Episode10. 紅蓮の快進撃
――少し時を遡る。
旧市街地の安宿の一室。
カシアンが立ち去り、静まり返った闇の中で、アルベルトは獣のような執念で身をよじっていた。
(……待っていろ、リリア。すぐに行く……!)
部屋は惨憺たる有り様だった。
テーブルは倒れ、床には食事のトレーがひっくり返り、砕け散った陶器の破片が散乱している。倒れたコップから溢れた水が、不格好な水たまりとなって染みを作っていた。
そんな中、アルベルトは背後に回された手で陶器の破片を握りしめ、手先の感覚だけを頼りに、絹の帯に必死にこすりつけていた。
掌には、無数の切り傷ができている。避けた皮膚から滴る血が、ドレスを赤く汚していく。
だが、アルベルトは決して手を止めなかった。
今、彼の脳内を支配しているのは、剥き出しの焦燥。そして、リリアへの狂おしいほどの情愛だけ。
リリアが死ぬかもしれないとなった今、腹部を抉るような鈍痛も、皮膚が裂かれる鋭い痛みも、掃いて捨てるほどのものでしかなかった。
ただ一つ危惧するべきことがあるとすれば、それは、リリアの肌に一生残る傷痕をつけてしまうということ――しかし。
「許せ、リリア。……全ての責任は、俺が取る」
――ああ、リリア。
この一件が片付いたら、俺は、どんな責め句でも受け止めよう。
君の望みを、何だって受け入れよう。
彼女が俺を蔑み、『一生許さない』と罵られても構わない。俺の死を望むなら、この首を差し出したっていい。
あるいは、もしもカシアンが言っていたように、彼女が俺を愛してくれているのなら――もし、彼女が俺を赦してくれるなら、俺は彼女を生涯愛し抜き、幸せにすると誓う。世界で最も幸福な女性にすると約束する。
だから、リリア。どうか、今だけは許してほしい。
――ブツリ。
不意に、抵抗が消えた。
「よし……!」
自由になった手で、即座に窓を明け放つ。吹き込む夜風に打たれながら、雨樋の強度を確かめた。
――どうにか降りられそうだ。だが、今の自分は裸足である。このままでは、とてもではないが走れない。
アルベルトはベッドシーツをはぎ取り、陶器の破片で布を引き裂いた。それを足の裏から甲、足首にかけて幾重にもきつく巻き付けていく。
即席の足巻。不格好だが、これで夜道を駆ける準備は整った。
アルベルトは、汚れたドレスの裾を翻し、窓から雨樋を伝って地上へと滑り降りると、闇を切り裂くように駆けだした。
表通りに出たところで、松明の明かりが揺れた。ノイシュタイン家の私兵たちだ。
アルベルトは躊躇なく、軍馬の前に躍り出た。
「止まれッ!!」
「――っ!?」
暗がりから突然飛び出してきた少女に、騎士らは慌てて手綱を引く。
「おい、娘ッ! 死にたいのか――って、貴女は、リリア様……!?」
騎士たちは絶句した。
目の前に立つ少女――それが、ドレスを血に染め、髪を振り乱し、およそ令嬢とは呼べない姿になり果てた、ボロボロのリリアだったからだ。
「そのお姿は、一体……。いや、それより、早く手当を……!」
「構うな、かすり傷だ! そんなことより、今すぐ馬を寄越せ!!」
「えっ、それはどうい――ぐわっ!?」
アルベルトは、最前列にいた騎士――ヨハンを馬上から力ずくで引きずり下ろした。その荒々しさに、騎士たちは唖然とする。
アルベルトは手綱を奪い取り、鞍に跨ると、慣れ親しんだ部下たちの名前を、軍神の如き威厳を込めて呼びつけた。
「ヨハン、ラインハルト! お前たちは街に散った兵士を全員呼び戻せ! 残りの奴らは俺に続け! 屋敷に戻ってカシアンを捕縛する!」
「!?」
名指しで指示を飛ばされた騎士たちは、雷に打たれたようにビクリと肩を震わせた。
なぜ、リリアが自分たちの名前を知っているのか。なぜ、リリアの可憐な唇から、自分たちが心酔する主君と同じ声の響きが放たれているのか。
口調だけではない。目の前で、軍馬に颯爽と飛び乗る身のこなし――それは紛れもなく、アルベルトそのもので。
理解は追いつかない。だが、彼らの魂に刻まれた忠誠心が、脳の困惑を上書きした。
「は、はい! 直ちに!」
アルベルトは、裸足に布を巻いた足で軍馬の腹を、リリアの身体の全霊をもって蹴り上げる。
「行くぞッ!!」
リリアの身体が悲鳴を上げる。内臓を叩かれるような振動が、月経の苦痛を再燃させる。
だが、アルベルトはその激痛を勇猛な精神力で捻じ伏せ、数人の騎士を引き連れて、屋敷へと爆走した。
――そして、現在。
アルベルトは馬上から、ノイシュタイン邸の正門で繰り広げられる、ハンスとカシアンの修羅場を捉えていた。
「……ハンス!」
門前では、愛剣を抜いたハンスが、狂犬と化したカシアンの猛攻を必死に凌いでいた。
ハンスの防戦一方の姿に、アルベルトは即座に状況を察する。ハンスは、カシアンが「リリアの兄」であるために、その刃に殺意を乗せられずにいるのだ。
(馬鹿者が……! 手加減している場合か!)
アルベルトは手綱を絞り、さらに速度を上げた。
その時だ。激しい金属音の合間に、場違いなほどに細く、無防備な悲鳴が夜の空気に混ざった。
「きゃぁあああっ!!」
それは、紛れもなく「自分」の喉から漏れた、リリアの悲鳴だった。
その声に反応するように、カシアンがハンスを力任せに弾き飛ばし、首を巡らせる。その先には、柱の陰で腰を抜かし、震えている「自分」の姿があった。
「……アルベルト、そこかッ!!」
カシアンの咆哮と共に、白銀の刃が月光を吸って跳ね上がる。
アルベルトの視界の中で、カシアンがリリアに向かって、一直線に、迷いのない殺意で突進していくのが見えた。
(やめろ、カシアン!! それは俺ではない! 俺の皮を被った、お前の妹――世界で最も守るべき女性なんだぞ……!!)
カシアンが剣を振り上げる。
その先で、リリアは、アルベルトの逞しい身体を持ちながら、ただ幼子のように身を竦め、死を待つように目を閉じた。
――刹那。
「カシアン――ッ!!」
アルベルトは喉が裂けんばかりに叫ぶと、軍馬の全質量を伴って、カシアンの側面へと突っ込んだ。




