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兄と、弟  作者: ふゆはる
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22歳と16歳(5)

(兄22・弟16)




 兄弟喧嘩らしい喧嘩は多分、一度しかしたことがない。

 というより、怖くて出来なかったというのがキョウスケの正直なところだ。

 まだキョウスケが小学校六年生で、弟が幼稚園生だった頃。弟との約束を破って、それはそれは泣かれたことがあった。

 約束を破ったことについては勿論、キョウスケに非がある。けれど、守れなくなった理由は自分では仕方のないもので、母だってコウスケを宥めていた。それなのに、何度も謝っているのに、ギャンギャン泣いて責める弟にカチンときてしまって、コウスケが「にいさんなんか嫌い!!」と叫んだのを聞いて、遂にキョウスケも振り切れてしまった。

 「あ、そう」とだけ返して自室に籠った。ぴたりとコウスケの声が止まった。

 ──直後、火が点いたように泣き出したコウスケがそれこそ泣きすぎで、熱を出したのだ。

 にいさんおこった、にいさんにきらわれたと、母がいくら宥めすかしてもピーピー泣き続けた弟は、噎せすぎて痛めた喉から細菌が入り込んだらしい。三十九度の熱が一週間以上下がらず、酷い咳が昼夜問わずに続いて、いつも太陽のようだったコウスケはみるみる弱っていった。

 キョウスケがプレゼントした猫のぬいぐるみを片時も放さず、目を覚ませば“苦しい”よりも「にいさんごめんなさい、ごめんなさい」と泣きじゃくるコウスケを見た時は、キョウスケは弟がこのまま泣いて泣いて花が枯れるようにしぼんで、死んでしまうのではないかと思った。泣きすぎで熱を出すなんて、我が儘だからバチが当たったんだと考えた自分を、殴り飛ばしたかった。

 弟と顔も合わせなくなってから、一週間。起きては泣いて疲れて寝るコウスケの様子を見て知って、キョウスケは漸く病床の弟に会う決意をした。

 部屋に入った時、熱で朦朧としているコウスケは兄を見つけるなり必死に手を伸ばして、「ごめんなさい、にいさんごめんなさい」と譫言のように繰り返した。抱き留めた体の熱さと一週間前よりも痩せてしまったコウスケの背中に触れて、キョウスケは過ぎた日の己の愚かさを死にたい程後悔したのだ。

 約束を破らなければ。あの時ちゃんと宥めてやれてたら。おれが大人げないことさえしなければ。

 コウスケはこんなに苦しまなかったのに。

 弱りに弱ったコウスケが客間から自室へ戻り、家族と食事を共に出来るようになるまで、それから更に一週間掛かった。

 コウスケと本気で喧嘩をすれば、ショックでコウスケが死んでしまうかもしれない。

 スコップで抉った傷のように、その喧嘩は今でもキョウスケの胸に遺っている。


 けど、それからのキョウスケがなんでもコウスケの言うことを聞いたかというと、そうじゃなかった。

 その喧嘩以降、コウスケの兄べったりは相変わらずだが、彼はキョウスケにも我が儘を言わなくなった。頬を膨らませはするが言い聞かせればきちんと頷くし、無理な「お願い」もしない。あの喧嘩で負った傷は、コウスケの方が深かったのだろう。

 今になって振り返れば、可哀想なことをしたと思う。

 健康でずば抜けて優秀な兄。そんな兄と、体の弱い弟とを比べる父。苦言は呈しても、最終的に父にはあまり強く出られなかった母。

 五歳のコウスケが子どもらしく我儘を言えたのは、兄のキョウスケだけだったのに。




「コウ」

「なあに?」

「来週の土曜、暇なら水族館でも行くか」

「へ?」

 布団に寝転んで本を読んでいたコウスケが、ぽかんと顔を上げる。ベッドの上のキョウスケからだと、スタンドライトのオレンジ灯の中で見えるそれは必然的に上目遣いか、半睨みだ。

 キョウスケは弟へ微笑み、もう一度言った。

「来週の土曜。特に予定がなければ、水族館に行かないか?」

「いいけど……兄さん、急にどうしたの? 兄さん魚好きだったっけ?」

「煮たり焼いたりすると美味いな」

「まだこの国の水族館では食用の魚は売ってないと思うよ」

 わかってるよ。笑いが混じる声で返せばコウスケは益々怪訝な顔をする。オレンジ灯の中の黒い目は、どうにかして兄の突拍子のない話の真意を見つけ出そうとしているらしい。

 その顔があまりに真面目だから可笑しくなって、キョウスケは遂に声に出して笑った。途端、コウスケは真意どころか理解を諦め始めたので、兄は奇異の目で見てくる弟にヒントをくれてやることにした。

