Episode11. 夜明けの兆し
リリアは死を覚悟した。
自分は兄に斬られて死ぬのだと、絶望のままに瞼を閉じた。
けれど、その瞬間だった。雷鳴のような怒号と共に、嵐のような暴風が駆け抜け、兄の姿が消えたのは。
(……え? 何……? 今、何が起きたの……?)
リリアは腰を抜かしたまま、茫然と目を瞬く。
目前に迫っていたはずのカシアンが、五メートルほど先で地面に片膝をついていた。突進してきた「何か」を避けようと、咄嗟に飛び退いたのだろう。寸前まで彼が握っていた大剣は、衝撃でその手を離れ、虚しく地面に突き刺さっている。
「……どういう、……こと」
いや、それよりも。
今聞こえた罵声は、聞き慣れた「自分の声」だった。つまり、今のは……。
リリアがゆっくりと首を回すと、そこにいたのは一騎の軍馬。馬の背から転がるように地面に飛び降り、なりふり構わずこちらへ駆けてくる――「自分」の姿。
「リリアッ!!」
「――っ」
――ああ、アルベルト……! アルベルトだわ……!
髪を振り乱し、ボロボロの姿で、自分の名前を呼ぶアルベルト。
その姿を見た瞬間、兄に殺されかけた恐怖も、これまで溜め込んでいた不安も、すべてが安堵の波となって決壊した。
「……アルベルト!」
束の間――気付いたときには抱き締められていた。
自分よりもずっと小さく、細い腕に、しっかりと抱かれていた。
「遅くなってすまない、リリア。……怖かったな。もう、大丈夫だ。大丈夫だから」
「……っ」
だが、耳元で囁かれるその声は、まるで母親を求める幼子のように震えていて――。
リリアは、悟る。
アルベルトが、どれだけ必死にここまで駆け付けてくれたのか。
攫われたのはアルベルトの方なのに。彼を救うべきは、自分の方だったはずなのに。
自分がアルベルトである以上、自分の身ぐらい、自分で守らねばならなかったのに。
アルベルトは責めるどころか、「怖かったな」と、「もう大丈夫だ」と、優しく慰めてくれている。
それが、とても嬉しくて、苦しくて……。
「……ごめ……なさ……、……ごめん……なさい……アルベルト……」
本当は、泣いたらいけないとわかっているのに。今の自分は、冷徹な公爵でなければならないのに――。
「なぜ君が謝る。悪いのは俺だ。俺が、もっと上手くカシアンに説明できていれば……」
「違う、……違うわ! ……全部……全部、わたしが悪いの! わたしがちゃんとお兄様に事情を伝えておけば、こんなことには……」
「いや、それこそ悪いのは俺だろう。俺が誰にも言うなと言ったんだ。それを、何をどう捉えたら君が悪いという話に……」
「どう考えてもそうなのよ! お兄様の性格を考えたら、こうなることくらい、もっと早く予想できたの……! なのに、私はすっかり浮かれて、忘れていたのよ! だから、私が悪いの……!」
「…………浮かれて? いったい何の話……」
「何でもいいでしょ! とにかく悪いのは私なの! 私がそうって言ってるんだから、黙って頷きなさいよ……! アルベルトの馬鹿ッ!」
「…………ば」
突然のヒステリックな一喝に、アルベルトは本気で困惑した。
――一方で、カシアン・ド・ヴァロアは、まるで痴話喧嘩のごとく言い争いを繰り広げる二人を前に、茫然と立ち尽くしていた。
「……は……?」
(何だよ、これ。……どういうことだ? まさか、二人は本当に入れ替わってるっていうのか?)
