「息子の金が目当てでしょう」と言われたので、私が彼を養います
「息子の金が目当てでしょう。いくらで別れてくださるの?」
デュヴァル伯爵夫人は、私が腰を下ろすより先にそう言った。
帽子の注文を伺うときと、同じ口調だった。色も形も、夫人の中ではもう決まっている。私は値段を答えればいい。
けれど今日、手に持っているのは帽子の見本帳ではない。結婚の挨拶のために買った手袋だった。
「お金をいただきに来たのではありません」
「見てからお決めなさいな。これで十分でしょう」
卓上へ置かれた封筒には、金額を書いた紙が添えられていた。
見ないつもりだったのに、目が行った。店を開け、針を持ち、夜には帳簿をつけて、それを何年も続けてようやく手元に残る額だった。
これだけあれば、冬に売上が落ちても怖くない。古くなった看板を替えられる。母が亡くなってから三年、先送りにしていたことを幾つもできる。
考えてしまった自分が悔しくて、私は手袋を握った。
「アルマン様と別れるつもりも、ありません」
夫人は、まだ座っていなかった私へ椅子を示した。
私たち二人が伺う約束は三時だった。今朝になって、私だけは二時半に来るようにと使いが来た。先に打ち合わせたいことがある、という言葉を、少し嬉しく思ってしまったのだ。
結婚を反対されているのは知っていた。それでも、母の代から帽子をお買い上げくださっている方だ。二人で話せば、店主として知っている私を、息子の妻としても見てもらえるかもしれない。
そんな期待をした自分にまで、腹が立った。
「座りなさいな。お母様には長く世話をしてあげたのよ。あなたにも、悪いようにはしないわ」
私は椅子へ腰を下ろした。
夫人の帽子を、母はいつも丁寧に作っていた。重い飾りで頭が痛くなると聞けば、見えないところを軽くし、同じ青でも顔映りが違うと幾つものリボンを並べた。
お買い上げには感謝している。けれど、何も差し出さずにお金を頂戴していたわけではない。
「母も私も、ご注文には精一杯お応えしてきました。ですが、帽子の代金に、私の結婚相手を選ぶ権利まで含まれているとは思っておりません」
夫人の指が、封筒の上で止まった。
言ってしまった、と思った。客に向かって、こんな言い方をしたことはない。明日からの注文がなくなるかもしれないと考えると、背中に冷たい汗が滲んだ。
それでも、取り消せなかった。
「ずいぶん強気なのね。息子がついていれば、商売などしなくても済むと思っているのかしら」
「店は続けます。アルマン様とも、そう話しております」
「いつまで続くことやら。あの子の家を見たでしょう。あれとあなたの店の二階とでは、暮らしが違うわ」
見せてもらったことはある。
大きな食卓に、窓の多い居間。私の店が丸ごと入りそうな部屋で、アルマン様は、ここに君の帽子が置かれるのが楽しみだと言ってくれた。
そこで暮らすのが嫌だった、などと嘘をつく気はない。台所の広さに驚いたし、雨漏りを心配しなくていいのも嬉しかった。
でも、あの家で私がいちばん長く見ていたのは、家具ではなかった。
好きな人が、私の帰りを待つ場所を考えている。そのことが嬉しくて、彼の顔ばかり見ていたのだ。
* * *
アルマン様と初めて話したのは、一年半前だった。
夫人の帽子を受け取りに来た彼は、箱を渡す私へ、どちらを上にすればいいのかと尋ねた。丁寧な人だと思った。それまでにも、立派な羽根飾りを逆さにして持ち帰ろうとするお使いはいたからだ。
次に来たときには、自分の帽子を頼んでくれた。
「畑で風に飛ばされにくくて、顔に日が当たりにくいものを。母が選んだ帽子は、馬車から玄関までなら申し分ないんですが」
そう言って見せられた帽子には、細い飾り紐がついていた。綺麗だが、葡萄畑を歩き回るためのものではない。
