3.契約
大学の授業の合間に携帯をいじっていたら、宮之瀬さんから着信が入った。
前回会った時に携帯の番号は交換していたのだ。
まさか、こんなに早く使われるとは。
「カナコ、今いいか?」
「平気ですけど…。」
あの時はお見合いの場だから仕方ないが、
今さらっと人の事を下の名前で呼ばなかっただろうか。
まだ、1回しか会った事のない人間に随分砕けている人だ。
それとも女性慣れしているのだろうか、彼と結婚する人は大変だろうなと他人事のように私は考えた。
「何処にいるの?」
「大学で授業を受けていました。今は休憩時間です。」
「あんた、大学に行っていってんのか?!」
宮之瀬さんは声がひっくり返っていた。
最初の澄まし顔が信じられないぐらいの豹変ぶりだ。
ポーカーフェイスが得意そうな男なのに、そんなに驚く様な事なのだろうか。
「何ですか。変な声を出して。」
「いや、何となくカナコは家で花嫁修業でもしているのかと思った。」
随分と、前時代的な事を言ってくれる。
今時女性が大学に行く事がそんなに珍しいか。
「花嫁修業って茶道に生け花とか、そう言うのですか?」
「そうそう、何か浮世離れしてないだろ。あんた。」
「一応、習っているけど手習いのレベルです。そんなに本格的な物じゃありません。」
「マジでお嬢さんだな。」
その一言は私をチクリと刺した。
「そっちこそ、人の事を言えないでしょ。」
「まあな。でも成果を出していれば、後は放任だったし。
と、この話はどうでもいいわ。今、神保町の駅のすぐ近くの喫茶店に居るんだけど会える?」
そこなら、比較的学校の近くだった。
都合がよく4時限の授業が休講になったので、向かう事にした。
多分、顔を直接会わせて話し合わないといけないことでもあるのだろう。
古めかしい喫茶店の窓際の席に彼はいた。
前回見たときよりは、ややカジュアルなスーツ姿でこちらに小さく手を振っている。
私は足早に店内に入ると、宮之瀬さんが居る席まで近づいて行った。
ヒールのある靴を履いてきたので不用意に大きな足音を立てないように気を付けつつだ。
「宮之瀬さん。」
「カナコ。悪いな、呼び出して。」
私達は他のお客さん達にどのように映るだろう。
大学の先輩後輩か恋人同士か、いずれにせよこんな関係だと分かる人はいないだろう。
私はそんな事をつらつら考えつつも席に着いた。
彼はこちらをマジマジと見ているので、思わず訝しい顔をして見返してしまった。
すると、宮之瀬さんは苦笑をして口を開いた。
「そう言う格好をしていると大学生に見えるな。」
私はブラウスにスカートと言う至ってごく普通の格好をしている。
やや地味かもしれないが、許容範囲内だろう。
「宮之瀬さんの中の私のイメージが気になります。」
「見合いの時に会った時は平安時代のお姫様に見えたな。
まあ、その後に庭で話して印象が変わったけど。」
道理で大学に通っている事に驚く筈である。
初対面の第一印象の大事さを思わず、痛感してしまった。
思わず、私の久しぶりの見合いだと張り切って身支度をしてくれた使用人を恨んでしまった。
「それで、何の用ですか。」
「ああ、そうそう。一応、婚約破棄の損害賠償とかの話にならないように書類を書き起こしてきた。
まあ、念の為っていうか、お互いの為だから気を悪くしないでくれると嬉しい。」
「抜かりないですね。そう言う所は嫌いじゃありません。」
私がそう言うと、彼は賢い猫の様に口の端で笑った。
今の言葉がお気に召したのだろう、何故かそんな事を思った。
書類の文章を細かくチェックをし、問題がない事を確認した上で署名をする。
そうして彼の名前も書かれている事を確認すると、2通あった書類をお互い1通づつ保管する事になった。
「貴方が言いださないなら、私から提案しようと思っていたので手間が省けました。」
「へえ、しっかりしているんだな。まだ、18歳だろ?」
「ただ頭でっかちなだけなんです。アルバイトもした事がないですし。」
「したいならすればいい。経験するのは悪い事じゃない。」
すとんと宮之瀬さんの言葉は私の中に入ってきた。
したいことをしろなんて言ってくれる人は今まで居なかった為か、なんだか新鮮だった。
アルバイト、アルバイト、アルバイト、
その単語が私の頭の中をくるくると回る。
確かに金銭を貰う為に働くのはいい経験になるだろう。
子供が好きだから、家庭教師をするのもいいかもしれない。
幸いな事に私の通っている大学はそれなりに有名なので、面接も通りやすいように思う。
今までの狭い世界が少しだけ広がった気がして、何だか嬉しかった。
「そうだ、カナコ。俺の名前は下の名前で呼べよ。」
「どうしてですか?」
正直な所、宮之瀬さんに名前で呼ばれるのにも違和感があるのに。
自分が呼ぶなんて。
「そっちの方が婚約者らしいだろう。それとも、いざという時だけ名前呼びにするつもりか?」
「分かりました、光司さん。これでいいですか。」
私がツンと澄まして答えると彼は肩を震わせて笑い始めた。
何か可笑しな事をしただろうかと首を傾げていると、息も絶え絶えになった光司さんが言った。
「光司さんね。うん、スゲー婚約者っぽい。」
「何一人で笑っているんですか。」
「いや、何でも…。」
まだ声を震わせながら、彼は言った。
私は思わず、頬を膨らませてしまった。
ふと気が付いたら、周りのお客さん達が私達の事を微笑ましそうに見ていて恥ずかしかった。