信じられなかった。信じたくなかった。
けれど、目の前の二人が交わすちぐはぐな会話が、残酷なまでに真実を告げている。
目の前で、勇猛なはずの公爵が、ドレスを血に汚した妹に抱かれ、リリアの口調で泣き喚くその姿が――二人の入れ替わりを、嫌というほどに証明していた。
――つまり、自分が斬り伏せようとしたのはリリアであり、そしてまた、宿屋で『リリアを愛している』と情けなく叫んだあれは、アルベルトだったということだ。
しかも自分は、最後の最後まで、アルベルトに止められるまで、妹の正体に気付かなかった。
「…………クソ、…………最悪だ」
――その時、カシアンの首筋に、背後から、氷のような切っ先が添えられた。ハンスだ。
ハッと周囲を見回せば、いつの間にか数名の騎士に囲まれている。
「ヴァロア卿、降伏してください。貴方の負けです」
「ッ…………は。……んだよ、ハンス。……俺はもう丸腰だ。そっちこそ武器を下ろせよ」
「そうしたいのは山々ですが、貴方ほどの実力があれば、剣など無くとも数人程度は相手にできるでしょう?」
「……それは流石に買いかぶりが過ぎるってもんだ。――安心しろよ。あんなの目の前で見せられたら……嫌でも理解する」
もはや、リリアは自分の方を見ようともしない。
――だが、それも当然だ。人違いとはいえ、自分はリリアを殺そうとしたのだから。
騎士としての誇り、兄としての正義感。その両方を失ったカシアンは、抵抗することなく、騎士たちに引き立てられていった。
嵐が、去った。
アルベルトは、興奮冷めやらぬリリアをどうにかハンスに託し、その背中が屋敷の中に完全に消えるのを見届けてから、ズルズルと地面に崩れ落ちた。
「……っ、……」
切り傷だらけの手首、ギシギシと悲鳴を上げる体中の関節、そして、下腹部を襲う激痛。リリアの可憐な身体は、もはや指一本動かす余力さえ残っていない。
きっとあと三十秒立ち続けていたら、リリアの前でぶっ倒れていただろう。
「これは、明日が怖いな……。リリアの怒りの顔が、目に浮かぶ」
傷のこともそうだが、カシアンを暴走させたこと。リリアを危険に晒したこと。――謝らなければならないことが多すぎる。考えるだけで頭が痛い。
いや、事実、既に頭も体も疲労困憊なのだが。
そこへ、街から戻ったヨハンとラインハルトが駆け寄ってきた。
「閣下――!」
――閣下。そう呼ばれたことで、アルベルトはもう一つ、自身の失態を思い出した。そうだ、自分は街で、部下たちを叱咤してしまったのだ、と。
彼らに、何と言われるだろうか。責められるか? それとも、気を遣われるか……。
身構えたアルベルトだったが、予想に反して、二人は驚くほど平然としていた。
「閣下、ご無事ですか! 何という無茶を……!」
「今すぐ手当てを! ああ……今はリリア様とお呼びすべきでしょうか!」
(? こいつら、思ったよりも普通だな。……いや、寧ろ……)
「……リリアでいい。それより、お前たち……驚かないのか?」
「……驚く?」
二人は、顔を見合わせる。
「ええ、それは勿論、驚いておりますが……」
「はい、当然、衝撃を受けております」
「いや、それのどこが驚いている人間の態度だ。まさかお前たち、ハンスから何か聞いていたのか?」
アルベルトが追及すると、二人は慌てて首を振った。
「そんな、まさか!」
「ただ……我々は……」
「何だ。言ってみろ」
「では、僭越ながら……。……実は以前より、皆で噂していたのです。近頃閣下の様子が変だ、と。あんなに現場がお好きだったのに、手合わせどころか、顔を出すことすらめっきり減って……しかも時折、まるで聖母のような瞳で我らを見つめになられるので、閣下のご趣味が変わられたのかと不気味に思……ああいや! 何か重大なご病気なのではと、心配していたのです……!」
「で、ですが、今回の件で心底安堵……納得いたしました。他の皆も、これで安心することでしょう!」
言い終えると、二人は満足げに、堂々と胸を張る。
「お前たち、今の失言――わかってて言ってるだろう」
「失言……? 今の発言のどこに、失言が?」
「ありえません。我らは閣下に心から忠誠を誓っておりますから。……ああ、今はリリア様でしたか」
「…………」
主君をからかうように見下ろす二人に、アルベルトはすっかり緊張を削がれてしまった。
本当に、こいつらには敵わない。今まで悩んでいたのが、馬鹿みたいだ。
「全く、そんなことを言うのはお前たちくらいだぞ」
「そりゃあ、我々は昔から閣下に厳しくしごかれておりますから」
「鍛え方が違いますよ。閣下一人に頼り切りな我々ではありません」
ビシッと騎士の敬礼を取る二人に、アルベルトはとうとう吹き出した。
彼らを見ていると、全てがどうでもよくなってくる。――頼ってくれていいのだと、一人で背負い込まなくていいのだと、許してもらえた気がした。
「本当に頼もしい奴らだよ、お前たちは。……ほら、肩を貸せ。情けないが、この身体は限界だ。もう一歩も動けそうにない」
アルベルトは、隙だらけで手を伸ばす。
すると、二人はあからさまにテンションを上げた。
「! 我らが主君を支えられる日が来ようとは、何と光栄なことでしょうか!」
「そうだ、リリア様。いっそのこと、お姫様抱っこをするのはどうです? ベッドの上までお運びしますよ!」
「…………おい、お前たち。それは流石にふざけすぎだ」
二人に体を支えられながら、アルベルトは夜空を見上げた。
雲間に浮かぶ月は、何事もなかったかのように静かに地上を照らしている。
「…………はあ、全く。……今日は酷い一日だったな……」
独り言のように零れたその声は、夜風にさらわれて消えていく。
アルベルトは、リリアの可憐な面差しに疲れ果てた安堵を浮かべ、二人の騎士の間で、眠るように意識を手放した。




