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犬猿の仲の婚約者と身体が入れ替わってしまった 〜侯爵令嬢リリアと若き公爵アルベルトの男女逆転生活〜  作者: 夕凪ゆな
Stage3. 紅の洗礼

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Episode5. 鉄の沈黙と兄の独白


 扉が開くその瞬間、アルベルトは咄嗟に寝具へ潜り込んだ。

 逃げ場のないこの状況で、正体を悟られずにやり過ごす唯一の策――寝たふり。それは王国最強の騎士にとって、かつてないほど屈辱的な逃避であったが、同時に、これ以上事態を悪化させないための、最善の防衛でもあった。


(今、カシアンと話すのはリスクが高すぎる。……やり過ごすしかない)


 アルベルトは自身に言い聞かせ、固く瞼を閉じる。

 同時に、重い乗馬ブーツの音が近づいてきた。一週間かかる王都からの道のりを、馬で駆けてきたのだろう。カシアン・ド・ヴァロアが、静かにベッドサイドへ歩み寄る。


「……リリア? 寝てるのか?」


 カシアンは枕元に立ち、妹の顔を覗き込んだ。

 呼吸を、そして生存を確かめるように、カシアンの指先が、アルベルトの瞼にかかった前髪をそっと払い、血の気の引いた蒼白な頬を――慈しむようにそっと撫でる。


(……っ)


 刹那、男の指が肌を這う不快感に、アルベルトは変な声を上げそうになった。それを、寸でのところで、騎士の精神力でねじ伏せる。


 もし起きていることが知られたら、すべてが終わりだ。

 カシアンはリリアの兄であると同時に、王室騎士団の副団長。軽薄そうに見えて、その実、真面目で隙がない。言葉を交わせば、確実に自分がリリアでないことを見抜くだろう。

 そうなれば、『妹の気が狂った』と、王都に連れ戻されてしまう。それだけは、避けなければ。


「リリア? 起きろよ……なあ、リリア」


 視線が突き刺さる。カシアンの瞳が、じっと自分を――(リリア)を観察している気配がする。その重圧に、アルベルトは乱れそうになる心音を、必死に抑え込んだ。


 数秒が、永遠のように長い。沈黙が、静寂が、痛い。


 そんな中、カシアンはようやく「妹は深く眠っている」と判断したのか。ギィ……と椅子を引き、傍らに腰を下ろした。


(ようやく……信じたか)


 アルベルトは、内心で安堵の息をつく。

 一先ず、寝たふり作戦は成功だ。後は、カシアンが満足して部屋を出ていくのを待てばいい。

 ――だが。


「……リリア、お前は知らないだろうな。俺がどんな気持ちで、お前をここにやったかなんて」


 突然カシアンが呟いた一言に、アルベルトは思考を凍り付かせた。


 その声が、妹を案じる慈愛というより、まるで呪詛のような、深い怨嗟を宿しているように聞こえたからだ。


「なあ、リリア。……何でこんなに痩せてるんだよ。どうして、こんなになるまで俺に助けを求めなかった? お前の為なら、俺は何だってするつもりでいたのに……」


 妹は眠っていると信じているのだろう。

 カシアンの唇から、これまで溜め込んできた情念が、ここぞとばかりに溢れ出す。


「俺は、ずっと我慢してたんだぞ。お前が……お前が、あの男(・・・)を好きだって言うから……お前の意思を尊重しようと……最大限努力した。…………なのに……その結果が、これかよ」

 

 その声は、アルベルトに対する剥き出しの憎悪に震えていた。

 しかし、アルベルトが最も気になったのは、別のことだ。

 

(今、……『あの男を、好き』と言わなかったか?)


 アルベルトは、未だ、リリアに慕われていることに、露ほども気付いていなかった。

 だが、今、カシアンの言葉を聞き、ようやくその可能性に思い至ったのである。


(まさか、今のは……リリアが、俺を慕っている、と、そういう意味か? ……そんな馬鹿な)


 アルベルトは困惑する。


 誰とは明言されていない。けれど、文脈から考えると、『あの男』が自分であろうことは明白だ。


 だが、それでも信じられななかった。


 リリアが自分を好きだなんて、そんなはずはない。政略で結ばれ、言葉も交わさず、冷たくあしらってきた自分を、彼女が好きになる理由がない。


 ――とはいえ、リリアの兄であるカシアンの告白を、『勘違い』だと一刀両断するのも、無理がある。それに。

 

