Episode3. いざ、戦場へ
重厚な石造りの廊下に、アルベルトの軍靴の足音が響く。
リリアは、腰の長剣が腿を叩く感触に冷や汗を流しながら、必死にアルベルトの歩きを模倣しようとしていた。
「旦那様、もしや、足をお怪我されているのですか?」
老執事の怪訝そうな指摘に、リリアは心臓が跳ね上がるのを必死に抑えて、顔を上げる。
「――い、いや、そんなことは……」
そんなに変な歩き方をしているだろうか。
否定してみるものの、正直、とても歩きにくい。
まず、視界が高い。あまりにも高い。
いつもなら自分を優しく見下ろしているはずの執事が、今は二回り小さく見える。
この逞しい身体の中にいるのが、花を愛でることしか知らない令嬢リリアであるなど、一体誰が信じるだろうか。
玄関ホールに続く長い廊下には、歴代ノイシュタイン公爵の肖像画が並んでいる。
その一番右端には、アルベルトの亡き父、先代公爵の肖像画が飾られ――皆一様に、氷のような瞳で、リリアを見下ろしていた。
その圧力に、背筋が震える。
(……怖い。昨日までは、何とも思わなかったのに)
エリュシオン王国において、この家系は「王国の盾」と呼ばれ、軍事力と冷徹な知略のみでその地位を築き上げてきた。
アルベルトの身体に入ったせいか、その責任と重圧を一気に背負わされている錯覚に陥る。
(……アルベルト。本当に、私にあなたの代わりが務まるかしら)
リリアは心を鎮めようと、足を止め、軍服の襟元を正そうとした。
けれど、指が震えて上手くいかない。
アルベルトの指は長く、節くれ立っていて、剣の重みを知る硬いマメがある。その無骨な手が、今は自分の意思で動いていることに吐き気がするほどの違和感を覚えた。
(……でも、やらなきゃ)
リリアが再び歩きだそうとした、その時。
「――お待ちになって、アルベルト様!」
背後から響いたのは、凛とした、鈴のような声。
リリアが振り返ると、そこには見事にドレスを着飾った自分……アルベルトが、侍女たちを連れて立っていた。
アルベルトは、ドレスの裾が絡まりそうになるのを淑女らしい(と彼は思っているのだろう)小走りで誤魔化しながら、リリアへ歩み寄ってくる。
「……っ、どうした、リリア」
リリアは心臓の鼓動を抑え、アルベルトの低い声で、できるだけぶっきらぼうに問いかけた。
するとアルベルトは、リリアの華奢な身体で背伸びをし、リリアの軍服の襟元に手を伸ばす。
「襟が曲がっておりますわ。……じっとしていてくださいませ」
侍女たちが「まあ、なんと仲睦まじい」と言わんばかりに目を細める中、二人の距離が、物理的にゼロになる。
アルベルトの手が、手慣れた……あるいは少しばかり手荒な動きで襟元を整えた。
「……いいか、よく聞け、リリア」
周囲に聞こえないほどの低域の囁き声。リリアの姿をしたアルベルトが、至近距離から鋭い視線を送る。
「今日の閣議は、俺の右腕である補佐官のハンスが不在だ。奴がいれば大抵のことは丸投げできたんだが、運悪く昨夜から国境の視察へ出している。つまり、フォローは期待できない」
(……補佐官が、いない!?)
リリアは絶望に目を見開いた。いつもアルベルトを支えている有能な部下がいない。それは、彼女がたった一人で、野獣のような軍人たちを相手にしなければならないことを意味していた。
「不安だろうが、策はある。……『沈黙』を貫け。閣議の席では、腕を組んで目を閉じ、何を言われても鼻で笑う程度でいい。もしどうしても発言を求められたら、『検討の価値もない』とだけ言え。いいな? それが一番『俺』らしい」
「そ、そんなの、無茶だわ……」
「君ならできる。猫を被るのは、君の十八番だろう?」
「……っ」
アルベルトは最後に、リリアの胸元の勲章を力強く弾いた。
「……お気をつけて。わたくし、ここでお帰りを信じて待っておりますわ。……アルベルト様」
その言葉と、彼が込めた「託す」という意志に、リリアの胸が熱くなる。
昨夜、自分に婚約破棄を突きつけた男が、今は可憐な乙女の仮面を被り、己の命運をすべて自分に預けている。
「……ああ。行ってくる」
リリアはアルベルトらしく短く、けれど確かな決意を込めて頷いた。
執事に促され、城塞へと向かう馬車に乗り込む。
遠ざかる公爵邸の玄関で、リリアの姿をしたアルベルトが、淑女の礼を完璧に、しかしどこか威圧感たっぷりに決めて、自分を見送っていた。




