Episode4. 鉄火場のマリオネット
ノイシュタイン城の長い石造りの廊下を抜け、閣議室の扉の前に立ったとき、リリアは心臓の鼓動が軍服を突き破るのではないかと思うほどの緊張に包まれていた。
扉の向こうからは、低く濁った男たちの話し声が漏れ聞こえてくる。
(……しっかりなさい、リリア。あなたは今、アルベルト。何があっても動じない、氷の公爵なのよ)
リリアは大きく一度深呼吸をし、意を決して扉を押し開けた。
一瞬で、室内の空気が、若き公爵アルベルトに向け、「品定め」の色を帯びて重くなる。
円卓を囲むのは、顔に古い傷跡を持つグスタフ将軍を筆頭に、北の防衛を担う武骨な男たち。そして利権に鼻を利かせる官吏たちだ。
リリアは一言も発さず、アルベルトから教わった通り、一番奥の上座へと腰を下ろした。長く逞しい足を無造作に組み、腕を組んで目を閉じる。
「――では、閣下。本日の最初の議題について」
口火を切ったのは、グスタフ将軍だった。
ここから、リリアにとっての「終わりのない地獄」が始まった。
会議が始まって一時間。彼女はアルベルトの助言通り、何を問われても「鼻で笑う」か「検討の価値もない」という一言だけで乗り切ってきた。
だが、次第に議論はヒートアップし、収集がつかなくなっていった。
今の議題は『軍馬の冬用飼料の調達』について。
アルベルトの方針は、従来から癒着のあった地元ギルドを切り捨て、新興の商会から安価に飼料を買い付けるというものだ。しかし、事情を知らないリリアには、男たちの叫びが正義の訴えにしか聞こえない。
「地元の商人を見捨てるのですか、閣下! 北の結束を乱せば、冬の国境は守れませんぞ!」
「そうだ! 新興の商会など、どこまで信用できるか!」
(……どうしましょう。地元の皆様が困っているのに、『検討の価値なし』と返事をしてしまっていいの……?)
一時間半が経過した頃には、リリアの疲労はピークに達していた。
アルベルトの身体は強靭だが、精神はただの令嬢だ。慣れない軍服の重み、腰に下げた剣が椅子に当たる違和感。そして、何より「アルベルトを演じ続けなければならない」という重圧が、じわじわと彼女の正気を削っていく。
目の前の書類に並ぶ数字は、もはや意味をなさない記号の羅列に見えていた。
「答えよ、公爵! 我々の忠誠を、ただの金勘定で切り捨てるのか!」
グスタフが激昂し、机を強く叩いた。
――その瞬間。
リリアの脳裏に、公爵邸の机に置かれていた、あの「真っ二つに折れたペン」が鮮明に浮かび上がった。
(ああ、アルベルト……あなたは、毎日こんな思いをして。こんなに恐ろしい場所で……!)
男たちの罵声。向けられる敵意。
孤独に耐えてきた彼を想う心が、恐怖を上回った。
同時に、限界を迎えていた彼女の理性が、ぷつりと音を立てて千切れた。
「――お黙りなさい!!」
リリアは立ち上がり、思い切り机を叩いた。
アルベルトの逞しい喉から放たれたのは、地鳴りのような重低音。しかし、その語尾は、あまりにも優雅で、あまりにも気高く……あまりにも不自然な響きを帯びていた。
「さっきから黙って聞いていれば、あなたたち……っ」
――ハッとして、リリアは自分の口を押さえた。
今、自分は何と言った?
室内が、死んだような静寂に包まれた。
グスタフ将軍は口をあんぐりと開け、隣の官吏は持っていた羽ペンを落とした。
「お黙り……なさい……?」
「いま、閣下は……」
「聞き間違いか?」
男たちの困惑した視線が、一斉に、アルベルトの体に入ったリリアに向けられる。
リリアは全身から血の気が引くのを感じた。
公爵の威厳を保とうとした結果、土壇場で、長年身体に染み付いた「令嬢としての言葉」が、よりによってこの鉄火場で漏れ出てしまったのだ。
(やってしまったわ……! どうしよう、どうしたら……!)
リリアはもはや、青白い顔で立ち尽くすしかなかった。