「約束しただろう」

「約束? ……あぁ……ぁあー……?」

 少し考えたコウスケがハッと目を見開き、直後に疑念に満ちた顔をする。大きな黒目は、え、今更?と言いたそうだ。キョウスケは肩を竦め、もういいのか?と穏やかに尋ねた。

「楽しみにしてたろうに」

「あの後ちゃんと遊んでくれたからいいよ。兄さん、いつの話をしてるの?」

「十年前かな」

「おれ、もう子どもじゃないよ」

「あんなにガンガン俺を責め立てておいてか」

「それは……」

 もごもご口ごもるコウスケに、冗談だ、と笑った。


 遠い日の約束が何だったのか、キョウスケは今でも覚えている。

 あの時、キョウスケは当時オープンしたばかりだった水族館に、コウスケを連れて行く約束をしていた。

 その年の夏頃から開業予定が決まっていた、小学生のキョウスケでも足を伸ばせる水族館へ、「これが出来たら一緒に行こうな」と、気の早い約束を二ヶ月前からしていたのだ。二週間後に行こうと「約束の日」を決めた時、コウスケは今まで見たどんな顔よりも嬉しそうだったことを、あの日の弟の笑顔と共にキョウスケは覚えている。

 部活の練習試合さえ入らなければ、弟の笑顔を泣き顔に変えることもなかった。

 幼稚園へ行ってもみんなと同じようには遊べない。よく話題に上がるテーマパークや、観光スポットへも行けない。兄との「水族館の約束」を、理不尽な境遇に負けず太陽のように振る舞っていた弟は、どれほど心待ちにしていただろうか。

 大人になった今、今更悔やんだ。

 あの時うやむやになった「約束」は別のものに形を変えただけで、それ自体はまだ果たされていない。

「今日が丁度あの日だったからな。なんとなく思い出しただけだよ」

 気にするなと言い残して、キョウスケは布団に潜り込む。感傷に浸りたくなったのは、立ち寄った本屋で久しぶりにあの水族館のポスターを見掛けたからだ。

 デジタル時計の時刻はもう、夜十一時半を過ぎていた。

「ほら、消すぞ。もうおやすみ、コウ」

 ベッド脇のスタンドライトに手を伸ばす。

「……あれ」

 コウスケが呟いた。

 手を止めて、キョウスケは弟を見下ろす。床に敷いた布団の中で、コウスケは背を向けて丸くなっていた。

「コウ?」

「……兄さんは、覚えてないかもしれないけど。あの約束、一番最初にしたの、おれの誕生日だったんだよ。まだ夏で、行こうって、それだけだったけど」

 言われて、もう随分昔に埋もれていた、夏の日の光景を思い出す。

 あの約束は、妙に落ち着きのないコウスケが新聞に挟まっていた広告を見つけたのが始まりで、あの日朝から弟がはしゃいでいたのは彼が誕生日だったからだ。

 確かに、そうだった。

「兄さんはおれを落ち着かせる為に言ったんだろうけど、兄さんからもう一つ誕生日プレゼントをもらえたみたいで、うれしかったんだ。次の次の土曜日って約束した時、兄さんが覚えててくれたって、ほんとうにプレゼントだったんだって、うれしかった」

 だからあれは、おれが勝手に期待してただけだったんだよ。

 そう言って、コウスケはもぞりと寝返りを打ち兄を見る。声に滲む寂寞とは裏腹に、オレンジ色の光の中で弟はひそりと笑っていた。

「水族館、行こうよ。おれ、イルカショー見てみたい」

 あの水族館は、今や近場の保育園や小学校の遠足の定番になった。イルカショーだって、コウスケは幼稚園の遠足で水族館へ行き、もう見ている。それでもコウスケは、兄と行く水族館で兄とイルカショーが見たいと言った。

 スタンドライトに手を掛けるキョウスケを、コウスケがじっと見ている。彼は静かに兄の返事を待っていた。

 キョウスケは笑った。

「ああ、行こう。約束だよ、コウ」

 無邪気な頃のような高揚感は、きっともうないけど。

 約束だよ、と消える灯りの中でコウスケも小さく笑った。




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