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犬猿の仲の婚約者と身体が入れ替わってしまった 〜侯爵令嬢リリアと若き公爵アルベルトの男女逆転生活〜  作者: 夕凪ゆな
Stage3. 紅の洗礼

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Episode8. 愛という名の取引


 ハッ――と目を開けたアルベルトの視界に飛び込んできたのは、打ちっぱなしの天井だった。揺れる蝋燭の炎が、石壁に不気味に長い影を伸ばしている。


(……どこだ、ここは)


 背中の感触は、使い古されたベッド特有の、湿った柔らかさだ。

 窓の外は闇に染まり、随分長い時間眠っていたことがわかる。

 しかし、身体は回復しているどころか、ひどく重い。下腹部を焼くような鈍痛は、意識を失う前よりも鋭さを増し、脂汗が額を伝っていった。


「……最悪な気分だ」


 アルベルトは毒づき、身体を起こそうとした。

 だが、即座に異変に気付く。


 両腕が背中の後ろで拘束されているのだ。縄ではなく、絹の帯のようだが、その結び目は王室騎士団の作法に則った、解こうとすればするほど食い込む「実戦的」な代物だった。


「……あの野郎、やりやがったな」


 アルベルトの脳裏に、意識が途絶える直前の屈辱が蘇る。


 昼間――アルベルトは屋敷にて、カシアンに正体を明かした。

 ノイシュタイン城に向かおうとするカシアンを大声で呼び止め、「何事か」と放心するカシアンの元に全速力で駆けつけると、「俺がアルベルトだ」「今のアルベルトは、リリアなんだ」となりふり構わず真実を突きつけた。

 だが、カシアンの瞳に宿ったのは、理解ではなく、大いなる絶望だった。


「……お前……まさか……」


 次の瞬間、震える声で呟いたカシアンに、腕を掴まれたところまでは覚えている。だが、その後の記憶がない。



「クソッ、……油断した!」


 まさか、あのカシアンが最愛のリリアに手を下すとは、流石に予想外だった。

 いや、自分がアルベルトだからこその強行か。――そう考えて首を振る。


 違う。あの時のカシアンは、自分の言葉を少しも信じていなかった。

 あの目に映ったのは、怒りでも困惑でもなく、もっと根源的な恐怖。絶望に打ちひしがれたような、この世の闇を覗いたような顔をしていた。


(俺の考えが甘かった。ハンスがすぐに気付いたからといって、あいつも同じだという道理はなかったのに……)


 アルベルトはすっかり思いこんでいたのだ。ハンスがすぐに自分とリリアの入れ替わりを信じたように、カシアンも当然信じるだろうと。


 だが、それは、アルベルトとリリア、二人揃って観察して初めて、到達しうる結論。片方だけを見て、この非現実を信じられる人間などいない。


 きっとカシアンの目には、今の自分が、『苦痛に耐えきれず、加害者のアルベルトに自己投影してしまった、哀れな妹』として映っているに違いない。


(……俺は、選択を間違えたようだ)


 しかし、起きてしまったことはどうしようもない。今は、状況の把握を最優先に考えるべきだ。


 アルベルトは、冷徹に騎士の思考を回す。

 どうにか重い身体を起こし、部屋の中を検分し始めた。


 ――まず、室内の備品から、ここが安宿であることが分かる。

 高位貴族のカシアンがこういった場所を選ぶとは意外だが、遠征中の狭いテントに比べれば、安宿でも十分ということだろうか。


 アルベルトは、不自由な身体を引きずるようにして、部屋の入り口のドアノブを、後ろ手でガチャガチャと回した。

 だが、当然のことながら、外から鍵がかけられており、開かない。


「――まあ、そうだろうな」


 次に、窓から外の様子を窺う。

 暗くてはっきりとは見えないが、ここは三階。夜の帳が降りた街のシルエットの中に、ノイシュタインの象徴である時計塔が浮かんでいる。星の位置と合わせると、ここが旧市街であることが推測できた。


(旧市街なら、屋敷まで馬で二十分ほどか。……脱出さえできれば。……あの雨樋を支点にするか? だが、この腕ではな。まずはこれを解かねば話にならん)


