Episode7. 乙女の恋心
「……何とか終わったわね。疲れたわ」
無事に軍議を乗り越えたリリアは、今、城の東棟三階にある執務室にいた。
ソファに深く身を預け、重い息を吐く。
――ノイシュタイン城。
北の国境に突き立てられた「鉄の楔」と称されるその城塞は、王都の優雅な宮殿とは対極の存在だ。
装飾を削ぎ落とした無骨な灰色の石壁。窓の外から絶え間なく響く、訓練中の騎士や兵士たちの掛け声。剣を打ち交わす金属音。軍馬の嘶き。
ここは美しさを競う場所ではなく、戦闘のために最適化された、まさに殺戮の揺りかごである。
逞しい男たちの声を遠くに聞きながら、リリアがソファで肩の力を抜いていると、ハンスが紅茶を運んできた。酒を好まないリリアのために、ハンス自らが淹れたお茶だ。
「先ほどはお見事でしたよ、リリア様。閣下なら机を蹴り飛ばし、紛糾していた場面でした。リリア様のそのしなやかさは、れっきとした武器になります。会議は閣下よりも、リリア様の方がスムーズに進みますね。……閣下は頭に血が昇りやすいので、宥めるのに苦労していたんですよ」
「ありがとう。想像できる気がするわ。……でも、あまりにアルベルトと違うから、変に思われていないかしら」
「それは問題ないでしょう。リリア様には元の閣下同様、不愛想に構えていただいておりますし。将軍らは基本的に皆、脳筋ですから」
冗談めかして眼鏡のブリッジを上げるハンスに、リリアは「ふふっ」と喉を鳴らした。紅茶を一口含み、「でも――」と小さく声を漏らす。
「アルベルトは本当に凄いわ。前公爵が戦死されて、もう七年。ずっと将軍たちと渡り合ってきたんだもの」
「……まあ、そうですね。ですが厳密に言えば、家督を継いだのは成人を迎えてからですから。今のリリア様の方がお若いですよ」
「そうかもしれないけど。彼が初陣を飾ったのは、十四のときでしょう? 私、今でも覚えてるわ。……そのときのこと」
――それはリリアがまだ九つの頃。
北の国境の情勢が危うくなり、十四のアルベルトは急遽出陣することになった。そのとき、王都にいたリリアの兄、カシアンの所属していた騎士団にも応援招集がかかり、リリアは兄とアルベルトのために、ハンカチに『守護』を意味するヒイラギの刺繍を刺した。
「カシアンお兄さま、このハンカチ、おまもりよ。一枚はお兄さまに……。もう一枚は、アルベルト様に渡してほしいの……」
兄が北の国境に向かうその日。リリアは馬上の兄に、二枚のハンカチを差し出した。
まだ十にも満たないリリアの、拙い刺繍。それはお世辞にも上手いとは言えなかったが、カシアンはとても喜んだ。そして、リリアの頭を優しく撫でてくれた。
「わかった、必ず渡す。安心しろ。俺もあいつも、必ず生きて戻るから。お前をひとりにはしないさ」
その時の、兄の心強い言葉に、リリアはどれだけ心を救われたか。
その後、北の情勢が落ち着いたとの続報が入るまでの数ヵ月――アルベルトと兄の無事が知らされるまで、どれほど心細かったか。
今では、アルベルトも、兄のカシアンも、百戦錬磨とたとえられるほどの騎士へと成長し、リリアが心配するようなことはなくなった。それでも、このノイシュタイン城で過ごしていると、いかにこの地が危険な場所であるかを思い知らされる。
同時に、この地を守るアルベルトが、どれほど偉大であるのかも。
(……そういえば、カシアンお兄様は元気にしているかしら)
――そんなことを考えていると、不意に、ハンスの声が飛んでくる。
「リリア様は、本当に閣下を慕ってくださっておいでなのですね。もし差支えなければ、閣下のどこが好ましいのか、お尋ねしても?」
「え……っ」
あまりにも唐突な問いに、リリアは素っ頓狂な声を上げた。
一体なぜ、急にそんな話題に……?
