Episode2. 王太子の劇薬
カシアンは、王宮の長い廊下を突き進んでいた。
途中、「ヴァロア家の人間」である彼に近付こうと、幾人かの官史たちに話しかけられたが、カシアンはそれを無難な笑顔であしらいながら、セドリックの私室へと向かう。
(殿下なら、今のリリアの本当の姿を見てるだろう。……正直いい気はしないが、殿下は昔からリリアにべったりだったからな)
セドリック・フォン・エシュリオン。七つ年下の、この国の王太子。
いつだって眩しいほどの光を放ち、周囲を惹きつけてやまないカリスマ性を放つ、将来仕えるべき聡明な主君。平民にも分け隔てなく接する彼は、国民たちからの人気も高い。
次期国王としての資質は十分すぎるほどで、その点においては、何ら不満を感じたことはなかった。
だが同時に、カシアンはそんなセドリックが苦手でもあった。
言葉も振る舞いも穏やかだが、どこまでも腹の底が見えないところ。何より、セドリックがリリアに時折向ける、慈しむような、あるいは独占欲を孕んだような眼差しが、兄として不愉快極まりなかったからだ。
(わかってる。俺のこれは完全な私情だ。……リリアを蔑ろにするアルベルトはともかく、殿下にこんな感情を抱くのは間違ってる)
カシアンは小さく首を振り、己の心を律した。
騎士団の制服を整えて、セドリックの私室の前に立つ衛兵に、謁見を申し込む。
すると、意外なほどすぐに中へ通された。
セドリックは、戻ったばかりの旅装を解くこともなく、窓から外の景色を眺めていた。流星を固めたような銀髪が、午後の陽光にきらめいている。
「……カシアン・ド・ヴァロアでございます。急な訪問にも関わらず、ご拝謁賜り感謝申しあげます、殿下」
カシアンがマントを翻し騎士の礼を取ると、セドリックはゆっくりと振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。
「やあ、カシアン。久しぶりだね、元気そうで何よりだ。今日の訓練は、もう終わったのかな?」
「ええ、滞りなく。……殿下もお変わりないようで、安心いたしました」
「カシアン、やめてくれよ。僕と君の仲じゃないか。そういう堅苦しい挨拶は抜きにして、本題に入ろう。君のことだから、当然、リリーのことを聞きにきたんだろう?」
「……っ」
(ほんと……抜け目のない男だな。全部お見通しってか)
カシアンは内心で舌打ちしながら、「ええ、まあ」と歯切れ悪く答えた。
するとセドリックは、僅かに肩をすくめ、優雅な所作でソファに深く腰掛ける。
「そんな顔をしないでくれよ。君がリリーをとても大切に思っていることは周知の事実じゃないか。――それに、王宮内で流れている噂については、僕の耳にも入っている。……『アルベルトとリリーの仲が冷え切っている』と」
「…………」
カシアンは眉をひそめた。
セドリックの冷静な態度。――それが酷く、カシアンの心をざわつかせる。
「……申し訳ありません。殿下にまで、ご心配を……」
「いや、君が謝ることじゃない。そもそもあの二人の不仲は、今に始まったことじゃないだろう?」
「…………それは、」
――それはつまり、『伯爵夫人』の流した噂は、事実だということか?