「こんなことなら、お前を手放すんじゃなかった。どんな犠牲を払っても、俺の手元に置いておくべきだったんだ。……あいつに、お前は相応しくない」


 ――『どんな犠牲を払っても』。


 その言葉に、アルベルトは喉元に刃を突きつけられた心地がした。


 ……同じだ。

 カシアンは、俺と同じなのだ。

 こいつは、この男は、俺と同じかそれ以上に、リリアを深く愛している。


「俺は、あの男を許せない。お前がこんなになっても、王都に連絡一つ寄越さない。……あんな非道な奴に、お前を任せてはおけない」


 カシアンの殺気が、物理的な重圧となってアルベルトを襲う。


 ――今、アルベルトの中にあるのは、カシアンに対する奇妙な「共感」と、耐え難いほどの自己嫌悪だった。


 カシアンの怒りは、自分自身の罪そのものだ。

 十七年もの間、リリアを家門の契約で縛り付け、北の地に呼び寄せた挙句、彼女が自分の隣にいる理由が「自分への好意であるかもしれない」ことに、気付こうともしなかった。

 つまり、カシアンが自分を憎むのは、当然のこと。


(分かっている。彼女には計り知れない苦労をさせてきた。……この男の言うように、俺がもっと早く彼女を解放していれば、こんなことにはならなかったんだ)


 それは、抗いようのない事実だった。

 もし、もっと早くにリリアを王都に帰していれば、この奇妙な入れ替わりも、彼女を危険に晒すこともなかったのだから。


「……でも、リリア。それでもお前は、ここにいるって言うんだろう? 俺が反対したところで、お前はあの男のために、自分のことはこれっぽっちも顧みず……。――けどな、リリア。もう我慢の限界だ。俺にだって、プライドってもんがあるんだよ。大事な妹を傷つけられて黙っていられるほど、俺は落ちぶれちゃいねぇんだ」


 カシアンは椅子から立ち上がり、リリアを抱き締めようとするかのように、身を乗り出した。――ベッドが軋む。

 アルベルトの背に、冷や汗が伝った。


 今すぐ目を開けて、暴走しかけているカシアンを止めるべきか。あるいは、このままカシアンの好きにさせるべきか。


 だが、もし目を覚ましてしまえば、リリアになり切らねばならない。

 それは、あまりにもリスキーだ。


 迷うアルベルトの耳元で、カシアンが確かな決意を込めて囁いた。


「安心して眠ってろ、リリア。……ヴァロアの名にかけて、俺が、お前をあの男から解放してやる。たとえお前に一生恨まれることになったとしても……俺は、あいつをこのまま生かしてはおけない」


(……っ! なんだと……!?)


 それは、妹を想う兄からの、明確な「宣戦布告」の意思だった。


 カシアンは最後に、アルベルトの額に深い接吻を落とした。妹への狂おしいまでの情愛と、それを傷つけた(アルベルト)への殺意と共に。



 ……扉が閉まり、廊下に響く足音が遠ざかっていく。

 アルベルトは、ようやく布団を跳ね除け、起き上がった。


「……っ、今の、言葉は……! あの男、まさか、リリアに決闘を挑む気か!?」


 アルベルトは確信した。カシアンは、リリアに決闘を申し込む気でいる。


「駄目だ……、それだけは駄目だ……!」


 確かに、今回の件は自分に責任がある。決闘を申し込まれても、それによって大怪我を……あるいは命を落とすことになったとしても、致し方ない。すべては自分が撒いた種なのだから。


 だが、問題は、カシアンが決闘を申し込もうとしている相手が、リリアだということだ。


「……止めなければ」


 もし、あの男がリリアに手袋を投げつけたら。そして、それをリリアが拾ってしまったら。その瞬間に、不可逆の決闘が成立してしまう。

 中身が乙女のリリアが、憤怒に狂う王国随一の騎士カシアンに勝てるはずがない。


(今すぐ城に早馬を出すか? いや、間に合わん……!)


 アルベルトの脳裏に、かつてない絶望がよぎる。リリアと、カシアンの決闘。それを阻止するために、自分は一体どうすればいいのか。


「――ああ、クソッ! こんなことなら、正体がバレる方が何百倍もマシだ……!」


 アルベルトはなりふり構わずベッドから這い出した。

 腹部の鈍痛が神経を苛むが、それどころではない。彼は裸足のままバルコニーへ走り、扉を荒々しく開け放った。


 眼下の中庭。今まさに馬にまたがろうとしているカシアンの背中が見える。

 アルベルトは、喉が裂けんばかりに、リリアの澄んだ声で、魂の叫びを張り上げた。


「行くな、カシアン!! アルベルトなら、ここにいる!!」


 その声は、王国最強の騎士がプライドのすべてを投げ捨てて放った、必死の「降伏」の叫びだった。


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