幸せならホニャララ/ポッキーの日
幸せならホニャララ
(兄25・弟19)
図書館で大学の課題の調べ物を終えてから帰宅して、午後七時。夕食のにおいに釣られたコウスケがリビングへ入ると、食卓にしているテーブルの上に菓子箱が二つ並べて置かれていた。
首を傾げる。覚えがない。恐らく、今日中に置かれたものだ。
そして、今日は仕事が休みだったキョウスケが買い物に出ると朝方言っていたことを、コウスケは思い出す。
それなら、これをここに置いたのは兄だ。
箱を手に取ると菓子は幼い頃のコウスケもよく食べていたプリッツだった。
カウンターの奥で夕食を作っていたキョウスケが帰宅したコウスケに気付き、一瞬だけ振り返る。何を作っているのか、兄は左手にお玉、右手に菜箸を持って鍋とフライパンに向かっていた。本当に何を作ってるんだ、兄さん。
「おかえり」
「ただいま」
「思ったより早かったな」
「電車まで時間あったからタクシー使った」
「そうか」
片付けて来い、と言う兄に返事をし、コウスケはリビングを出る。寝室の隣の半物置と化した部屋へ鞄と上着を押し込み、その足で洗面所へ向かった。
手洗いとうがいを済ませてリビングへ戻ると、扉を開けただけで兄が作る何かの料理の美味しそうなにおいに鼻を擽られる。何を作っているのかは、兄だから予想出来ない。
ぐう、と腹が鳴る。
口が裂けても兄には言えないが、昼もゼリーだけで済ませたコウスケは腹が減っていた。それに、キョウスケの料理はレシピこそかなりずぼらだが、何を作っても美味しい。料理上手の母の食事は頬が落ちる程だが、コウスケは偶に食べられる兄の手料理の方を好いていた。
キッチンへ足を運び、そろりと兄の横から手元を覗き込む。フライパンの中では、細切りにしたピーマンと筍と人参と、あと何かの葉物野菜と何かの挽き肉が炒められていた。
なんだろう。兄はトリッキーだから野菜炒めという線はない。においは中華っぽいけど、兄さん作ったことないし。
「兄さん、これ何?」
「青椒肉絲だ。そっちの鍋はかき玉スープだ」
「なるほど」
どうやら兄はインスタントの素を使わず、いきなり未知の領域に足を突っ込んだらしい。
フロンティア精神溢れる兄なので開拓した経緯については突っ込まない。
しかしながら。
「青椒肉絲に人参とか葉っぱって入るっけ」
「知らん」
だろうな、とコウスケ。キョウスケの料理とは得てしてそんなもんだった。
ぐう、とまた腹が鳴る。隣から聞こえた本能の音に、フライパンを振り回すキョウスケは不思議そうに首を捻った。
「腹が減ったのか?」
「うん」
「テーブルの上にプリッツがあっただろう。食べていいぞ」
それを聞いて、今度はコウスケが首を捻った。確かにテーブルには二つ、兄と弟の分のように菓子の箱が置かれていた。が。
「そういえば、あれ、何?」
「どれだ?」
「プリッツ。兄さんお菓子食べないじゃん」
幼い頃にはコウスケに付き合って菓子を食べていたキョウスケだが、今は弟ですら作業の休憩に甘い物を摘まむ程度で、スナック菓子やクッキーといったものにほとんど縁がない。キョウスケもコウスケもあまり食が太い方ではないし、間食してしまうと食事が入らなくなるというのもある。なんでわざわざ。
首を傾げたコウスケに、ああと頷いたキョウスケの答えは、至極あっさりしていた。
「今日は十一月十一日だろう」
「うん」
「ポッキー&プリッツの日だ」
コウスケは瞬き、眉を寄せる。
「それだけ?」
「ああ」
ああ、なんだ。脱力する。ようは、スーパーの特売コーナーか何かで目についたから買って来たのだろう。兄さんだし。
傍に立つコウスケに視線を向けることなく、キョウスケはフライパンに何かの調味料を入れていく。コウスケが帰宅する前に作られていた黒色の液体に何が入っているのかは、知らない。
「食べないのか?」