私はつばを少し狭くした見本を出し、彼は鏡の前で何度も首を振った。飛びにくいか確かめているらしかった。
「お似合いかどうかも、少しは見てください」
「そちらは、あなたが見てくださっているので」
そんな言い方をされたら、いつもより真剣に見てしまう。
出来上がりを渡した翌月、彼はまた来た。帽子は飛ばなかったかと訊くと、排水溝へ落ちかけた自分を、帽子では支えられなかったという。
私は笑ってしまった。彼も笑い、今度は仕事の用ではなく会いに来てよいか、と尋ねた。
付き合い始めてから、葡萄畑の話を何度も聞いた。
彼のお母様が個人で持つ土地を、彼が管理している。測量の資格を取り、雨が降るたび水の溜まる場所を調べ、排水の道筋を変えたら、今年は若い苗が枯れなかったという。
食事の席で、パン屑を畑に見立てて並べるので、私は自分の皿を少し遠ざけた。
「私のパンまで畑にしないでくださいね」
「すみません。つい、説明したくなって」
「続きは聞きたいです。こちらは食べながらでも構いませんか」
彼は嬉しそうに続きを話した。そのうち、私の仕事の話も聞いてくれた。
花飾りをつける位置を少し変えるだけで、鏡の前にいるお客様の顔が明るくなること。気に入った帽子を被ると、それを脱ぐために帰るのが惜しくなる方もいること。
私が喋りすぎたかと気づく頃には、彼の皿のパンもなくなっていた。
次の約束をするようになって一年、一月前に結婚を申し込まれた。
「君が帰ってきたら、今日はどんな帽子を作ったのか、いちばんに聞きたい。僕の話も、聞いてくれますか」
私はもちろんと答え、それでは今と同じですね、と笑った。
彼も笑ったが、そのあとには少し照れた。
「同じではありませんよ。話の途中で、君を送り届ける時間を気にしなくてよくなります」
その違いが欲しくて、私は彼の妻になりたいと思った。
指には、彼が報酬を貯めて買ってくれた銀の指輪がある。母親の宝石箱から借りてきた品ではない。その指輪を選んだときの彼まで、金だけの男と呼ばれている気がした。
* * *
「あなたには、あの子の立場がわかっていないのよ」
夫人の話は、家柄のことへ移っていた。
亡き伯爵の次男が、帽子店の娘と結婚する。すでに爵位を継いだお兄様には相応しい奥様がいるのに、弟だけがどうして、と夫人は嘆いた。ご自分が選んだ令嬢なら、住む家も、これからの生活も、何の心配もないのだという。
私は膝の上で手袋を伸ばした。夫人のお話が終わったら、もう一度、アルマン様と結婚したいと伝えようと思っていた。
けれど、次の言葉には待てなかった。
「あの子にお金がなかったら、あなたもこんなに頑張らないでしょうに」
「お金がなくなれば、私が別れるとお考えなのですか」
「ええ。家も、収入も、私が与えているものですから。あの子から取り上げるのは簡単なのよ」
夫人が身を乗り出した。ようやく私の怖がる話になった、と言いたげだった。
「息子には、あなたとの結婚を諦めなければ、畑の管理から外すと伝えます。王都の家も明け渡してもらうわ。あなたに買ってあげるドレスも、食事に連れていくお金もなくなるの。それでも同じことが言える?」
アルマン様は、別の働き口を探すことも考えていた。
お母様があくまで反対なさるなら、家も仕事も別にしよう。その話は、二人でした。ただ、いきなり職も住まいも失うとは決めていなかった。まだ次の仕事は見つかっていない。
心配はある。私の店の売上だって、毎月同じではない。
だからこそ、彼が畑で働いて得たものを、ただ与えてやった金と呼ぶ口調が、腹立たしかった。
「アルマン様は、お仕事をして報酬を受け取っていらっしゃるのでしょう」
