Episode1. 演劇の始まり
北の春にようやく暖かさが訪れた頃。陽光が差し込む公爵邸の一室で、リリアは姿見の前に立ち、見慣れた彼の姿を見つめていた。
漆黒の髪を完璧に撫で付け、銀糸の刺繍が施された濃紺の軍礼装。鋭い眼差しと、鍛え上げられた逞しい体躯。鏡の中にいるのは、エリュシオン王国の盾、アルベルト・フォン・ノイシュタインその人だ。
だが、その中身はアルベルトではなく、その婚約者、リリア・ド・ヴァロワである。
彼女は、姿見に映る鏡像に向かって、重い溜息を吐き出した。
「……とうとう、この日が来てしまったわ」
今日は、王太子セドリックを迎えての舞踏会。戦いの本番だ。
――アルベルトと身体が入れ替わってから、早二週間。
それはリリアにとって、人生で最も過酷な日々だった。
この二週間、二人は入れ替わりの原因を特定すべく、ハンスの指示により、あらゆる儀式を試した。軍神の像の前で互いの額を合わせ、あるいは手を繋ぎ、祈りを捧げた。果ては公爵家の地下倉庫に埋もれた眉唾ものの古文書を漁り、片っ端から呪いを実践した。けれど、二人の身体が戻ることはなかった。
原因不明の絶望の中、ハンスは同時に、指導という名の地獄の試練を二人に課した。
朝の光が差し込む前から深夜まで、リリアはアルベルトの体で、彼の歩き方、視線の配り方、そして、公爵としての冷徹な覇気を叩き込まれた。
ハンスの指導に従ううちに、リリアはアルベルトがどれほど孤独な場所で戦ってきたかを知った。この肩には、北方の領民数万人の命と、王国の盾としての重圧が、文字通り重りのように乗っている。
リリアは、アルベルトに認められようと、必死に食らいついた。ハンスに「効率的な極限」と言わしめるほどの密度で詰め込まれた帝王学。おかげで今の彼女は、黙っていれば、あるいは少し傲慢に振る舞えば、誰もがノイシュタイン公爵だと信じて疑わないだろう。
(……アルベルトは、毎日これほどの重責を、たった一人で背負っていたのね)
だが、今の彼女にとって最大の懸念は、公爵としての重責よりも、今日訪れる一人の男にあった。
王太子セドリック・フォン・エシュリオン。
エシュリオン王国の若き太陽。生まれながらにして、王者の風格を備えた男。
彼は、アルベルトの認識では「リリアの最愛の幼馴染」――しかし、リリアにとっては、最も警戒すべき天敵だ。
セドリックは、リリアが密かに抱くアルベルトへの恋心を看破している唯一の人間であり、会うたびに「アルベルトとは進展した? ――へえ、まだなんだ?」と、秘密を素手で握り潰すような真似をして楽しむ、最悪な男なのだから。
そんなセドリックが、今日から二週間、この屋敷に滞在することになっている。考えるだけで眩暈がするが、半年も前から決まっている予定で、リリアにもアルベルトにも、どうすることもできなかった。
(セドリックとアルベルトを、絶対に二人きりにしないようにしないと。でないと、私の気持ちが全部アルベルトに筒抜けになってしまう。それだけは、何があっても阻止しないといけないわ……!)
入れ替わりを悟られる方が不味いのだが、優先順位がバグっているリリアである。
そんな決意を固めている彼女の背後で、情けない叫びが上がった。
「……っ、ぐ、は……っ! ま、待て、これ以上は…………死ぬ……これでは、息が……」
「閣下、動かないでください。リリア様のお身体は、閣下のそれとは比較にならないほど華奢なのです。コルセットを締めねばドレスのラインが崩れます。――さあ、お前たち、もっと締めなさい! 遠慮は無用ですよ!」
「はい、ハンス様! 行きますわよ、旦那様! 息を、吐いて!!」
「……ぅ……、ぐぅぅう……っ」
視線を鏡の端に向ければ、そこには、今まさにコルセットの暴力的な圧迫に悶絶しているリリアがいた。そんなアルベルトを囲むのは、二人の入れ替わりをハンスから告げられ、公爵家への沈黙の誓いを立てた選り抜きの侍女たちだ。
「この程度で泣き言だなんて、公爵の名が泣きますわよ!」
「リリア様は、毎日この締め付けに耐えていらっしゃったのですから! さあ、あと三センチ!」
「……お、おのれ……っ、俺を……誰だと……」
アルベルトの顔色は、最悪だった。
もともと色白なリリアの肌は、過酷なダンスの練習と睡眠不足、そしてコルセットのせいで、今にも幽霊のように透き通ってしまいそうだった。目の下には薄く隈が浮き、その痛々しさにリリアの胸が締め付けられる。
(……ああ、私の身体が……)
だが、アルベルトを責めることはできない。
リリアは知っていたからだ。アルベルトがこの二週間、リリアの身体で大量の軍務書類を裁き、慣れないヒールで何度も転びながら女性のダンスを覚え、隙間時間の全てを入れ替わりの調査に当ててくれていることを。
(あんなにボロボロになるまで頑張ってくれるなんて……。でも、勘違いしちゃいけないわ。アルベルトがあんなに必死なのは、早く元の身体に戻って、私と婚約破棄するためなのだから)
二週間前――アルベルトから『婚約破棄』を告げられたときの記憶が、胸を抉る。
あの夜、アルベルトは自分に一瞥もくれずに席を立った。あまりにも冷たい背中に、声をかけることさえできなかった。
彼は私を愛していない。どころか、ヴァロア家との『血の盟約』を無視してまで、婚約を破棄しようとした。それほどまでに、自分は彼に疎まれているのだろう。
――でも、もしかしたら。
リリアは不意に、先日の夕食での会話を思い出す。
『ねえ、アルベルト。最近、少し無理をしすぎじゃない? 夜はちゃんと寝ているの?』
リリアは、アルベルトのあまりの顔色の悪さに、憎まれ口を叩くのも忘れ、体調を案じた。
すると、アルベルトは苦々しい表情を見せつつも、このように答えたのだ。
『……君の身体に無理をさせて、すまないと思っている』
たったそれだけ。たった一言。
けれどあの言葉は、まるで自分を案じてくれているように聞こえた。
――その時だ。
アルベルト付きの侍従が、セドリック来訪の先触れを伝えにきた。
「旦那様。もう間もなく、殿下が到着されるとのこと」
「……わかった」
リリアはアルベルトの低い声で答えると、ようやくドレスの支度を終えたアルベルトと顔を見合わせ、深く頷き合う。
「……行くぞ、リリア」
「ええ、アルベルト」
リリアは、不仲な婚約者との破局を冷徹に望む、王国最強の騎士――アルベルトとして。
アルベルトは、最愛の男との再会に胸を躍らせる、可憐な淑女――リリアとして。
互いに致命的なまでの誤解を鎧のように纏い、二人は波乱の待ち受ける舞踏会へと、足を踏み出した。




