22歳と16歳(6)
(兄22・弟16)
形の良い唇に箸の先が芋を運んで行くのを、じぃ、とコウスケは見つめる。箸は何度か往復を繰り返し、最後に煮浸しを口に含んでコクリと喉を鳴らした母チヅルは、不安げに自分を見つめるコウスケにふふふと花が綻ぶように笑った。
「うん、どれも凄く美味しいわ」
「ほんとう?」
「ええ。本当に上手になったわね、コウスケ。キョウスケったらほっぺも顎も落ちるんじゃないかしら」
ぱあ、と顔を明るくしたコウスケはテーブルに並ぶ複数のタッパーを眺めて、ほっと息を吐いた。タッパーの中身はどれもこれもコウスケが昨日作ったもので、兄の好物の鯖の味噌煮やこいりから、旬の葉野菜の煮浸しや、ありあわせを煮込んだポトフーまである。
この内の数種類は昨日の夕食時に卓に並んでいたが、コウスケにとって重要なのは「昨日美味しかったか」ではなく「今日美味しいか」だった。
週末のみキョウスケのマンションで過ごすコウスケは、兄へ残して行った料理は必然的に全て作り置きになる。母仕込みの腕を奮った料理は出来立ては当然美味だが、冷めても温め直しても美味しいかと問われれば自信がない。母が作ったそれは冷めたって何したって美味しいが、どれだけ作り方をなぞったところで母とコウスケではやはり違う。
そこで、コウスケは試しに大根の煮付けを作ってみたのだが、二日目ともなるとどうにもしょっぱかった。味が染みているのとは違う濃さ。柔らかいではなく、崩れやすい大根。
今までこんなものを兄に残して来ていたのかと、コウスケは真っ青になった。
キョウスケはグルメではないし、大根がしょっぱかろうが崩れようが気にするような性格でもないが、自他共に認める程ラブな兄の口に入る物、コウスケは妥協しなかった。
母に再度コツと手順を聞いてノートに書き写し、父の目を盗んで練習を重ねること数回。漸く、息子には甘くとも料理には厳しい母チヅルから、及第点を貰えたらしい。
母には絶対妥協しないで欲しいと頼んでいたから、とりあえずは安心だろう。
「ありがとう、母さん。何回も何回もごめんなさい」
タッパーに一つずつ蓋をして回収していく。一つ一つは二食分程度の量だが、これをコウスケの小さな胃に全部入れるとなると何日掛かるだろうか。母に手伝って貰ったとしても二、三日はしそうな気がする。
流石に、作りすぎた。
「うふふ、可愛い息子の美味しい手料理をたくさん食べられるなんて役得だったわ。ちょっと太っちゃいそうなのが玉に瑕だけど」
「母さん美人だし痩せてるから、少しくらい大丈夫だよ」
「もう、この子ったら」
台所で仕込みを始めたチヅルがコロコロと笑う。
コウスケがキッチンスペースへ入ると母はまな板の上で何かの魚を捌いていたが、蓋をし終わって冷蔵庫へ運ばれるタッパーに気付き、あら、と首を傾げた。
「キョウスケのところへ持って行かないの?」
「え?」
「いつもより多く作っていたから、てっきりそうするんだと思ってけど」
「兄さん、忙しいから。家に居るかもわからないし、居てもおれが行くと気が散るよ」
本当だ。最近のキョウスケはコウスケが居てもパソコンへ向かっていることの方が多い。それでも、コウスケが行けばあれやこれやと気を回すから、あまり集中は出来ていなさそうだと思う。
相手にされなくても良い。兄に会いたいとは思うが、しかし邪魔をするのは本意ではない。
「あら、それなら尚更持って行ってあげなさい」
「へ?」
幼き頃、兄にべったりすぎる弟に手を焼き、「あまり兄さんを困らせては駄目よ」と事あるごとにコウスケを宥めていた母は、何を言っているのとばかりにさらりと言い放った。
「あのキョウスケがコウスケに構えない程忙しいなら、ご飯なんて二の次よ。あの子ったら、あなたのこと以外はほんっとズボラなんだから」
テキパキと材料を鍋に放り込みながらチヅルが呆れたように息を吐く。母の言葉には心当たりがあった。つい何週間か前に見たばかりの、空っぽの冷蔵庫だ。先週コウスケが買った食材も、順当に消費していればもうないだろう。
「でも、行くって連絡してないし」
先週の帰り際、普段はそんな確認をしないキョウスケに聞かれた時も、「来るなら連絡する」と言ってしまっている。わざわざ確認までされているのに、忙しいとわかっている兄に奇襲を掛けるは如何なものか。
「大丈夫、あの子だもの。あなたなら大歓迎よ。兄さんにご飯を食べさせてあげなさい、コウスケ。あなたが作ったものなら時間がなくても喜んで食べるわ」
鶏肉を揉み込む母のセリフは実に軽かった。
「……えー……」
「あら、喧嘩でもした?」
「してないけど」
「ならいってらっしゃい。案外、待ってるんじゃない?」
柔らかく笑む母の横顔から視線を外し、コウスケはリビングの時計を見る。まだ九時を少し過ぎた辺りだった。
ピンポーン、とインターホンを指で押し込む。
タッパーがぎっしり詰まった紙袋がガサ、と音を立てた。肩掛け鞄にもそこそこの荷物が詰まっているし、駅から二十数分、そろそろコウスケの貧弱な腕が辛い。
待っても反応がなかったので、紙袋を置いて鞄の合鍵を漁った。
『コウか?』
声がして、返事をする前にブツとマイクが切れる。
間もなく鍵が回る音がし、開いた扉から寝癖を直してもいないキョウスケが顔を出した。
「おはよう、兄さん」
「おはよう。寒いだろう、入れ。連絡もないし、今日は来ないかと思っていた」
「母さんが、兄さん絶対ご飯食べてないから食わせてこいって」
「そんなことないぞ」
「前冷蔵庫枯れてたじゃん。はい、これ」
玄関へ足を入れながら右手の物を差し出す。兄が受け取って、漸く腕が軽くなった。
「凄い量だな」
「昨日のだけど、おれが作ったの」
「コウが? 全部?」
「うん」
キョウスケはもう一度袋の中をまじまじと見る。手に取った耐熱タッパーに入っているのは、コウスケが特に力を入れて作った鯖の味噌煮だ。
あれやこれやと漁っていたキョウスケは、好物ばかりが詰められたタッパーの山を眺めて、破顔した。
「ありがとう。どれも美味しそうだ」
「美味しそうじゃなくて、美味しいよ。母さんから太鼓判もらった」
「それは凄いな。益々楽しみだ」
カウンターの奥へ歩いて行ったキョウスケが、手際良くタッパーを冷蔵室と冷凍室へ別けていく。ちらりと見えた冷蔵室は中身がすっからかんだった。やっぱりか。
コウスケは床に鞄を投げ、コートを着たままソファーに腰を落とした。ここのところ、来れば必ずローテーブルの上にあったノートパソコンが今日はない。コウスケが居ないから寝室で作業していたのかもしれない。
「暫く毎日コウの手料理が食べられるな。凄い贅沢だ」
背後のカウンター奥のキョウスケが機嫌良く笑っている。兄のこの声と言葉が聞きたくて、中学にあがったばかりだったコウスケは母の味を習い始めたのだ。帰って来た兄さんを喜ばせるんだ。叶ったのは、それから二年も後だったけど。
とりあえず、午後は買い出しへ行こう、と十一時過ぎを指す時計を見て、コウスケは決めた。折角コウスケが居るのだ。兄には出来立てだって食べて貰いたい。