「私の土地でね。母親の庇護の外でも同じように暮らせると思うのは、世間知らずだからよ」
夫人が封筒を押してきた。
それを受け取れば、私はこの先何年かを、今より楽に暮らせる。彼と別れ、二度と食事の席で笑い合わなければ。
私は封筒を、夫人の側へ押し戻した。
「お金は大切です。あれば助かります。でも、このお金をもらったあと、何を楽しみに家へ帰ればいいんですか」
自分の声が震えたことが、悔しかった。
きちんと言いたかった。金に困ったこともないような顔で拒みたかった。でも、封筒の金額を見て考えたことも、この人の注文を失いたくないと思ったことも、本当だった。
それでも、好きな人の代わりにはならない。
「それなら、私が彼を養います」
夫人が、私の顔を見た。
聞こえなかったのかもしれないと思うほど、返事がなかった。
「新しい仕事が見つかるまでの間、二人分の食事くらいは用意できます。ずっと贅沢な暮らしはさせてあげられませんけれど、アルマン様と結婚したいんです」
「あなたが、息子を?」
夫人はそこで笑った。
喉の奥で短く笑われて、私はいっそう腹が立った。母から継いだ店で、三年間、自分を食べさせてきた。人を一人迎えるのが簡単ではないことくらい、私のほうが知っている。
「ご自分の店の心配をなさい。私が今後、帽子を頼まなくなっても、同じことが言えるのかしら。お友達にお勧めすることも、もうできないわね」
先月納めた帽子の数が、頭をよぎった。
今度の冬に買い足すつもりだった暖かな布と、屋根の修繕。そのうち幾つかは、また待つことになる。
私は一度息を吸い、夫人を見た。
「困ります。ですが、結婚相手を諦めなければ頂けないご注文は、お受けできません」
夫人の笑みが消えた。
後ろで扉を叩く音がしたのは、そのときだった。
壁の時計は、三時を指している。
「アルマン様がお着きです」
入ってきた彼は、私と、卓上の封筒を順に見た。
母親の顔を見てから、私の隣へ歩いてくる。約束どおり会えたことにほっとして、私は危うく泣きそうになった。
「エリーズ。僕より先に呼ばれていたのですか」
「少しお話を、と思ってね。ちょうどよかったわ、アルマン。この方はあなたを養ってくださるそうよ」
夫人が私より先に答えた。
アルマン様の足が止まった。驚いた顔を、私へ向ける。
「私の援助がなくなっても、結婚を諦めないですって。あなたも、さすがにそれがどれほど無謀かはわかるでしょう。店の娘に食べさせてもらって暮らすなんて」
私は手袋を手提げへしまって立ち上がった。
彼に悪く思われるのが怖かった。相談もせずに言ってしまった。大切な人を、働けないと決めつけたつもりはなかったのに。
「アルマン様。勝手なことを申し上げて、ごめんなさい。でも、私は――」
「待ってください。今、少し嬉しくて、ちゃんと聞けていません」
彼が口元へ手を当てた。
笑っているのだとわかり、私は言いかけた言葉を忘れた。こんな場所で、こんな話をしているのに、彼は困るほど嬉しそうだった。
「君は、僕が何も持っていなくても、来てほしいと思ってくれるんですね」
「何も持っていなくなんか、ありません。お仕事の資格もありますし、真面目に働く方ですし、その……私、あなたのお話を、まだたくさん聞きたいです」
途中で、用意のなかった本音が出てしまった。
畑の話でも、これから探す仕事の話でもよかった。うまくいった日は喜んでほしいし、悔しかった日は私のところへ帰ってきてほしい。二人とも疲れていれば、喋らずに食べたっていい。
そういう毎日を、この人と過ごしたい。
「来てほしいです。お金のために、別れたくありません」
彼が、私の手を取った。
「では、少しの間、お願いしてもいいですか。僕も働き口を探します。家のことも、君に任せきりにはしません」