 だが、室内に腕の絹帯を切断できそうなものはない。

 アルベルトは諦めの息を吐く。


 そもそも、脱出してどうするというのか。カシアンが自分を屋敷から攫ったのは、何か目的があるからだ。ここで自分が逃げれば、カシアンは今度こそリリアに襲い掛かるだろう。


 ――いや、待て。そもそも、今、カシアンはどこにいる? もしかしたら、既にリリアのところに行っている可能性も……。


「……っ」


 さあ――と、全身の血の気が引いた。

 束の間、貧血状態のリリアの身体は悲鳴を上げ、なす術もなく、へたり込む。


「……クソ、……この身体は、どこまで……」


 その時だ。

 ガチャン、と背後で重い錠が外れ、扉がギィと音を立てて開いた。


 入ってきたのは、カシアンだ。

 アルベルトは咄嗟に壁に背を預け、カシアンを鋭く睨みつける。


 一方のカシアンは、手にしている食事のトレーを机に置くと、「妹」を痛ましげに見下ろした。


「……ごめんな、リリア。縛ったりして。でも、仕方なかったんだ。もし、お前が暴れて怪我でもしたら困るから」


 それは、恐ろしいほど穏やかで、感傷的な声。だが、その瞳は充血し、狂気じみた決意を湛えている。


(まさか、こいつ、昼間の俺の発言をなかったことにするつもりか? ――いや、そのつもりなら、腕を拘束したりはしないはずだ)


 きっと、カシアンは迷っているのだ。

 もし今、自分が「リリアの振り」をすれば、カシアンは腕を解いてくれるかもしれない。「悪い夢を見た」とでも言えば、誤魔化されてくれるかもしれない。


 だが、それでは何の解決にもならないことを、アルベルトは悟っていた。


「……話をしないか、カシアン。昼間の続きだ」

「――っ」


 アルベルトは、リリアの澄んだ声に最大限の威厳を込めて問うた。

 カシアンは、憤りに顔を歪める。


「……は、……そうかよ。やっぱり、お前、壊れてるんだな。……あの男に、壊されたか」

「いいや、壊れてなどいない。俺は至って正気だ。信じられないだろうが、昼間の俺の言葉はすべて真実なんだ。俺とリリアは今――」

「身体が入れ替わってるって? じゃあ逆に聞くが、お前は、俺とアルベルトの身体が入れ替わったと言われたら、すぐに信じられるのか? 信じられねぇだろ? ……少なくとも、俺は、無理だ」


 カシアンの、追い縋るような、切実な声。


「なあ、リリア。お願いだ。正気に戻ってくれよ。……あんな男のことは忘れて、俺の知ってるリリアに、戻ってくれ」

「……っ」


 目の前の男の瞳に揺れる、溢れんばかりの絶望。

 アルベルトは、胸の奥が焼けるような痛みを覚えた。


(……ああ、そうか。この男は、俺を憎んでいるんじゃない。リリアを愛しすぎているだけなんだ)


 長年、自分がいかに、彼女の孤独を放置してきたか。その結果が、カシアンの狂気の正体だ。

 カシアンの言葉は、アルベルト自身の過去の怠慢を突きつける刃となって、リリアの身体に深く突き刺さる。


「……悪いのは俺だ、カシアン。お前が怒るのも無理はない。だが、頼むから信じてくれ。今、屋敷にいるのはリリアなんだ。彼女は……慣れない俺の身体で、必死にお前の、ヴァロアの誇りを守ろうとしている」

「……んだよ。この期に及んで……まだ、あいつの肩を持つのか」


 カシアンの顔から、急速に温度が消えた。

 縋るような哀願は、一瞬で凍てつくような殺意へと変貌する。


「知ってるぞ。お前、茶会で夫人たちに言ったそうだな?『アルベルトからの愛など求めない』って……。その意味がわからないほど、俺は鈍くねぇんだよ。……なあ、リリア。あの男はお前を愛していない。なのに、こんな酷い目に合わされておいて、まだあの男が好きだって言うのか? 身体も心も壊してまで、側にいる価値が、あの男にあるって言うのかよ。そんなの――俺は、認めねぇ」