セドリックの言葉をそう解釈したカシアンは、拳を強く握り締める。
一方で、セドリックは黙り込んだカシアンを、蛇のような鋭い瞳で観察していた。
(……カシアン・ド・ヴァロア。……リリーを溺愛する兄……か。……このまま煙に巻いて帰すのは容易いが……)
セドリックの脳裏に、ノイシュタインで見た「入れ替わった二人」の姿が浮かぶ。
果たして、あの喜劇、あるいは悲劇を、この兄が知ったらどうなるだろうか。
ハンスからは固く口止めされている。当然、直接事実を伝えることは許されない。だが、「彼が自分自身で気付く」となれば話は別だ。
そもそも、今のノイシュタインの状況は危うい。アルベルトが「女の身体」で動けない今、現地には信頼に足る武力が必要だ。――リリアを溺愛するこの兄ならば、その武力に最適だろう。
そう考えたセドリックは、わざとらしく溜息をつき、酷く神妙な――悲し気な顔を浮かべてみせた。
「……でも、そうだな。リリーの兄である君には伝えておかないとね。実は、彼女、あまり体調が良くないようだった。初日の舞踏会で、僕とのダンスの後、倒れてしまったんだ」
「――倒れた? ……リリアが……?」
カシアンの碧眼に、激しい動揺が走る。
「ああ。突然気を失ってしまって……。それに……その後も……」
「…………その後? ――その後に、何があったのです!? 殿下!」
「…………」
「お答えください、殿下ッ!」
セドリックは、カシアンの剣幕に押されたように、歯切れ悪く、絞り出すように言葉を続けた。
「三日三晩、高熱で寝込んだんだよ。……きっと、随分、無理をしていたんだろうな。僕は王都に戻ろうと言ったんだけど……彼女は『アルベルトの傍にいる』って、聞き入れなくて……」
「――なッ」
「ああ、でも、このことは内密にしてほしい。リリーには固く口留めされているんだ。君を心配させたくないから、言わないでくれって」
酷く感傷的に顔を俯けるセドリックに、カシアンはまんまと騙された。
不調のリリアに無理をさせたであろう、アルベルトへの怒りと憤りに、激しく打ち震える。
(アルベルト――あのクソ野郎は何をしてる……ッ!)
そんなカシアンの反応に、セドリックは、心の中でニヤリと笑った。
導火線に火はついた。あとは、背中を押してやるだけだ。
「……そういえば、カシアン。君はここ半年以上、一度も休暇を取っていないと聞いたよ。副団長としての激務は理解しているが、たまには羽を伸ばしても誰も文句は言わないだろうに」
「…………は? 殿下、今は、そんなことを言っている場合じゃ……」
「いいや、重要だよ。……実はね」
セドリックはソファから立ち上がると、執務卓の引き出しから、一通の封書を取り出す。
「アルベルトに渡し忘れてしまった、『大事な手紙』があってね。非常に重要なものなんだが、これを届ける使いが、あいにく見当たらなくて困っていたんだ。……そうだ、ちょうど休暇を取る予定の君が、届けてくれると助かるんだけど」
カシアンはハッとした。
セドリックの瞳は「これは命令だ」とも、「これはお前のための大義名分だ」とも取れる、深淵な光を宿している。
「……殿下。それは、つまり……私に『リリアを連れ戻せ』と?」
「僕はただ、『お使いを頼みたい』と言っているだけだよ。それ以上のことは、僕の預かり知らぬところだ。何せ、これは『非公式なお使い』だからね」
「――っ」
カシアンは、その場に平伏した。
セドリックの真意は測りかねる。この男はただ、リリアを手に入れるために、自分を利用しようとしているだけかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。これで、大手を振ってリリアの元へ行ける。
「……謹んで、拝命いたします」
「ああ、期待しているよ、カシアン。君の顔を見ればきっと、リリーの気持ちも少しは休まるだろう。……彼女の心を、どうか癒やしてやってくれ」
「――は」
カシアンは騎士の礼を取ると、封書を奪う様に受け取り、脱兎のごとく駆け出した。
(待ってろ、リリア。すぐに、お前を地獄から救い出してやる……! ……お前を泣かせる奴は、俺が絶対に許さない!)
カシアンの背中は、あっと言う間に扉の向こうに消える。
その背後で、王太子セドリックが独り言を漏らしたのを、彼は知る由もなかった。
「……さあ、次の舞台の始まりだ。君がこの苦難をどうやって乗り越えるのか、……楽しみだね、アルベルト」