胸のつかえが落ちて、私は頷いた。
彼はその返事を確かめてから、母親へ向き直った。
「母上。家は明け渡します。畑の管理も、別の方を選んでください」
夫人が椅子の肘掛けを掴んだ。
さっきまで、私に向かって自由に取り上げられると言っていたものを、息子が自分から返す。その答えは用意していなかったらしい。
「何を言っているの。少し考えなさい」
「エリーズと結婚すると、先月お伝えしました。家のことも仕事のことも考えましたが、結婚をやめるつもりはありません。畑の図面と引継ぎの書類は、明日、管理事務所へ届けます」
彼も緊張しているのだとわかった。繋がれた手に、さっきより力が入っていた。
平気なわけではない。生まれたときから側にいた母親に、もう頼らないと告げている。住む家も、毎日通っていた仕事も、一度に変わる。
彼がこちらを向いたとき、私はその手を握り返した。
「お部屋に荷物を運ぶ前に、教えてくださいね。本棚を少し空けておきますから」
「測量の本が多いんですが、大丈夫でしょうか」
「帽子の見本は寝室へ移せます」
夫人が卓を叩いた。
カップが鳴って、私たちはそちらを見た。
「そんな狭いところに、息子を住ませるつもりなの?」
「僕が住みたいんです。あの店の上なら、エリーズが帰ってくる階段の音が聞こえるので」
彼の返事に、私は母親の前だということを忘れかけた。
私の家の階段は古くて、上から二段目が必ず鳴る。結婚したらそこを直しましょうと、彼は以前言っていた。
直したいのか、聞いていたいのか、どちらなのだろう。
「階段は、直してくださるんですよね」
「はい。そこは直します。足音は、ほかの段でも聞こえますから」
笑うのを堪えたら、変な息が出た。
夫人の顔が険しくなる。私は慌てて口元を引き締めたが、もう遅かった。
家をなくして、お金をなくして、どちらかが逃げるはずだった。その話の続きで、私たちは同じ家に住む相談をしていた。
「アルマン。あの家の家具も馬車も、あなたのものではないのよ」
「承知しています。服と本と、自分の測量道具だけを持って出ます」
「後から泣きついても、知りませんからね」
彼は一度、息を整えた。
「結婚をやめれば助ける、というお金は受け取りません。今日はそのことを、はっきりお伝えできてよかったです」
夫人が私へ目を向けた。
説得してちょうだい、と言いかけたように見えた。けれど、私こそが、息子に来てほしいと言った女だ。夫人は唇を結び、卓上の封筒を引き寄せた。
私は頭を下げた。お礼の言葉は出なかった。
アルマン様が扉を開けてくれたとき、背後から、待ちなさい、と声がした。
「話はまだ終わっていないわ」
彼が振り返った。
「これからの暮らしを、二人で相談します。失礼します、母上」
夫人は立ち上がったものの、それ以上は何も言わなかった。
私は彼と一緒に廊下へ出た。彼の手は、繋いだままだった。
* * *
屋敷の門を出て、通りの角を曲がったところで、足が止まった。
アルマン様がこちらを向く。その顔を見たら、堪えていた涙が出てしまった。
「すみません。ちょっと、怖かったです」
彼はすぐに、道の端へ寄ってくれた。
人通りを避けたところで手巾を渡され、私は目元へ押し当てる。いい返事ができた、立派に振る舞えた、そんな気持ちにはなれなかった。もっと落ち着いて言えたことも、黙っていればよかったことも、いくらでも思い浮かぶ。
「一人であんなことを言われていたとは知りませんでした。母と二人きりにして、すまなかった」
「あなたも三時に来るように言われたのでしょう。それに、私、自分から言ったんです。養いますって」
そう言ったら、今さら顔が熱くなった。
