Episode3. アルベルトの絶叫
五月の朝。
北の辺境、ノイシュタインの地に、本格的な春が訪れていた。
王都では既に陽炎が立つ季節だが、この地ではようやく木々が若葉を芽吹かせ、山脈から吹き下ろす風に花の香りが混じり始める頃。
鏡の前で、リリアは慣れた手つきで軍服を整えていた。
逞しい肩幅、鋭い眼光。鏡に映る男は相変わらず威厳ある公爵、アルベルトそのものだが、中身はその婚約者、リリアである。
(……あれから、セドリックからは何の音沙汰もない。ちゃんと誤魔化し通せたみたいね。この入れ替わり生活もようやく板についてきたし、それに――)
セドリックが屋敷を去ってからの二週間は、リリアにとって奇跡のような安寧の日々だった。
その一番の理由は、アルベルトとの関係性が軟化したことだろう。
二週間前のあの日、リリアは知った。アルベルトは、自分を嫌ってなどいなかったことを。
――リリアは、セドリックが部屋を出ていった後の、アルベルトとの会話を思い出す。
『……何? 俺が、君を疎ましく思っていると? なぜそんな考えに』
『だ、だって……貴方ったら、話しかけてもいつもそっけないじゃない。それに、そうじゃなきゃ、婚約破棄なんてしないでしょ』
『――は。君こそ俺を嫌っていると思っていたが。だから俺は、君をこの不毛な地から解放しようと』
『……解放? 解放ですって? 私がいつ、そんなことを頼んだのよ』
『…………いや、確かに頼まれてはいないが』
『とにかく、私は一度もこの婚約を破棄したいなんて思ったことはないの! それだけは、知っておいて……!』
そこまで言って、恥ずかしさのあまりつい部屋から逃げ出してしまったが、これで、婚約破棄はなくなったはずだ。
それを証明するように、この二週間のアルベルトは、以前のように、入れ替わり解消の方法を血眼になって探すことはなくなった。
(好き……とは、まだ言えてないけれど。誤解は溶けたし、これから時間をかけて気持ちを伝えていけば、きっとアルベルトも……)
リリアは小さく期待の息を漏らし、食堂へと向かった。
爽やかな陽光が差し込む、朝食の席。
豪華な食卓を囲む二人の間には、穏やかな日常の空気が流れていた。
「……ハンス。今日の予定は」
リリアは、アルベルトの低い声を喉の奥で作って問いかける。背後に控えるハンスが、事務的な声を返した。
「午前はノイシュタイン城にて東部開拓地に関する会議、午後はヴァロア家からの交易品の決裁がございます。どちらも資料を作成しておきました。閣下はこちらの資料通りに判を押すだけです」
「そう。……ありがとう」
差し出された資料を眺める。筆跡は、半分がアルベルト、もう半分がハンスのものだ。
いつものように、二人が夜遅くまで執務室で作ってくれたものだろう。
(……私ももっと、仕事を覚えないと)
ハンスからは、事務仕事よりも先に、剣術を覚えるようにと言われている。乗馬はアルベルトの身体が覚えているが、剣術は反射だけではどうにもいかず、素振り程度しかできない。対人などもっての外だ。
その為、事務仕事まで追いつかないのが実情である。
リリアは資料の内容を一通り確認すると、正面に座るアルベルトに向け顔を上げた。
アルベルトは、リリアの身体で優雅に食後の紅茶を啜っている。その姿は、黙ってさえいれば、淑女そのものだ。
リリアはそんなアルベルトの姿に、引け目を感じずにはいられなかった。
(アルベルトはこんなにも私の身体を使いこなしているのに……もっと、頑張らなくちゃ)
――だが、その平穏は、唐突に崩れ去る。
正面に座るアルベルトの顔色が悪いことに、気付いたのだ。
「……アルベルト?」
カップをソーサーに置く、アルベルトの白い指先が、微かに震えている。
つい先ほどまで完璧な微笑を浮かべていたその顔からは血の気が引き、陶器のように白い肌は、今にも倒れてしまいそうなほど蒼白だ。
「どうしたの? 貴方、顔色が……」
リリアは思わず身を乗り出し、男の声で心配そうに声をかけた。
しかし、アルベルトは答えなかった。彼はまるで、目に見えない敵に致命傷を負わされた戦士のような顔で、自分の腹部を一度だけ見つめた。
「……悪い、少し、外す」
アルベルトは椅子の脚が床を鳴らすのも構わず、慌てて席を立った。
淑女の歩法も忘れ、何かに追い立てられるように食堂を飛び出していく。その足取りは、リリアの記憶にある「自分」の動きとはかけ離れた、切迫した重みを帯びていた。
「……どうしたのかしら」
ハンスと顔を見合わせるが、彼もまた、主人のあまりの狼狽ぶりに、眼鏡の奥で困惑の色を隠せずにいた。
静まり返った食堂に、時計の音だけが虚しく響く。
そして数分後。
バタン! と扉が蹴破るような勢いで開かれた。
戻ってきたのは、顔面蒼白どころか、もはや幽霊のように生気を失ったアルベルトだった。髪は乱れ、瞳は大きく見開かれ、呼吸は激しく乱れている。
彼はふらふらとした足取りで、驚くリリアの横を通り過ぎ、ハンスの胸ぐらに掴みかかった。
「い――医者だッ! 今すぐ医者を呼べ……ッ!!」
「!?」
リリアは、その悲鳴のような声に戦慄した。
かつて戦場で死線を越えてきたはずの最強の騎士が、今、自分の小さな身体を震わせ、絶叫している。
「リリアの身体がおかしいんだ……! 傷もないのに、股から、血が――血が、止まらない……ッ! ああ、俺は何ということを……! すまない、リリア……ッ、俺の不徳だ……!!」
その断末魔のごとく叫ばれた内容に、リリアは瞬時に意味を理解し――絶句した。
違う。それは怪我でも病気でもない、『月の障り』だ。
「――っ」
リリアは羞恥心のあまり耳まで真っ赤に染め、ぶるぶると悶絶する。
そんなリリアを前に、アルベルトはさらに顔を蒼くし、ハンスの頭をがくがくと揺り動かした。
「早くしろハンス! 医者を! 北部の名医を今すぐ全員かき集めるんだッ! 事は一刻を争う!」
「か……閣下……落ち着いてください、それは……決して、病気ではなく……」
「病気じゃない!? だったら何だと言うんだッ! 出血量を見もせずに、よくもそんなことが言えるな……! それでも騎士の端くれか、恥を知れッ!」
「…………」
――それは、清々しい五月の朝のこと。
ノイシュタイン公爵邸の穏やかな日常は、突如アルベルトを襲った「月の洗礼」によって、ある種の地獄と化したのである。




