の意思に、身体が勝手に反しての行動だった。
──なるほど。お前が宿を乗っ取ったことで、宿主はお前の潜在意識に潜り込んだのだろう。父親を前にし、顔を出しかけたということだ。反射に近い。
ということは、女の子の意識は消えたわけではないのか。
──宿からすれば、我らは招かれざる客。本来ならば宿を開いていないところに、無理やり住み込もうとしているようなものだ。
「ずぶ濡れじゃないか、水を溢したのか? 気分が悪いんだったら、隠さなくてもよかったのに」
僕らが脳内で会話をしている間に、父親は僕を抱き上げ、歩き出す。
どうやら少女は普段明るいらしい。水汲みに送り出したはいいものの、様子見に来てみれば、出掛けにはしっかりと抱えていた桶をすっかり手から離し、地面に座り込んでいて、声を掛けてみても口数が少ない様子から、己の娘は体調不良だと考えたらしい。
同居人に指示され、素直に父親の腕の中で揺れる。間もなく、少女の家と思しき家屋に連れてこられた。
──少女と父親は、ここで暮らしているわけだ。お前にとって、吾はこの宿の同居人であり、父親は、この宿にとって、この家の同居人というわけだな。
ややこしい。
父親は、一旦は寝床に娘を座らせるが、水浸しの衣服を見て、棚から着替えを取り出す。
「着替えて、しばらく休みなさい。水汲みは私がやっておく」
頷き、手渡された服を受け取る。父親が、娘がやり損ねた用事を済ませに家を出るのを見送り、僕は服を脱いだ。
──さすが、貧相な土地で暮らしているだけあって華奢だな。ああ、勿論、皮肉交じりの褒め言葉だ。
「……それ、ほんにんにいわないと」
本人というのも、僕が宿の地下室へと追いやってしまったのだが。申し訳ないというのは、こういう気持ちのことを言うのだろうか。
──出て行くか?
「…………」
着替え終え、寝床に横になったところで、父親が帰ってくる。水入りの桶を台所と思しきスペースに置き、僕に歩み寄ってきた。
「どうだ、気分は?」
「……うん」
「うん、じゃあ分からないな。熱は無いようだが」
娘の額に手を当て、父親は安心したように息をつく。
「……ねえ」
──何だ?
「どうした?」
声を掛けると、どちらの同居人も反応してきた。
まあ、どちらに聞きたかったと言うわけでもない。
「……わたし、って、ほんとうにクーフェ?」
そう問うと、どちらも、それぞれのらしさを以って答えた。
──何だ、気にすることでもないだろう。……長話になるが、答えよう。
人間の遺伝子は、猿の遺伝子と酷似しているのだそうだ。つまりそれは、人間は猿とほぼ同然だと表現しても、否定する者はあまり居ないということである。少なくとも、人間の内には。
しかし、それよりも人間とは、真珠貝に似ているのではないだろうか。
全般の生物には、外見が存在する。いわば、形。形ある生物は、その形を絶やしたくないという本能の下で生殖を行い、古い形から、新しい形が生まれる。生殖の段階で、雌が雄を選ぶことはあるが、それも本能の中に、軟弱な雄に捉まれては、己の血が途絶える可能性が知識として組み込まれているからである。知能とは言い難い。人間の勝手な思い込みだろうが。
「何だ、私をからかっているのか?」
反して、人間は知能を持つ。この知能を中身と称するなら、人にとって、人とは真珠貝なのだ。
人は、自分以外の人という形を見て、好意を寄せたり、不快感を覚えたり、欲情したりする。生物において、見た目で異性を選ぶという行為が最も顕著なのは、人間なのだ。
性欲に乏しい人間であっても、世間一般的に顔が良いと評される者なら、人気を得られる。たとえ性根すら曲がっていても。外見が醜くても、人格を評価される場合もあるにはあるのだが。
これを真珠貝に当てはめれば、貝殻は外見、真珠は人格となる。模様の出来がよければ、貝殻は高値で売れる。但し、真珠が売り物に値しなければ、外面だけが評価されることになる。
模様が不出来なら、貝殻は容赦なく捨てられる。但し、中に隠れる美しい真珠を垣間見た者なら、それが捨てたものではないことに気付ける。
貝殻に出来の良い模様を携え、中に秀麗な真珠を抱える個体。稀有な固体。そんなもの、そもそも存在しない。
「お前にしては、珍しいな」
知能を得るということは、言い換えれば卑劣になるということだ。証拠に、人間は今に至るまでに、一体どれほどの卑怯で周囲を穢してきたことだろう。その例は、枚挙にいとまがない。それが人間。人間として生まれてきた以上、いくら倫理的思考に則ったところで、それは人間という極めて狭い範囲でのお為ごかしに過ぎないのだ。
「大丈夫だよ。私がお前のお父さんなんだから──」
故に、人は表面を重要視する。
顔。身体。住居。立地。環境。
上っ面さえ整っていれば。
外見さえ秀でていれば。
外見さえ理想に足りていれば。
外見さえ、記憶と合致していれば。
そうだ。
お前が、奴の娘の形であれば。
「──お前は、私の大事な愛娘さ」
──貴様は、奴の大事な愛娘だ。
「そうだろう?」
──そうは思わんか?
「うん」
とりあえず、同意してみる。
同居人は、満足げに笑った。