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犬猿の仲の婚約者と身体が入れ替わってしまった 〜侯爵令嬢リリアと若き公爵アルベルトの男女逆転生活〜  作者: 夕凪ゆな
Stage3. 紅の洗礼

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Episode10. 紅蓮の快進撃


 ――少し時を遡る。


 旧市街地の安宿の一室。

 カシアンが立ち去り、静まり返った闇の中で、アルベルトは獣のような執念で身をよじっていた。


(……待っていろ、リリア。すぐに行く……!)


 部屋は惨憺たる有り様だった。


 テーブルは倒れ、床には食事のトレーがひっくり返り、砕け散った陶器の破片が散乱している。倒れたコップから溢れた水が、不格好な水たまりとなって染みを作っていた。


 そんな中、アルベルトは背後に回された手で陶器の破片を握りしめ、手先の感覚だけを頼りに、絹の帯に必死にこすりつけていた。


 掌には、無数の切り傷ができている。避けた皮膚から滴る血が、ドレスを赤く汚していく。

 だが、アルベルトは決して手を止めなかった。


 今、彼の脳内を支配しているのは、剥き出しの焦燥。そして、リリアへの狂おしいほどの情愛だけ。

 リリアが死ぬかもしれないとなった今、腹部を抉るような鈍痛も、皮膚が裂かれる鋭い痛みも、掃いて捨てるほどのものでしかなかった。


 ただ一つ危惧するべきことがあるとすれば、それは、リリアの肌に一生残る傷痕をつけてしまうということ――しかし。


「許せ、リリア。……全ての責任は、俺が取る」


 ――ああ、リリア。


 この一件が片付いたら、俺は、どんな責め句でも受け止めよう。

 君の望みを、何だって受け入れよう。

 彼女が俺を蔑み、『一生許さない』と罵られても構わない。俺の死を望むなら、この首を差し出したっていい。


 あるいは、もしもカシアンが言っていたように、彼女が俺を愛してくれているのなら――もし、彼女が俺を赦してくれるなら、俺は彼女を生涯愛し抜き、幸せにすると誓う。世界で最も幸福な女性にすると約束する。


 だから、リリア。どうか、今だけは許してほしい。


 

 ――ブツリ。


 不意に、抵抗が消えた。


「よし……!」


 自由になった手で、即座に窓を明け放つ。吹き込む夜風に打たれながら、雨樋の強度を確かめた。


 ――どうにか降りられそうだ。だが、今の自分は裸足である。このままでは、とてもではないが走れない。

 

 アルベルトはベッドシーツをはぎ取り、陶器の破片で布を引き裂いた。それを足の裏から甲、足首にかけて幾重にもきつく巻き付けていく。

 即席の足巻(ゲートル)。不格好だが、これで夜道を駆ける準備は整った。


 アルベルトは、汚れたドレスの裾を翻し、窓から雨樋を伝って地上へと滑り降りると、闇を切り裂くように駆けだした。




 表通りに出たところで、松明の明かりが揺れた。ノイシュタイン家の私兵たちだ。

 アルベルトは躊躇なく、軍馬の前に躍り出た。

 

「止まれッ!!」

「――っ!?」


 暗がりから突然飛び出してきた少女に、騎士らは慌てて手綱を引く。


「おい、娘ッ! 死にたいのか――って、貴女は、リリア様……!?」


 騎士たちは絶句した。

 目の前に立つ少女――それが、ドレスを血に染め、髪を振り乱し、およそ令嬢とは呼べない姿になり果てた、ボロボロのリリアだったからだ。


「そのお姿は、一体……。いや、それより、早く手当を……!」

「構うな、かすり傷だ! そんなことより、今すぐ馬を寄越せ!!」

「えっ、それはどうい――ぐわっ!?」


 アルベルトは、最前列にいた騎士――ヨハンを馬上から力ずくで引きずり下ろした。その荒々しさに、騎士たちは唖然とする。


 アルベルトは手綱を奪い取り、鞍に跨ると、慣れ親しんだ部下たちの名前を、軍神の如き威厳を込めて呼びつけた。


「ヨハン、ラインハルト! お前たちは街に散った兵士を全員呼び戻せ! 残りの奴らは俺に続け! 屋敷に戻ってカシアンを捕縛する!」

「!?」


 名指しで指示を飛ばされた騎士たちは、雷に打たれたようにビクリと肩を震わせた。


 なぜ、リリアが自分たちの名前を知っているのか。なぜ、リリアの可憐な唇から、自分たちが心酔する主君と同じ声の響きが放たれているのか。


 口調だけではない。目の前で、軍馬に颯爽と飛び乗る身のこなし――それは紛れもなく、アルベルトそのもので。


 理解は追いつかない。だが、彼らの魂に刻まれた忠誠心が、脳の困惑を上書きした。


「は、はい! 直ちに!」


 アルベルトは、裸足に布を巻いた足で軍馬の腹を、リリアの身体の全霊をもって蹴り上げる。


「行くぞッ!!」


 リリアの身体が悲鳴を上げる。内臓を叩かれるような振動が、月経の苦痛を再燃させる。

 だが、アルベルトはその激痛を勇猛な精神力で捻じ伏せ、数人の騎士を引き連れて、屋敷へと爆走した。




 ――そして、現在。


 アルベルトは馬上から、ノイシュタイン邸の正門で繰り広げられる、ハンスとカシアンの修羅場を捉えていた。


「……ハンス!」


 門前では、愛剣を抜いたハンスが、狂犬と化したカシアンの猛攻を必死に(しの)いでいた。


 ハンスの防戦一方の姿に、アルベルトは即座に状況を察する。ハンスは、カシアンが「リリアの兄」であるために、その刃に殺意を乗せられずにいるのだ。


(馬鹿者が……! 手加減している場合か!)


 アルベルトは手綱を絞り、さらに速度を上げた。

 その時だ。激しい金属音の合間に、場違いなほどに細く、無防備な悲鳴が夜の空気に混ざった。


「きゃぁあああっ!!」


 それは、紛れもなく「自分」の喉から漏れた、リリアの悲鳴だった。


 その声に反応するように、カシアンがハンスを力任せに弾き飛ばし、首を巡らせる。その先には、柱の陰で腰を抜かし、震えている「自分」の姿があった。


「……アルベルト、そこかッ!!」


 カシアンの咆哮と共に、白銀の刃が月光を吸って跳ね上がる。

 アルベルトの視界の中で、カシアンがリリアに向かって、一直線に、迷いのない殺意で突進していくのが見えた。


(やめろ、カシアン!! それは(アルベルト)ではない! 俺の皮を被った、お前の妹――世界で最も守るべき女性なんだぞ……!!)


 カシアンが剣を振り上げる。

 その先で、リリアは、アルベルトの逞しい身体を持ちながら、ただ幼子のように身を竦め、死を待つように目を閉じた。


 ――刹那。


「カシアン――ッ!!」


 アルベルトは喉が裂けんばかりに叫ぶと、軍馬の全質量を伴って、カシアンの側面へと突っ込んだ。



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― 新着の感想 ―
部下たちの忠誠心に笑ってしまいました。 素晴らしいですね!笑
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