22歳と16歳(4)
(兄22・弟16)
時間がまた一時間経ったことを、枕元に置いたスマートフォンのライトが告げる。ディスプレイに数秒映った時刻は、午前零時。ごろりと寝返りを打ったコウスケははぁ、と短く息を吐いた。
眠れない。
「…………」
隣のベッドの上では、大分前に就寝の挨拶をしたキョウスケが気持ち良さそうに寝息を立てている。そんな兄を恨めしく思い、羨ましく思った。布団から体を起こし、もう一度息を吐く。ベッドの上のキョウスケは、床に敷かれたコウスケの布団に対して背を向けて寝ていた。
枕元のスマートフォンを回収してパーカーを被り、リビングへ向かう。
暗いリビングは、寝る前にキョウスケが切った暖房の温度もすっかり消えて、冷えていた。
「さむ……」
ひゅっ、と喉が痛む感覚がし、反射的に息を止める。コウスケは少し考えた後、毛布を取りに兄の寝室へ戻った。再びリビングへ戻り、通学用に持ち歩いている鞄から参考書を取り出す。それを手に、毛布にくるまりながらソファーへ仰向けにダイブした。
スマートフォンの懐中電灯アプリを起動して腹の上に置き、その光が当たるように参考書を開く。
これは、コウスケの悪癖だった。
好きなこともしたいことも見つけられず、時間があれば参考書を手に取ることが癖になったのは、中学に入って暫く経った頃だった。
本を読めばもう居ない兄を思い出し、漫画やゲームに手を出すことは許されず、かと言って部活動も、外へ遊びに出掛けることも出来ない。儘ならない体に、せめてテストの成績だけは兄のようになれればと、空いた時間全てでコウスケはとにかく参考書を読み込んだ。バスの中、休み時間、帰宅して宿題を終えてから夕食が出来るまでの間、風呂が沸くまでの間。
そして、布団に入ってから寝入るまでの時間も。
ベッドの中で参考書を眺め、気が付けば意識が落ちているという生活を、ずっと誰に咎められることなく続けていた。
そうしなければ寝付けないと気付いたのは、その年の秋だっただろうか。
それまでの陽気から一転して冷え込んだその日、コウスケは数ヵ月ぶりに大きく体調を崩した。咳の発作を伴った発熱があり、母チヅルが迎えに来て学校を早退した。一階の客間に転がされ、その頃の己の勉強漬けを知る母には「今日くらいは休みなさい」と宥められたが、コウスケは眠らなかった。
眠れなかった。
体は咳と熱で消耗して息をするのもしんどいのに、目を閉じても一向に眠りの気配が来ない。手持ち無沙汰になり、ただ横になっていても落ち着けなくて、仕方なく枕元にあった鞄の中から参考書を手に取った。
いつの間にか、寝入っていた。
様子を見に来た母にはこっぴどく怒られたが、だって、とも、でも、とも、コウスケは言わなかった。ごめんなさい、母さん、と、笑って流した。
だってね、母さん。おれ、こうしないと、眠れないんだよ。
父の己への当たりに心を痛めている優しい母にそんな、自分がおかしくなってしまったかもしれないなんてこと、コウスケは言えなかった。
週末にキョウスケのマンションへ泊まるようになってから、この悪癖が目敏い兄には初日でバレた。しかし、キョウスケは何も言わなかった。ただ少し、困ったような顔で息を吐いて、「寝たくなったら寝ろ」と、ソファーのコウスケの隣に座った。黙々と参考書を読み耽るコウスケの横で、キョウスケはテレビのお笑い番組を見ていたのを覚えている。
にいさん、それ面白い?
面白くはないな。ただ、興味深い。
ふぅん。
まだ暫く寝ないから、寝たくなったら寄り掛かっていいぞ。
そんなことしないよ。子どもじゃないし。
そうか。
うん。
そんな、他愛ない会話も覚えている。
その内にうとうとと揺れ始めたコウスケは、結局キョウスケの肩を枕にした。
そんなことを何回も、何回も繰り返して、コウスケが就寝前に参考書を手に取る日は減っていった。
だって参考書を読んでいるより、兄とくだらない話をしている方が、よっぽど楽しい。
たし、と忍ぶような足音がした。何かの気配が足下まで来て、溜め息を吐く音がする。
「またか」
呆れを含んだ声だった。
誰か居るのはわかっているのに、瞼が重くて動かない。
手の中から何かが抜き取られ、緩く肩を揺らされた。
「コウ、起きろ。寝るなら布団に戻れ」
声が何か言っているが、コウスケがわからないから、日本語じゃないのかもしれない。
ねむい。やっとねむれそうなんだ。だからほっといてくれ。
持ち上がらない瞼をそのままにしていると、肩から手が離れていった。
また、息の音がする。
浮遊感があった。
「兄さん」
「なんだ」
「なんでおれが兄さんのベッドで寝てて、兄さんがおれの布団で寝てるんだろう」
「昨日、リビングで寝ているお前を運んできたらお前の布団が冷えていた。だから俺の布団に突っ込んだ。おはよう、コウ」
「おはよう兄さん。朝はベーコンエッグにするね」
「ああ」