Episode2. 地獄の身支度
「さあ、リリア様。本日は王都からのお客様がいらっしゃいますから、気合を入れませんと」
「ひっ……!?」
三人の侍女たちが、獲物を狙う鷹のような手つきで、アルベルト(身体:リリア)に迫る。
アルベルトは、鏡の中のリリアの華奢な身体が、恐ろしいほどの力で脱がされ、洗われ、磨き上げられていくのを、絶対に直視せぬよう必死に目をつぶりながら、侍女たちのなすがままにされていた。
(……くそ、屈辱だ。着替え一つ、自分でまともにできんとは……。どうして女の服はこうも複雑なんだ)
下着を身に着け終えたアルベルトは、慎重に瞼を上げた。
鏡の中のリリアは、まるで高価な陶磁器のように光輝いていた。
白く透き通った肌、青色のアーモンドアイはサファイアのごとく輝き、薔薇色の唇は今にも吸い付きたくなるほど色っぽい。
その美しさと愛らしさに、アルベルトは思わず息をするのも忘れてしまいそうになる。
だが、そんな熱情は、きつく締め付けるコルセットの感触によって消し飛ばされた。
(……う……。……く、苦しい……。リリアは、いつもこんな物をつけているのか……? さっき食べた朝食が全部出てきそうだ……)
これでは剣を振るどころではない。――いや、俺は今、リリアだったな。
アルベルトは混乱しながら鏡の中の自分を見つめ、昨夜の記憶を苦く思い出す。
『……リリア。俺たちの婚約を破棄しよう。それが互いのためだ』
昨日、彼は淡々とそう告げた。
ノイシュタイン公爵領は、北の荒れた土地、雪ばかりの冷たい大地だ。花は咲かず、隣国との国境を守る最前線。王都の流行など半年遅れで届くような、武骨で寒々しいこの場所を、華やかな王都を好む彼女が愛せるはずがない。
何より、彼女は王太子セドリックと話す時、あんなに楽しそうに微笑むではないか。
俺のような無愛想な男との生活から、彼女を解放してやることが、唯一の愛の形だと信じていた。
あの後、直ぐに席を立ってしまったためにリリアの返事は聞けなかったが、あの瞬間、自分たちの関係は終わったはずだった。
――それがまさか、今、彼女の体でコルセットの苦しみに悶絶しているとは皮肉が過ぎる。
「……様! リリア様……!」
「――あ。……ああ、何だ」
「…………。リリア様、お顔が真っ青ですわ。それに、ずっとご様子もおかしいですし。……やはり昨夜、旦那様にあんなことを言われたショックで……」
「あんなこと……?」
「ええ! 成人まであと半年だと言うのに今更婚約破棄だなんて! ……大丈夫ですわ、お父上のヴァロア閣下は反対してくださいますから」
(ショック……だと? 喜んでいるの間違いだろう。彼女は俺と別れることを望んでいたはずだ)
アルベルトの困惑を余所に、侍女たちは無情にもドレスの仕上げにかかっていた。
*
一方、隣の主寝室では。
リリア(身体:アルベルト)が、かつてない人生の危機に直面していた。
(何よ、これ……。一体、どうすればいいの……!?)
侍女たちのいない独りの部屋。
リリアは、アルベルトの逞しすぎる下半身をどう扱ってよいか分からず、股間を抑えて半泣きで立ち尽くしていた。
用を足すにも、何をどう触れ、どう処置すればよいのか、淑女の教育には一文字も記されていない。男性器という「未知の器官」に対する恐怖と羞恥で、彼女の心はすでに限界だった。
さらに追い打ちをかけるのが、顎の感触だ。
(この顔に生えている砂利のようなもの……まさか、これが髭?!)
鏡の前で、彼女は己の顎を戦慄の面持ちで撫でる。
たった一晩。たった一晩経っただけで、男の顔にはこの様な産毛が生えるというのか。
リリアは、アルベルトが毎朝当然のように行っていた「髭剃り」という儀式に、殺意に近い恐怖を抱いていた。
おまけに、用意された軍服は鉄のように重い。肩には金糸のモール、腰には本物の剣。
「アルベルト……無理よ。私にはできっこないわ……」
リリアは力なく項垂れた。逃げ出したい。けれど、もし今日自分が閣議を欠席すれば、アルベルトの立場が悪くなる。王弟派の貴族たちに隙を与え、彼は破滅してしまうかもしれない。
(……貴方は毎日、こんな鎧を着て、戦っているの?)
リリアは、昨夜自分を拒絶した、彼の広い背中を思い出す。
婚約破棄を言い渡されたとき、とてもショックで、悲しかった。
でも、可愛げのないことしか言えない自分が全部悪いのだと思ったら、とても彼を責める気にはなれなかった。
けれど、今朝入れ替わったおかげで、彼と「普通に」会話ができた。あんな風に軽口を叩き合い、まともな会話が成立したのは、いつぶりだろうか。
(……この入れ替わりは、神様がくれたチャンスかもしれないわ。私が彼をしっかり支えれば、アルベルトも私を見直して、婚約破棄を考え直してくれるかも……!)
覚悟を決め、立ち上がろうとしたリリアの目に、机の隅の「真っ二つに折れたペン」が映る。
昨日の夕食の時は、まだアルベルトの胸ポケットに五体満足で収まっていたはずのペン。それが今は、無残にも二つに分かれている。
つまりこのペンは、夕食の後に折られたということだ。
彼は一体どんな顔で、どんな気持ちで、このペンを握りつぶしたのだろうか。
「旦那様、お急ぎください。馬車の用意ができております」
廊下の外から、執事の声が響く。逃げ場はもうない。
リリアは震える膝を気力で押さえつけ、アルベルトの低い声を作って短く答えた。
「……あ、ああ。……少し待て。すぐに、行く」
リリアはどうにか身支度を整え、急ぎ部屋を後にした。




