Episode1. 王都の春
暖かい王都の春。
王宮に隣接する王室騎士団の演習場には、快活な声が響き渡っていた。
「――おらおら、足が止まってるぞ! そんなんじゃ戦場に出た瞬間、敵さんに喉笛を差し出すようなもんだ! 死にたくなきゃ動け、動け!」
団員たちに発破をかけるのは、騎士団の副団長、カシアン・ド・ヴァロア――リリアの兄である。
彼はこの国の物流を一手に担うヴァロア侯爵家の次男で、二十七歳。今年十八になる妹リリアとは、十歳の年の差があった。
リリアと同じ、陽光を透かしたような眩い金髪をラフに散らし、碧眼を細めて笑う姿は、一見すると放蕩息客のような軽薄ささえ感じさせる。
しかし、実際の彼は、部下たちの名前を一人残らず把握し、その家族の安否まで気遣うほどの細やかな配慮ができる男だった。部下の悩みを聞き、愚痴に付き合い、泥にまみれて訓練に励む「頼れる兄貴分」として、圧倒的な人望を集めている。
「エリック! どこを狙ってる、剣先が浮いてるぞ!」
「副団長! もう限界です、休憩を……!」
「はあ!? お前、戦場でも同じことを言うつもりか!? 喋れる余裕あるなら身体を動かせ、甘えんな! ほら、あと百回!!」
「そんなあ……!」
部下たちは悲鳴を上げながらも、どこか楽しげだ。
カシアンもまた、そんな部下たちを率いることに大きな喜びを感じていた。
しかし、そんな彼にも、悩みがあった。
訓練を終え、演習場を離れた彼は、執務室へ向かう建屋の廊下を進みながら、一人小さく息を漏らす。
(……リリアからの手紙が、来ない)
そう。それこそが、ここひと月の彼の最大の悩みだった。
ヴァロア侯爵家の末娘、リリア・ド・ヴァロア。カシアンの妹である彼女は、今より丁度七ヵ月前、北の辺境、ノイシュタインへと渡った。婚約者のアルベルト・フォン・ノイシュタインのもとで、一年間の花嫁修業をするためだ。
そんな彼女は、これまでは月に一度、必ずカシアンに近況報告という名の手紙を送ってくれていた。
内容は「私は元気にやっています。お兄様もお体に気を付けて。お怪我などしませんように」というような無難なものだったが、その手紙の到着が、今月は遅れている。それが、カシアンは気がかりで仕方なかった。
(まさか、体調を崩しているとか……? リリアは昔から身体が弱いからな。北部の冬は、妹の身体には過酷だろう。それとも……)
執務室に着いたカシアンは椅子に腰かけ、山のような書類を捌きながら、先日参加した夜会でどこからともなく聞こえてきた、夫人たちの醜悪な会話を思い出す。
『ねえ、聞きまして? ヴァロア家のリリア様のお話。閣下との仲が冷え切っているとか』
『あら、でも、今に始まったことじゃないでしょう? お二人の関係は政略だもの。それに閣下は、冷血漢で有名じゃない』
『そうだけど、今度ばかりはちょっと違うみたいなの。先日北を訪れた夫人の話によると、リリア様ご自身が、閣下からの愛など不要だ、と宣言なさったとか。あの大人しい方がそこまで仰るなんて、異常じゃなくて?』
(……リリア。あの噂は、本当なのか? 確かにアルベルトは冷たい男だが、お前はあの男を好いていたじゃないか。……だから俺は、泣く泣くお前を北部にやったんだぞ)
カシアンは、手にしていた書類をぐしゃりと握りしめる。
彼にとって、リリアは単なる妹ではなかった。
ヴァロア侯爵夫妻――彼の両親は、典型的な政治的人間だ。
彼らにとって次男のカシアンは、嫡男が万が一欠けた時のための予備であり、そしてまた、リリアはノイシュタイン家という巨大な軍事力を繋ぎ止めるための鎹、あるいは「美しい装飾品」に過ぎなかった。
そんな二人に、両親の愛が注がれることはない。
そもそも、カシアンは、愛など期待したこともなかった。
食事の席で目が合うことすら稀な、冷え切った家庭。熱を出して伏せっていても、両親は社交を優先し、看病どころか、見舞いにすら訪れない。
そんな家の中で、唯一自分の名前を呼び、兄と慕ってくれたのが、十歳年下の妹、リリアだった。
自分と同じ「政略の道具」として扱われる小さな妹。だが、彼女だけが、自分を一人の人間として扱ってくれる。
そんな妹を、愛さないはずがなかった。
彼はリリアのためならなんだってした。
夜が怖いと泣くリリアに絵本を読み聞かせ、眠るまで側にいた。
礼儀作法に厳しい家庭教師に叱られ泣いているリリアを連れ出し、庭の隅で泥だらけになって遊んだこともあった。
両親がリリアの誕生日よりも社交を優先したとリリアの侍女から連絡を受けたときは、寄宿学校の寮から抜け出し、リリアの元へ駆けつけた。部屋の隅で涙を殺し、膝を抱えて震えていた小さな背中を思い出すと、今でも心臓が張り裂けそうになるが――そのとき、彼は誓ったのだ。
両親がリリアを愛さないならば、その愛の全てを、自分が肩代わりする。
それがカシアン・ド・ヴァロアの、人生における至上命題だったのである。
――だが、そんなリリアが、今、アルベルトに冷遇されているかもしれない。
考えるだけで、吐き気がしてくる。
しかし、カシアンは理解していた。
リリアとアルベルトの婚約は、建国以来保たれてきた『血の盟約』。自分には、どうすることもできない。
「……クソッ、……リリア」
彼は、手の中の書類を更に強く握りつぶし――ようやくハッとして、くしゃくしゃになった書類を広げ直す。
「…………これは、書き直しだな」
はあ、と盛大な溜め息をつき、椅子の背に深く身体を預けた。
その時だ。
不意に窓の外に目を向けたカシアンの視線の先に――王宮の門を入ってくる一台の豪奢な馬車が映る。
「……あの馬車、殿下の」
(そういえば、殿下は二週間、ノイシュタインに滞在予定だったな。……今、戻ったのか?)
瞬間、カシアンはハッとし、椅子を蹴立てて立ち上がった。
――そうだ。リリアのことなら、セドリックに聞けばいい。
カシアンは壁にかかった騎士団正装用のマントを掴み取ると、急ぎセドリックの元へと向かった。