「……っ、確かに、そうだ。お前の言う通りだ。俺は、彼女にずっと酷い仕打ちを――」

「黙れよ、リリア!!」


 カシアンが拳で机を叩いた。盆の上のスプーンが跳ね、高い音を立てる。

 その瞳にあるのは、射殺さんばかりの鋭い光。その眼光が「妹を狂わせたアルベルトの虚像」へ向けられる。


「お前は今、病んでるんだよ! 正気じゃないんだ! ああ……可哀そうにな、リリア。心を壊すほど辛かったんだな。……俺への手紙も書けないくらい……辛い思いをしたんだろう。……自分のことも……わからなくなるほど……酷いことをされたんだな」

「――は。何を馬鹿な。……おい、カシアン、落ち着け。とにかく、話を――」

「黙れって言ってるだろッ! さっき司祭を呼んだ! 夜明けと共に、ここに来る! お前を『浄化』するためにな!」

「……司祭? 浄化だと?」

「そうだ。あの男に何をされたか。どんな呪いをかけられたか。……全部吐き出すんだ、リリア。そうすれば、お前の魂は浄化される。それで、全部元通りだ。……俺と一緒に、王都に戻ろう」

「――っ」


 カシアンは一歩、アルベルトへ近づいた。その瞳は、妹を想う狂気で満ちている。


「安心しろ、リリア。あの男には、俺がお前の分まで制裁を与えてやるから」


 ――制裁。

 アルベルトは戦慄した。


「駄目だ! 今の俺はリリアなんだぞ! お前はリリアを殺す気か!?」


 必死に止めようとするが、カシアンは少しも耳を貸そうとしない。彼は吐き捨てるように「俺が戻るまで、休んでろ」と言い残し、そのまま踵を返す。


「おい、カシアン! どこへ行く!」

「どこって、あいつのところに決まってるだろ? ほんとは夜明けを待って乗り込むつもりだったが……気が変わった」

「――!」


 アルベルトの背中に、嫌な汗が伝う。


「お前のその面情(かお)を見ていると、腕が疼いてしかたねぇんだよ。一刻も早くあの男の首を撥ねてやらなきゃ気がすまない。お前は、大人しくここで待ってろ」

「……っ、駄目だ、やめろ、行くな、カシアン! やめてくれ……!」


 アルベルトは縛られた身体を必死に揺らし、叫んだ。

 だが、カシアンは止まらない。彼はもはや、妹の言葉を「ノイズ」として切り捨てている。扉へ向かうその背中は、兄としての歪んだ正義感に塗り潰されていた。


(マズい……。このままでは、リリアが殺される。実の兄の手にかかって……彼女が、死ぬ……!)


 説得は無意味だ。理屈は通じない。なら、どうしたらいい。どうすれば、この男を止められるのか。

 アルベルトは必死に頭を回すが、もはやパニック状態だった。思考はまともに働かず、彼の唇が、反射的に言葉を放つ。


「悪かった、俺が全部悪かった! 謝るから行かないでくれ! 何もかも、お前の言う通りにする……お前が望むなら、俺はリリアを……彼女を解放すると約束する! 入れ替わりが解けたその時は、二度と彼女に近づかない。必ず、彼女をお前の元へ返すと誓うから!」


 アルベルトは、自分自身の喉から出ているとは思えないほど、必死な、情けないほどの悲鳴を上げた。


「だから、彼女には手を出すな! ……頼む、カシアン! 俺は、リリアを愛しているんだ!!」


 部屋の中に、重苦しい沈黙が落ちた。

 カシアンはゆっくりと振り返る。その顔には、嘲笑とも、憐憫ともつかない、歪な笑みが浮かんでいた。


「……愛してる、か。お前の口から、あいつへの愛の告白を直接聞かされるとはな。……反吐が出そうだ」


 カシアンは吐き捨てるように言うと、そのまま扉を閉め、外から冷酷に鍵をかけた。


「……待て、 カシアン! 待ってくれッ!! 行くな……! 行くな――!」


 廊下を去っていく、重い足音。

 絶望が部屋を満たす。


「……ああ、クソッ、止められなかった……。リリア、……逃げろ、リリア……! 逃げてくれ……」


 独りその場に取り残されたアルベルトは、リリアの華奢な身体を震わせるばかりだった。


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