2.取引
私は些か疲労感を感じながら、家に着いた。
窮屈な帯で締められていてからか、胸がまだ苦しい。
着物から自室で過ごすためのラフな格好に着替えたとは言え、まだ違和感がある。
宮之瀬さんが提案した取引とは、実に簡単な物で仮面婚約者にならないかと言うことだった。
私はその時の彼の言葉の一つ一つを思い返して行った。
ベッドに横たわり、目を閉じながらその時の事をゆるゆると回想し始めた。
「俺は基本的に結婚をするつもりはない。出来れば、一生独身貴族でいたいぐらいだ。
そっちだって、まだ10代だろう?結婚を考えるには若すぎる。
恋人同士でも中々難しいのに、碌に知らない男と結婚しろと言うのは無茶ぶりだ。
かと言って、ここで俺との見合いを破談にした所で次の候補者が連れて来られるのは目に見えている。」
ここまで宮之瀬さんは滔々と捲し立ていた。
その様子は歌を謳っているかのように流麗で、この人は仕事が出来ると私は直感した。
「だから、何だって言うのですか?」
私が精一杯の虚勢を張って睨みつけると、
彼はとても面白そうにニヤリと犬歯を見せて笑った。
「俺達の利害は共通するだろう?なら、手を組めばいい。
人前では仲のいい婚約者の振りをしておけば、そうそう次の話も来ないだろ。」
どうすると宮之瀬さんは私の方を見透かすような眼差しで見てくる。
今時、会社の利害関係で結婚するなんて前時代的だとは考えていた。
それに付け加えて、彼が協力してくれるなら円満に破談させることも可能だろう。
「分かりました。協力します。」
「ありがとう。」
宮之瀬さんはよっぽど結婚をするのが嫌だったのか一気に相好を崩した。
それなのに、お見合いに出向いたのは断れない縁談だったからだろう。
ひょっとすると、父が強引に話を進めたのかも知れないと思うと頭が痛くなった。
そう、多分彼の断れない縁談がやってくる立場でだから、その防波堤として私が必要なんだろう。
そこまで私は考えると胸中で納得をし、
一日中緊張を強いられていたからか、気が付くと眠ってしまっていた。
まだ幼い私と祖父が一緒に居る夢を見た。
私は彼の膝の上に乗らしてもらって、とても上機嫌だ。
祖父はすぐ近くにあった、絵本を取り寄せるとその低い声で読み始めた。
所々つっかえつっかえの朗読はお世辞にも上手とは言えなかったが、それが却って温かみを感じさせた。
その様子を俯瞰して見ている私は彼等が余りに幸せそうで現在との落差に目眩を感じざるを得なかった。
実際には、この縁談を破談にさせた所で余り家には迷惑は掛らない。
ただ、完璧主義の父が自分が俗に言う名家の血筋でないことを恥じているに過ぎない。
私の家が急速に裕福になったのは祖父の代からである。
父と比較すると余り目立った業績をあげていないかの様に思われがちな祖父だが、
彼がしっかりとした基盤を作らなかったら、父もここまで発展させる事は難しかっただろう。
こうして資産力だけはある私の家は次に家柄が欲しくなったのだ。
そして父はそれが会社の為になると本気で信じている。
そんな彼に何を言っても無駄だと言う事はよく分かっていた。
ちなみに、会社を継いでいる兄も名家の令嬢とのお見合い攻撃を受けているらしい。
兄は頭の良い人なので、上手くそれを本人と会う前に断る様にしているらしいが。
所詮は箱入り娘の私には、そこまでのスペックは無い事は自分自身が良く分かっていた。
兄とは昔から折り合いが悪く、協力を仰ぐつもりは更々なった。
加えて、酷い傷心中だった私は自棄になったのもあってお見合いを受けたのだが、
その結果がこれなのだから人生は分からない。
碌に釣り書も読まずに宮之瀬さんに会ったのだが、思っていたのとは違う人だった。
人前では親しくして、普段はある程度距離を置いて接する事が出来ればいい、私はそう思っていた。
「ねえ、カナコ。誰かいい人できた?」
「ううん、全然。大学生活になれるので精一杯。」
そっかー。と答える恵子をを尻目に私はお味噌汁を啜った。
今は大学のキャンパス内で昼食を取っている途中で、彼女は貴重な友人だ。
学科は違うが1学年共通の教養の科目で選択クラスが被っていたのだ。
恵子は顔が広い上に裏表のない性格で、素直に好感が持てた。
「じゃあ、この間お見合いをしたって言うのは?」
彼女の猫の様な瞳が私を覗きこむ。
まあ、尋ねられるのも当然である。
「家の都合でお会いしただけよ。一応検討中だけど…。」
私が言いずらそうにすると恵子は空気を読んでくれたのか引いてくれた。
そうして彼女はカナコってお嬢様だよね。とぽつりと呟いた。
その何の気なしな言葉は私の心臓をチクリと突き刺した。
彼女と別れると、私は午後の授業を消化して行った。
黙々と板書を取って、教授の話を頭に入れて整理をする。
大学の授業がすると、生け花の稽古があったので先生の指導を受ける。
多少変化はあるが機械化されたルーチンワークを黙々と私はこなして行った。
自分が優等生なのを実感するのはこう言った時で、それでも中々変えられない部分だった。