何を言っているのだろう、私は。求婚してもらったときには嬉しくて返事が精一杯だったのに、今日は彼のお母様へ向かって、息子を食べさせると宣言してしまった。
彼が笑ったので、私は手巾の上から睨んだ。
「笑うところではないと思います」
「嬉しいんです。僕はずっと、君を迎えるための家をどうするか考えていました。君のほうが、僕を迎えてくれるとは」
彼の声が少し掠れた。
顔を見上げると、さっき屋敷で笑っていたときとは違う表情だった。目元が赤い。私だけが泣きそうだったのではないとわかって、胸がぎゅっと痛くなった。
「エリーズ。僕は母の用意した相手と、何不自由なく暮らすために生まれたつもりはありません。君と結婚したくて来たんです。今日も、そのために」
「では、私と結婚してください」
考えるより先に、言っていた。
彼が目を見開く。今度はちゃんと私から言えたことが嬉しくて、涙の残った顔で笑ってしまった。
「私の家、狭いですけれど。台所も、二人で立つとぶつかりますけれど」
「ぜひ。ぶつからないように、練習します」
彼が私を抱き寄せた。
通りの角で、いつ人が来るかわからない。だから少しだけのつもりで腕を回したのに、彼の上着を掴むと、離れたくなくなった。
母親を失ったような顔をしてほしくなかった。代わりになれるとも思っていない。ただ、ここから一緒に行く相手がいることを、何度でも伝えたかった。
「今日の夕食、うちで食べませんか。宿を探すのは、そのあとでも」
「伺います。何か買っていくものは?」
「卵を。二人で食べるなら、足りないんです」
彼が頷いた。家を出るための荷物をまとめ、今夜からは安い宿へ移るという。
私は涙を拭き、どのくらい食べる方だったかを真剣に思い出した。
恋人として向かい合っていたときより、明日のことが近かった。
* * *
二週間後、私はアルマンの妻になった。
式には友人たちが来てくれた。隣の花屋のリュシーが用意してくれた花を髪へ挿し、彼と並んで誓いの言葉を口にした。
彼のお母様は来なかった。何度か届いた手紙には、一人で戻るのなら、という条件がついていた。彼は自分で返事を書き、帰らなかった。
この店での暮らしを、後から結婚を許してもらうための仮住まいにはしない。式の前に、二人でそう決めた。
店の注文は減った。
夫人からの注文はなくなり、紹介していただいた方の幾人かも来なくなった。すぐに新しいお客様が増えたわけではない。私は布の仕入れを減らし、店の看板を替えるのをやめた。
けれど、前から通ってくださるお客様はいた。来月の集まりに間に合うように、と帽子を頼んでくださる。その注文を、いつもどおり丁寧に仕上げた。
売上で足りない月の分は、蓄えから出した。
アルマンは式までに私物の引き取りと仕事の引継ぎを済ませ、その後も職探しを続けていた。
最初の面接は、経験のある土地が葡萄畑だけでは困る、と断られた。二度目は、すでに人が決まっていた。帰ってきた彼は、残念そうに上着を脱ぎ、それから、夕食は何をしようかと尋ねた。
慰めるために、もう働かなくていいとは言わなかった。私も彼も、次の仕事が決まってほしかったからだ。
「今日は私が作ります。玉葱だけお願いしてもいい?」
「切り方に、指定はありますか」
「食べられる大きさなら」
その返事をしたことを、鍋の前で少し後悔した。彼の切った玉葱は、大きさが見事にばらばらだった。
同じ時間では煮えないと教えると、彼は大きなものを拾って切り直した。翌日は先に私が一つ切って見せ、そのとおりに揃えてくれた。
何でも上手にできる人ではない。けれど、知らないからと私へ戻してしまう人でもなかった。
階段は、彼がすぐに直した。
代わりに、夕方の店の扉の鈴を、私が閉店した合図だと思い込むようになった。最後のお客様をお見送りしただけなのに、二階から顔が覗く。