そもそも、どうしてハンスが自分のアルベルトへの想いを知っているのか。
「ハ、ハンス……貴方、気付いていたの?」
「ええ。他の方はどうか分かりませんが……リリア様は昔から、いつも閣下の姿を目で追っていらしたでしょう?」
「…………」
「ああ、申し訳ございません。別に、無理にとは……。ただ、常々不思議に思っていたのです。閣下は武人としては最強ですが、あまりにも無神経で、決して紳士とは言えないでしょう? 今朝も、無知ゆえのこととはいえ、リリア様に恥をかかせた。……王都で数多の貴公子を目にしてきたリリア様が、なぜ閣下に惹かれるのか、理由が分からないのです」
「!」
リリアの脳裏に、今朝のことが蘇る。
確かにハンスの言う通り、朝は驚いた。
アルベルトに月経を指摘され、顔から火が出るかと思った。けれど、リリアがそれ以上に驚いたのは、アルベルトがあんなにも自分の身体を案じてくれたことだ。
リリアはソファから立ち上がり、テラスに続く扉を押し開けた。五月の爽やかな風が吹き抜け、アルベルトの漆黒の髪を揺らす。
「……なぜ、と言われると、正直困るけれど。強いて言うなら、アルベルトの誠実なところが好きなんだと思うわ」
「誠実? 閣下がですか?」
ハンスは意外そうに眉をひそめる。
「そう。彼は昔から、自分の心に素直なの。貴方はよく知っていると思うけど、彼は誰にも媚びないし、婚約者の私にも容赦なかった。五歳年下の私を少しも子ども扱いしなくて……そういうところに惹かれたのよ」
「…………」
「ねえ、知ってる? 彼ったら、私と初めて会った日の夜、星の読み方を教えようとしたのよ。まだ四つだった私に。文字がようやく読めるかどうかの少女によ。信じられる?」
――アルベルトならやりかねないな、と思いながら、ハンスはリリアの話に耳を傾ける。
「……しばらくは、仲良くやっていたと思う。三人目の兄ができたみたいに、無邪気に慕っていたわ。でも、前公爵夫人がご病気で亡くなられて……。……私は幼くて、葬儀にも出させてもらえなかった。兄に教わって手紙を書いたりもしたけど、返事はなくて。久しぶりに会えたと思ったら、彼はすっかり口数が減っていて。……取り付く島もないまま、気付いたら疎遠になっていたわ」
あの頃、アルベルトの傍にいられたら、今とは違った未来があったのだろうか。
けれど、過去を悔やんでも仕方がない。それに、今、自分はアルベルトの隣に立っている。それだけで、十分だ。
「ハンス、私ね、今、毎日がとても幸せなの。アルベルトになり切るのは大変だけど、彼の苦労や立場を知れて、良かったと思ってる。まだ剣術や武術はできないけど……アルベルトに『私が必要だ』って、きっと言わせてみせるわ」
テラスから注ぐ温かな陽光を受けながら、リリアは突き抜けるような青空を見上げた。
ハンスは、決意を宿したリリアの横顔に、眩しそうに目を細め、恭しく礼を取る。
「このハンス・ヴェーバー、リリア様の閣下へのお気持ちを、しかと胸に刻みました。微力ながら、リリア様の恋を応援させていただきます」
「……ありがとう、ハンス」
――こうして、リリアとハンスの穏やかな午後は、何事もなく過ぎ――はしなかった。
二人の間に流れる平穏を切り裂くように、執務室のドアがノックされ、伝令係の声が響く。
「閣下! 屋敷から使いの者が来ております!」
「……使い?」
わざわざ屋敷から使いがやってくるなど、滅多にないことだ。
不審に思いながら入室を許可すると、立っていたのは(二人の入れ替わりを知らない)若い侍従だった。
彼は、慌てた様子で部屋に飛び込んでくると、リリアの前で崩れ落ちるようにして、震える声でこう叫んだ。
「旦那様! 今すぐ屋敷にお戻りを……! リリア様が……リリア様が、カシアン様に連れ去られてしまいました……!」




