Episode9. 不遜な救済
その男は、部屋の中にある絶望の濃度など、これっぽっちも理解していないような顔で入ってきた。
「ああ、リリー! 目が覚めたんだね、良かった! 僕は君が心配で心配で、夜もまともに眠れなかったよ!」
セドリックは、寝台に横たわるアルベルトの元へ駆け寄ると、その細い手を大仰に取って、感激に震える声を上げた。
三日間、死を覚悟したほど憔悴していた部屋の空気が、王太子の身勝手なまでの生命力に塗りつぶされていく。
「……で、殿下。申し訳ありません。ご心配をおかけして……」
「いいんだよ。そもそも、君が倒れたのは僕のせいなんだから。謝らなきゃならないのは、僕の方だ」
「……い、いえ。そんな。謝罪など……」
「いいや、謝らせてほしい。今回ばかりは僕が悪かった。まさか僕の仕掛けた『ちょっとした悪戯』が、君をこれほど傷つけてしまうなんて思わなかったんだ」
セドリックは言いながら、アルベルトの姿をしたリリアをちらりと一瞥した。
するとリリアは、腑に落ちないという顔をする。
そもそも、リリアはアルベルトが倒れたことを自分のせいだと思っていた。それに、三日前、アルベルトのセドリックの間で、どんなやり取りが行われたのか何一つ知らない。
それが、『ちょっとした悪戯』のせいで、アルベルトが倒れたとは、一体どういうことなのか。
セドリックは神妙な顔を浮かべ、迷いなく言葉を継ぐ。
「本当にごめんね、リリー。いくら振りとはいえ、僕は君の唇を奪おうとした。いくら幼馴染だからって、僕が君にした行為は、決して許されるものじゃない。……君が倒れて、ようやくそのことに気付いたんだ。君の淑女としてのプライドを傷付けて、本当に申し訳なかったと思っている」
「――ッ」
「これまでのことも、全部謝るよ。『兄妹同然』だなんて言って、君につきまとって済まなかった。君の反応が可愛くて、つい意地悪をしてしまったけど……君が僕を迷惑に思っていること、ずっと前から知っていたんだ。でも、君は優しいから……僕の手を振り払えないと分かっていながら、僕は君に甘えていた。けど、もう終わりにするよ」
セドリックはそこまで言うと、アルベルトの手をそっと放し――立ち上がる振りをして、アルベルトの耳元に唇を寄せた。リリアには聞こえないほどの低音で、そっと囁く。
「――だからって、君の恋を応援したりはしないけどね。彼は生粋の堅物だ。精々頑張るんだよ、リリー」
「……っ!?」
「じゃあ、僕はそろそろ王都に戻るよ。ハンス、馬車の用意は?」
「既に済んでおります。荷物も全て運び込み終えた頃でしょう」
「そう。――じゃあ、またね、二人とも。見送りはハンスに頼むから、君たちはゆっくりしていてくれ。……次に会う時は、もっと僕を楽しませてくれると嬉しいな」
最後にそう言い残し、セドリックはハンスと共に颯爽と去っていった。
扉が閉まる乾いた音が響き、静寂が訪れる。
だが、その静寂は先ほどまでの「死の沈黙」とは似ても似つかぬ、困惑と熱を帯びたものだった。
アルベルトは、寝台の上で茫然と宙を見つめていた。
耳の奥で、先ほどのセドリックの囁きが何度も繰り返される。
(……『応援はしない。精々頑張れ』だと? しかも、あの男、『リリアから迷惑に思われているのを知っていた』……とか言わなかったか?)
これは一体どういうことだ?
リリアは、セドリックに失恋したのではなかったのか?
失恋のせいで彼女は憔悴したと思っていたのに、それ自体が間違いだったと? つまり、リリアの好きな男は、別にいるということか?
(……いや、だが、失恋ではないとしたら、どんな理由で、彼女はこんなにも……)
不意に、先ほどのリリアの嗚咽が蘇る。
――『このままずっと、あなたが目覚めないんじゃないかって、本当に心配したんだから……!』
(……まさか。あの涙は、彼女の真実だったとでもいうのか? 彼女が、本心から俺を心配してくれていたと?)
アルベルトは一瞬かあっと顔を赤らめたが、すぐに、ブンブンと首を振る。
(――いや、勘違いするな。彼女はただ、自分の身体を心配していただけ。……ただ、それだけなんだ)
アルベルトは、「期待するな」と自信に言い聞かせながらも、速まる鼓動を抑えることができなかった。
一方、傍らに立ち尽くすリリアもまた、衝撃に凍り付いていた。
(……セドリックが、私の唇を奪おうとした? あの男、本当に何をしてるのよ……信じられない!)
だが、それと同時に、別の感情も込み上げる。
(でも、待って。……ということは、アルベルトが倒れたのは、私の気持ちを知ったからではなかったの? ……淑女としての私を守ろうとして、セドリックの不敬に憤ったから……?)
あの日、温室で何があったのか、本当のところは分からない。だが、セドリックの告白を信じるならば、アルベルトは「婚約者であるリリアの名誉」を守るために、己の限界を超えるほどの怒りと心労を抱え、その結果として倒れた――ということになるのではないか。
(嫌われていなかった……。アルベルトは、私のことを……迷惑だなんて、思っていなかった……?)
――いや、確信はできない。
セドリックの『そろそろ素直になったらどうか』という言葉の意味は、まだはっきりしていないのだから。
しかし、それでも。
「…………アルベルト、……今の話……もう少し、詳しく説明してもらえる? 殿下に口づけされそうになったって……本当?」
おずおずと問いかけると、アルベルトはびくりと肩を震わせた。
「…………あ、ああ。……だが、口づけと言っても『ぬいぐるみを使った悪戯』で……」
「なら、どうしてあの日、逃げるように出て行ったの? 私、聞いたわよね、あなたに、セドリックと何かあったのかって……。あの時、すぐに話してくれなかったのは……どうして?」
リリアの心臓が早鐘を打つ。
アルベルトの瞳が、気まずそうに視線を逸らした。
「それは……あの男が……君を『妹』だと言ったから……。俺は、てっきり君があの男に失恋したのだと思ったんだ。これを伝えたら、君が傷付くだろうと考えたら……どう伝えていいのかわからなくなった」
「――!」
(私が……傷付くと思った? だからアルベルトは言わなかったの? 私のために、躊躇ったってこと……?)
「だが、どうやら俺の勘違いだったようだな。……早とちりしてすまなかった。今回は油断したが、次は、こんなことにはならないようにする。安心しろ、リリア。君の貞操は、俺がちゃんと守る」
「……っ」
窓の外から、鳥のさえずりが聞こえる。朝日が、等しく二人を照らし出す。
リリアは、高鳴る鼓動を抑えられなかった。自分の為に、アルベルトは口を閉ざした――ということは、少なくとも、彼に嫌われてはいない。それだけは、確かだった。
「……ねえ、アルベルト」
「…………何だ、リリア」
「私たち、もう少し、お互いのことを知った方がいいと思わない? ……この入れ替わり生活のためにも」
「……そうだな。どうやら俺たちは、思っている以上に、互いのことを何も知らないらしい」
まだ、全ての霧が晴れたわけではない。むしろ、「期待」という新たな深い迷路に、足を踏み入れてしまったのかもしれない。
けれど、これまで長年の間二人の間に横たわっていた深い谷は、不遜な王太子の悪戯によって、跡形もなく埋め立てられたのである。