動かないコウスケを不思議に思ったキョウスケが、再びフライパンを振り回しながら今度は弟を見て尋ねた。兄さん、今こそ手元を見てとはコウスケの切な願いだ。
「プリッツより兄さんのご飯が良い」
何気無く言った言葉に目を丸くしたキョウスケが、くっと可笑しそうに笑う。これは、嬉しい時の笑い方だった。
「可愛いことを言ってくれるな、コウよ」
「兄さん、手元見て。危ない」
「見てるぞ」
「いや、見てないよ。どう見ても」
「見えてるから問題ない」
「うん、じゃあ、いいや。うん」
そうこうのやり取りの間に青椒肉絲は出来上がったらしく、キョウスケはフライパンを置いて火を止め、食器棚へ向かう。椀を手に戻ってくると隣の鍋の蓋を開けてよそい、まだ湯気の立つそれをコウスケへ差し出した。
かき玉スープも中華風に作られているのか、黄金の半透明の水面からはゴマ油の香ばしいにおいがする。卵もふわっふわだ。
「もう少しかかる。それを飲んで待ってろ」
「はあい」
椀を受け取ったコウスケはその足でリビングへ向かった。ソファーに座り、兄がくれた湯気の立つ椀へ口をつける。
美味しい。ふんわり染みる優しい味だ。
そして、温かい。
部屋は暖房がついていてぬくいが、今日は冷える日で外は寒い。タクシー代をケチって駅から歩いて来たコウスケは、足も指も頬も冷えていた。
腹の中がじんわりと温まり、ささやかな幸福に満たされる。
ふと、テーブルの上に二つ並んだプリッツの箱が二口目をすするコウスケの目に止まった。普段菓子を口にしないコウスケにも、キョウスケにもプリッツ一箱は多い。
それが、二つ。
「兄さん、このプリッツどうするの? 二箱は多いよ」
「どうするかな。ポッキーゲームでもするか?」
「いや、しない」
「冗談だ。お前も俺も菓子は食べないしな」
なら買うなよ。
兄は本当に何を思って旬の菓子を買って来たんだ。
呆れていると、キッチンでガチャガチャ音を鳴らしていたキョウスケが暫くの間の後、口を開いた。
「コウ。今週の土日は暇か?」
「うん」
「なら、出掛けよう」
「兄さん休みだっけ?」
「休みにする」
休みにする?
不穏な言葉に首を捻っていると、フライパンを持ったキョウスケがひょっこりリビングへ出て来る。椀をすするコウスケを見て、兄は母似の整った目許を細めて笑った。
「紅葉狩りに行こう」
「紅葉狩り?」
「この時期は寒くなるからな。コウは行ったことがないだろう」
兄の言う通り、十月以降のレジャー外出は寒くて風邪を引きやすいからと、コウスケは兄とも両親ともしたことがない。籠ることにすっかり慣れて、十を過ぎる頃には行きたいとも行こうという発想もなくなったが。
「ドライブしよう。適当な軽食とそれを持って行って、小腹が空いたら噛ればいい。花見のようにはいかないが、綺麗だぞ」
「いいのかな」
「昔に比べれば発熱も咳も大分良いんだ。人混みに行くわけでもないし、寧ろデパートよりも余程安全だと思うが」
行くだろう、と問われ、うん、と返した。
ああ、まただ。
小さな頃から色々な制限をしてきたこの体に、キョウスケはいつも新しい世界をくれた。皆と同じように当たり前にしてきたこともあれば、当たり前を当たり前に出来ないのが、当たり前になっていたこともある。その、“当たり前”を破ってコウスケに手を差し出すのはいつだって、兄のキョウスケだった。
「出来たぞ。待たせたな」
手にしていたフライパンを、キョウスケがテーブルの鍋敷きの上に置く。湯気が上がっているフライパンの中を兄は青椒肉絲だと言ったが、何故だか色鮮やかなそれは何か別のものに見えた。
けれどそれも、飲み干した椀のかき玉スープのように温かくて美味しいと、コウスケは知っている。
再びカウンターの奥へ引っ込んだキョウスケを見送り、コウスケもソファーから立ち上がった。フライパンの向こうへ追いやられた二つの菓子箱が目に入る。大して好んでもいないそれを食べられる日を、少し待ち遠しく思った。