「もう上がってきますか」
「まだ片づけが残っています」
「では、手伝いに行きます」
急いで下りてくるので、私は毎度、転ばないでねと声をかけた。
それから二人で箱を棚へ戻し、床に落ちた糸を拾う。先に二階へ上がる彼が、今度こそ帰ってくる私を待っている。
彼のお母様の言ったことが正しかったと思う日は、なかった。
狭いと思う日は、何度もあったけれど。
* * *
結婚から一月が過ぎた頃、三度目の面接で、アルマンの仕事が決まった。
街道工事の測量を請け負う事務所で、まずは補助から始めることになった。以前より給金は少ないし、遠くまで出かける日もある。それでも彼は、採用の知らせを受けた帰り、店の前で私を見つけるなり大きく手を振った。
お客様がいるので、叫ぶのだけは堪えたらしい。
私も堪えた。お見送りを済ませて扉を閉じると、二人で抱き合った。
初めて給金をもらった夜、彼は焼いた肉と小さな菓子を買って帰ってきた。
私もちょうど、祝いに買った菓子を食卓へ出していたところだった。同じ店の包みを見比べて笑い、明日の分もあるわねと言った。
「これからは、僕が食費を出します」
肉を切り分けながら、彼が言った。
私は自分の皿を受け取り、少し考えた。言ってくれるのは嬉しい。しばらく負担が軽くなるのも、本当に助かる。
「ありがとう。では、屋根の修繕に貯めていた分を戻せます。ただ、毎月必ずあなたが全部、という約束にはしないでおきましょう」
「仕事がなくなるかもしれないから?」
「私が風邪を引くかもしれませんし、今度はあなたを食事に誘いたくなるかもしれません。二人とも働くんですから、そのたびに相談すればいいと思うんです」
彼は頷いて、私の向かいへ座った。
小さな食卓だった。帽子の箱を一つでも置けば、食事の皿が並ばなくなる。結婚前には、ここに本当に二人で暮らせるだろうかと心配した。
今は、彼が今日どんな仕事をしたのか、早く聞きたかった。
「今日の測量は、うまくいきました?」
「それが、話したいことがあって。昼に一つ、間違いを見つけたんです」
彼が夢中になって説明を始めた。
私は肉を食べながら相槌を打ち、彼の指がパンへ伸びたところで、自分の分を取り上げた。
「畑にしないでくださいね」
「今度は街道です」
真面目に訂正されて、笑ってしまった。
彼も笑い、パンをちぎって食べた。私が作った帽子の話を始めると、今度は彼が聞く番になった。
食事を終えても、まだ話したいことがある。けれど、もう送り届けてもらう時間は気にしなくてよかった。
食器を片づけようと二人で台所へ立ったら、案の定、肩がぶつかった。
すみません、と彼が言い、私が一歩避ける。今度は彼も同じほうへ動いたので、二人して立ち往生した。
「まだ練習が足りませんね」
「毎日、練習できますから」
私が言うと、彼は皿を台へ置き、こちらを向いた。
近いと思った瞬間、額へ口づけられた。洗うために腕まくりをしたまま、私は笑って彼の胸に手を置いた。
「洗い終わるまで、待っていてくださいね」
私が言うと、彼は道を空け、洗った皿を受け取る布を手にした。二人で片づければ、次の楽しみまで早かった。
最後の皿を棚へ戻し、私は手を拭いた。振り返ると、彼はもう両腕を広げていた。
笑いながら飛び込んで、今度は私から唇へ口づけた。
「今日も、帰ってきてくださってありがとう」
抱きしめる腕が強くなった。彼が返事の代わりに頬へ顔を寄せるので、くすぐったくて、私はまた笑ってしまった。
私は彼を選んだおかげで、ずいぶん狭い台所に立っている。
夫の腕がすぐ届くことだけは、少しも困らなかった。
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